大正・昭和レトロな公共建築物 その2

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ページID1052455  更新日 2026年10月1日

市政資料館と公会堂の写真画像

大正から昭和初期にかけて建設され、現在も名古屋の歴史とまちなみを象徴する近代公共建築として親しまれているレトロな建物を、全2回にわたってご紹介します。第2回目は、名古屋市庁舎や愛知県庁舎より前に建てられた、旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(名古屋市市政資料館)と名古屋市公会堂を取り上げます。

旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(名古屋市市政資料館)

名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎建設の経緯

明治時代の裁判所と現在の裁判所

明治維新後、日本では近代国家づくりが進められ、それにあわせて司法制度も整備されていきました。
1871年(明治4)に司法省が設置され、1875年(明治8)には現在の最高裁判所にあたる大審院が設置されました。
その後、1889年(明治22)の大日本帝国憲法の発布を経て、1890年(明治23)に裁判所構成法が施行され、全国に大審院、控訴院、地方裁判所、区裁判所からなる近代的な裁判所制度が整えられました。

名古屋控訴院と名古屋裁判所の写真画像
名古屋控訴院(中区丸の内二丁目)と 名古屋地方裁判所(東区東外堀町)

明治時代の大日本帝国憲法の下の裁判所と、現在の日本国憲法の下の裁判所では、司法権のあり方や裁判所の独立性に違いがあります。しかし、裁判所の基本的な役割には共通する部分もあります。

現在の裁判所に当てはめると、大審院は最高裁判所、控訴院は高等裁判所、地方裁判所は地方裁判所、区裁判所は簡易裁判所にほぼ対応しています。
一方で、現在は日本国憲法の下で新しく家庭裁判所が設けられています。家庭裁判所は、離婚や相続、少年事件など、家庭や家族に関する問題を専門に扱います。

このように、現在の裁判制度は、最高裁判所の権限や司法の独立がさらに強化されるとともに、家庭裁判所が新設された点が大きな特徴です。

合同庁舎の建築

『大正6年(1917年度)第38回帝国議会予算明細書』によると、

「名古屋控訴院地方裁判區裁判所建築費 名古屋控訴院の現在の庁舎は明治11年(1878)に建てられたもので、建物の構造が不十分で使い勝手が悪く、狭いうえに、土台や柱の腐食や傾きが進み、維持が難しい状態になっている。また、名古屋地方裁判所と区裁判所の庁舎は、大正元年(1912)に応急措置として控訴院の敷地へ移築したものであるが、こちらも狭く業務に支障をきたしている。そのため、総額32万円かけて、これらを統合した新庁舎を4か年の継続事業として建設する計画を立て、本年度分として8万円を予算計上した。」

という記録があります。この記録から、初めに名古屋控訴院が、1878年(明治11)、現在の本町橋交差点の西南角(丸の内二丁目4)幕末の時代では、町方役所があった場所に建てられたようです。
その後、1882年(明治15)に名古屋地方裁判所と名古屋区裁判所が、東外堀町(現在の市政資料館の場所)に建てられています。

明治43年の地図の画像
1910年(明治43)ごろの地図

明治43年の地図をみると、控訴院と二つの裁判所の位置関係がわかります。
記録では、1912年(大正元)に地方裁判所と区裁判所は応急措置として控訴院の敷地へ移転したとあります。
移転の理由は、控訴院と二つの裁判所の位置がかなり離れていて業務上不便だったためのようです。
しかし、控訴院の敷地に三つの裁判所がひしめき合う状態であったため、地方裁判所と区裁判所が元にあった土地に合同庁舎を4年かけて建築することとなったようです。

旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所の写真画像
旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所(合同庁舎)年代不詳

1922年(大正11)、「名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」が開庁しました。

市民の声で守られた歴史の建物

戦後、合同庁舎は、老朽化と手狭さが問題となり、1979年(昭和54)に、高等裁判所、地方裁判所、簡易裁判所、家庭裁判所は、現在の裁判所合同庁舎の場所(中区三の丸一丁目4)へ移転しました。

