金山駅周辺のまちの記憶

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ページID1050094  更新日 2026年6月29日

金山エリアは、古代の寺院を中心としたまちから、街道の結節点、鉄道交通の拠点へとその時代ごとの社会や人の流れに応じて発展してきた地域です。

町名の由来

金山神社の画像

金山の町名は、金山神社に由来します。神社の起源は、承和年間(834年から848年)にさかのぼり、神宮御用鍛冶であった尾崎家の祖・尾崎善光が、屋敷内の鍛冶場に金山彦命を守護神として勧請したことによると伝えられています。

その後、平安時代末期には、この一帯は「鍛冶が森」と呼ばれるほどの樹林地帯であり、熱田神宮に関係する鍛冶師が居住していました。このことから、金山は尾張鍛冶の発祥地とされています。

安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて、金山鍔(つば)と呼ばれる鉄製の刀装具がつくられていました。(なごやの地名より)

まちの歴史

尾張元興寺

尾張元興寺(がんごうじ)は、現在の金山総合駅から西へ数百メートル、商業ビルが立ち並ぶ市街地(正木4丁目)の中に、約1300年以上前にかつて存在した古代寺院です。
熱田台地の西の縁に位置し、創建当時は干潟や伊勢湾を望む場所にあったと考えられています。
建立されたのは7世紀中頃から後半とされ、尾張地域で最も古い寺院の一つです。
また、『日本記略』によると、884年に尾張国分寺が焼失した際、「願興寺(がんごうじ)」がその役割を引き継ぎ、「国分金光明寺」とされたと記されています。
この願興寺が尾張元興寺にあたると考えられており、当時から重要な寺院であったことがわかります。(名古屋市博物館より)

この地にあった願興寺(尾張元興寺)は、戦国時代に現在の中川区牛立町へ移転しています。

元興寺で発掘された水煙の図

1999年(平成11)、尾張元興寺跡発掘調査で、五重塔の最上部の相輪の飾り物の「水煙」(すいえん)が、地面に突き刺さった状態で発見されました。
水煙の出土は、五重塔の最上部である高い所から落下し地中に突き刺さった状況であると推定され、この発見は、ここに荘厳な五重塔がたっていたことが推定できるようになったという、やはり、この地方の国分寺クラスの重要な寺院であることが考えられそうです。(名古屋市中区誌より)

 

佐屋街道

佐屋街道道標

金山駅の南西、金山新橋交差点の南西角に古い道標が立っています。
四角い柱で、それぞれの面に「東 右 なごや 木曽海道」「西 右 宮海道 左 なごや海道」「南 左 さや海道 津しま海道」「北 文政辛巳年六月」(文政4年は、1821年)と刻まれています。

佐屋街道は1626年(寛永3)、徳川家光公が京都へ向かう途中、熱田宮宿から七里の渡しを利用して桑名宿へ向かいました。しかし、家光公は船酔いをしてしまったため、できるだけ陸路で桑名宿へ行けるようにと、この街道が整備されたといわれています。

杉原千畝(すぎはら ちうね)

杉原千畝は、小学生時代から旧制中学校時代にかけて名古屋に住んでいました。
1907年(明治40)、父・杉原好水が桑名税務署から韓国統監府(当時韓国に置かれた官庁)へ単身赴任することになり、千畝は桑名から東古渡町(現在の市民会館から古沢公園付近)にあった税務監督局の官舎へ転居しました。小学生だった千畝は、古渡尋常小学校(現在の榊森白山社付近)に通いました。

1912年(明治45)、古渡尋常小学校を卒業した千畝は、愛知県立第五中学校(現在の名古屋市立瑞穂ヶ丘中学校の場所)に進学し、1917年(大正6)に卒業しました。
この間、家族が東古渡町の官舎から転居したため、千畝は八幡村八熊(現在の中川区五女子一丁目)にある叔父の家へ移り、第五中学校へ通っていたとされています。