裁判所が移転を計画した際に、旧庁舎を取り壊し跡地を公園とする計画がされました。
しかし、この建物は赤れんが造りの優れた近代建築として高い価値を持っていたことから、市民の間で保存を求める声が高まりました。
これを受けて名古屋市は、建物をどのように保存し活用するかの検討を開始しました。
その後、有識者による検討の結果、この建物を保存しながら、市民が利用できる資料館として活用することが望ましいと提言されました。

市政資料館の写真画像

名古屋市は国と協議を進め、1984年(昭和59)に国有財産の無償貸付を受けるとともに、建物は国の重要文化財に指定されました。
さらに、文化財保護法に基づき、名古屋市がこの重要文化財の「管理団体」に指定され、保存と公開を担うことになりました。
その後、名古屋市は建物の保存修理と改修を進め、1989年(平成元)10月に名古屋市市政資料館として開館しました。

裁判所の合同庁舎は、もともと国の裁判所として使われていましたが、その歴史的な価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。
そして、名古屋市が国から建物を借りて管理・運営することになり、名古屋市市政資料館として生まれ変わりました。

市政資料館では、歴史ある建物を大切に保存しながら公開しています。
また、名古屋市の歴史や昔の公文書を後世に伝える施設として、多くの人に親しまれています。

名古屋市公会堂

鶴舞公園を代表する歴史的な建物

名古屋市公会堂の写真画像

名古屋市公会堂は、鶴舞公園内にある歴史的な建物です。1930年(昭和5)、昭和天皇のご成婚を記念して建てられました。設計は名古屋市が行い、多くの建設会社が工事を担当しました。

鶴舞公園のシンボル

噴水塔と公会堂の写真画像

鶴舞公園は1909年(明治42)に開園しました。公園内には「噴水塔」と「奏楽堂」があり、名古屋市公会堂はその北側に建てられています。公会堂と噴水塔は、公園の景観をつくる大切な建物となっています。

戦後も受け継がれた建物

戦後、公会堂はアメリカ軍に使用されましたが、その後名古屋市に返還されました。返還後は設備の改修や修理が行われ、2019年(平成31)には耐震補強を含む大規模な改修工事が完了しました。

昭和初期の建築を今に伝える

建物の外観は落ち着いた茶色で統一され、丸いアーチや窓が特徴です。内部には大きなホールがあり、その周りに集会室や和室が配置されています。創建当時の姿を大切に残しており、昭和初期の代表的な建築として高く評価されています。

大ホールを中心とした工夫

建物の内部には、1階から3階まで続く大きな吹き抜けのホールがあります。その周りに集会室や和室が配置され、多くの人が集まって活動できるよう工夫されています。当時としては最新の建築技術が使われ、市民の文化活動や集会の場として親しまれてきました。

今に残る貴重な文化財

何度も改修が行われましたが、建設当時の姿はよく残されています。名古屋市公会堂は、昭和初期の公共建築の特徴を今に伝える貴重な建物として、高く評価されています。

名古屋市公会堂写真画像

昭和初期を代表する建築の美しさ

建物は鉄骨鉄筋コンクリート造でつくられています。外観は落ち着いた茶色のタイルで仕上げられ、最上階の大きなアーチや丸みを帯びた角、半円形の窓などが特徴です。これらのデザインはヨーロッパのロマネスク建築の影響を受けており、重厚で落ち着いた雰囲気を生み出しています。

レトロな魅力が残る名古屋の公共建築

日本の近代建築

日本の近代建築は、明治維新後の近代化政策のもとで西洋の建築技術や様式を取り入れながら発展しました。鉄道や港湾の整備、産業の発展に伴って建築需要が高まり、伝統と西洋文化を融合した多様な建築が生み出されました。
明治時代の初めから明治政府は、欧米諸国に追いつくため、お雇い外国人の建築家や技術者を招き、建築教育や技術者の育成を進めていました。