千畝の名古屋での生活は第五中学校卒業までであり、その後、家族のいる東京へ転居しました。

明治43年頃の地図
1910年(明治43)発行の地図
  • 中央の大きな白丸が税務局の施設
  • 小さな白丸は、古渡尋常小学校
  • 西の赤丸が、五女子の叔父宅
  • 東の楕円赤が、第五中学校

金山を通った路面電車

名古屋のまちと熱田港を結ぶ交通機関が必要とされ、名古屋電気鉄道が、1908年(明治41) 栄町、熱田停車場前間を開通させました。
この路線を敷くために、名古屋市と名古屋電気鉄道が予算を出し合い、大津通の拡幅工事を行っています。
熱田線は、距離も長く交通需要が多いため営業収入は増加しました。名古屋電気鉄道は熱田線によって本格的企業として態勢を整えました。(名古屋鉄道百年史)

杉原千畝は、第五中学校への通学に熱田線を利用していたのかもしれません。

戦災復興直前まであった国の機関

明治の地図と昭和の地図の比較
1910年(明治43)発行と1985年(昭和60)発行の地図の比較

明治の地図を見ると、明治時代の金山付近には、専売支局・税務管理局・税務署のほか、専売支局のたばこ製造所が置かれていたことがわかります。
これらは現在の市民会館と古沢公園の位置にあたります。

現在、古沢公園の北側には、旧専売局を前身とする「日本たばこ産業株式会社 愛知支社」があり、明治時代に置かれた国の機関の名残を今に伝えているといえます。

  • 1889年(明治22)国税徴収法が施行されその後、愛知県庁(南武平町)内に税務部署が置かれます。
  • 1896年(明治29)、国の機関として税務管理局、税務署が整備され、1900年(明治33)、愛知県庁内から金山に設置されました。
  • 専売支局・専売支局煙草製造所は、煙草専売法(1904年(明治37)施行)で、国の機関として税務機関のあった金山に置かれたようです。

戦災復興事業によるまちづくり

金山体育館、古沢公園、市民会館

完成した市民会館の画像
市民会館 1972年(昭和47)

明治時代から設置されていた各税務機関は、戦災によって焼失しました。
その後、戦災復興事業や金山総合駅計画が進められる中で、税務機関は官庁街へ、専売局の工場は工業地域へと移転しました。 そして、その跡地には名古屋市の公共施設が整備され、現在のまちの姿が形づくられました。

  • 1950年(昭和25)に開催される第5回国民体育大会に向けて「金山体育館」が、建設されました。国体ではバスケットボールの試合会場として使われ、その後も大相撲の名古屋場所が開かれるなど、大きな体育大会の施設として市民に親しまれていました。
  • 1955年(昭和30)、金山体育館の北に「古沢公園」が整備されました。
  • 1968年(昭和43)、熱田区六野に名古屋市体育館(翌年新設)が建設されることとなり、金山体育館は役目を終えました。
  • 1972年(昭和47)、名古屋市人口200万人突破を記念し、文化施設「名古屋市民会館」が開館。体育施設の跡地に、「芸術文化の振興および市民福祉の向上を図るため」の施設として市民会館が誕生しました。ここでは音楽コンサートや演劇などの催しが盛んに行われ、金山エリアが文化芸術のまちとして位置づけられる契機となりました。
  • 2025年(令和7年)には「名古屋市新たな劇場の基本計画」が策定され、市民会館を新たな劇場として整備する方針が示されました。

 

金山総合駅の整備

愛知県の鉄道のはじまり(名古屋、武豊港間)

愛知県で初めて敷設された鉄道である武豊線は、東京と神戸を結ぶ鉄道建設に必要な資材を海外から輸入し、武豊港から工事現場へ運ぶために建設された路線です。1886年(明治19)3月1日に武豊駅、熱田駅間が開通しました。
同年4月1日、鉄道は熱田駅から清洲駅まで開通しました。鉄道路線は熱田台地を横断して名古屋方面へ延び、金山を経由して敷設されました。