明治から始まった近代建築

明治時代、日本には西洋の文化や技術が取り入れられました。その象徴の一つが西洋風の建築です。名古屋でも駅や役所、学校などに新しい建物が建てられるようになりました。

当時の大工たちは、西洋建築を見よう見まねで学び、日本の伝統的な技術と組み合わせて建物を造りました。このような和風と洋風が混ざった建築を「擬洋風建築」といいます。

名古屋では、大工棟梁の伊藤平左衛門が擬洋風建築の名手として活躍し、学校や役所などの建設に携わりました。

その後、赤れんが造りの建物や本格的な西洋建築が増え、名古屋の街並みは大きく変化していきました。こうした近代建築は、文明開化とともに発展する新しい時代の姿を人々に伝える役割を果たしました。

旧愛知県庁舎と旧名古屋市庁舎の写真画像

九代目伊藤平左衛門が、建設に携わった、左)旧愛知県庁舎と右)旧名古屋市庁舎

西洋建築を学んだ建築家たち

明治の初期の頃から、日本では西洋の建築技術を学ぶための教育が始まり、本格的な建築家が育てられるようになりました。最初は大工による擬洋風建築が中心でしたが、その後、外国人建築家から学んだ日本人建築家が活躍するようになります。

名古屋の近代建築を代表する人物が、建築家の鈴木禎次です。鈴木は西洋建築を学び、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)で後進の指導にあたるとともに、多くの建物を設計しました。

代表作には、鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂、銀行や商業施設などがあります。また、名古屋で初めての高層建築の一つである7階建ての北浜銀行を設計し、近代都市・名古屋の発展に大きく貢献しました。

鈴木禎次をはじめとする建築家たちの活躍により、名古屋には近代的な建築が次々と建てられ、新しい都市の景観が形づくられていきました。

噴水塔と奏楽堂の写真画像
鈴木禎次が設計した、鶴舞公園の左)噴水塔と右)奏楽堂

建築技術を試した博覧会

明治時代の終わりから昭和初期にかけて、名古屋では多くの博覧会が開かれました。博覧会は、新しい商品や機械、文化を紹介する大きなイベントで、人々に新しい知識を広めるとともに、産業の発展にも大きく役立ちました。

博覧会の会場には個性的な建物や展示館がつくられ、新しい建築技術や都市づくりのアイデアを試す場にもなりました。そこで生まれた技術や工夫は、その後の名古屋のまちづくりにも活かされました。

1910年(明治43)、第10回関西府県連合共進会が、現在の鶴舞公園を会場として開かれた時に、「鶴舞公園噴水塔」が鈴木禎次の設計によって造られました。ローマ様式の噴水塔はその完成度が高く、列柱はドリス式を用い、水は最上部まで揚げて、8本の突起部から自然に落水させています。

建物とくらしから見る近代の名古屋

大正時代から昭和初期にかけて、名古屋は人口が大きく増え、東京・大阪に次ぐ大都市へと発展しました。百貨店や映画館などが次々と登場し、多くの人が買い物や娯楽を楽しむようになりました。

こうした都市の発展にあわせて、国は名古屋控訴院地方裁判所区裁判所を建築し、名古屋市や愛知県もモダンなデザインの公共施設を次々と整備しました。さらに、鉄筋コンクリート造の学校や近代的な名古屋駅も整備され、便利で安全な都市づくりが進められました。

住宅では、西洋風の生活を取り入れた「文化住宅」が注目されました。応接間や食堂を備えた新しい住まいに憧れる人が増えましたが、多くの家庭では和風と洋風を組み合わせた暮らしが続いていました。

この時代の名古屋は、建物やくらしが近代化し、人々の生活が大きく変化した時代でした。

(建築の肖像 名古屋市市設建築100年誌 より)

レトロな魅力が残る名古屋の公共建築

左から、市政資料館、市公会堂、愛知県庁舎、名古屋市役所庁舎の画像

明治から昭和初期にかけて発展した名古屋の近代建築は、まちの成長とともに歩んできました。

今回紹介しました、旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所(現在の名古屋市市政資料館)、名古屋市公会堂、愛知県本庁舎、名古屋市役所本庁舎は、歴史的価値が高く、レトロな魅力を今に伝える公共建築物です。

これらの建物は、名古屋の近代化の歩みを知ることができる貴重な財産として大切に受け継がれています。

このページに関するお問い合わせ

中区役所 区政部 地域力推進課 地域の魅力向上・多文化共生の推進担当
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