色別標高図

熱田台地を越える工夫の掘割工事

当時の機関車は、熱田台地を登るための力が十分ではありませんでした。そのため、台地の幅が狭い場所を掘り下げる「掘割工事」が行われました。掘割とは、地面を低く掘って傾きを緩やかにし、列車が無理なく走れるようにする工事のことです。

熱田台地の周りの標高は約1〜3メートルであるのに対し、熱田台地は約8〜10メートル以上あり、大きな高低差がありました。このため、台地を横断する距離をできるだけ短くする必要があり、金山付近が最も適した場所とされ、掘割工事によって鉄道が敷設されました。

金山は、このように熱田台地を掘り下げて線路を通した場所ですが、金山に駅が設けられたのは昭和時代になってからのことです。

その後、金山を通った鉄道

1900年(明治33年)、名古屋駅―多治見駅間の中央西線が開通し、金山の掘割を通して敷設されました。

伏見通から金山総合駅を見る画像
「お堀電車」は、かつて名古屋城のお堀を通った瀬戸電が有名ですが、掘割工事でつくられた金山の空堀を通る電車は、「お堀電車」と呼ばれていません。

まちの賑わいの始まり、名鉄金山駅(金山橋駅)

名鉄名古屋本線

1935年(昭和10)、名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併によって誕生した名古屋鉄道には、旧名古屋電鉄(岐阜から枇杷島間)の西線と旧愛知電鉄(豊橋から神宮前間)の東線という、名古屋市内に乗り入れていた東西両路線を結びつけるという大きな課題がありました。

1941年(昭和16)、新名古屋駅―西枇杷島駅間が開通し、岐阜方面から名古屋駅まで到達しました。
1944年(昭和19)、神宮前駅―新名古屋駅間が開通し、豊橋から名古屋駅までが一本の路線で結ばれました。これにより、三河・尾張・美濃地方にまたがる大規模な鉄道網が完成し、現在の名鉄名古屋本線のもとができました。また、この路線も金山の掘割を通して敷設されました。

金山に鉄道駅が誕生

東西線連結の時、金山駅が設けられました。しかし、金山駅は単なる途中駅ではなく、東西の路線をつなぐための乗り換え駅として設けられたものです。当時、東西の路線は電圧が異なっていたため、列車は金山駅で折り返し運転を行う必要があり、そのための乗り換え駅としての役割が与えられました。
1945年(昭和20)、金山駅は金山橋駅に改称されました。
1948年(昭和23)、西線が1,500 Vに昇圧され、乗り換えの必要のない直通運転が始まりました。

1946年(昭和21)名鉄は、駅舎に面した通り沿いに「名鉄金山橋マーケット」を開業しました。生鮮食品を市価より安く販売し、その後、加工食品や生菓子、雑貨、玩具などへと取扱品目を拡大し、まちのスーパーマーケットとして定着していきました。
駅の近くは、終戦直後であるにも関わらず近くの波寄町などで住宅が増加し、商店も立ち並ぶようになり、金山のにぎわいが次第に形成されていきました。(名古屋市史第6巻・名古屋鉄道社史)

金山橋駅があった場所
名鉄「金山橋駅」があった場所。
右(北側)のクリーム色の建物の辺りから手前仕切りがされている辺りが駅の場所でした。

金山総合駅の構想

名古屋市が、1946年(昭和21)3月に発表した「名古屋市復興計画の基本」に、「国有鉄道及び地方鉄道の乗り入れ部分は総て高架又は地下とし街路との平面交差を除去せんとす。」「省線熱田駅の旅客は金山に貨物は笠寺に移転し、この区間を高架線に至急改良されんことを望む。」という項目がありました。
同年7月「復興土地区画整理事業」が決定し、これによって中央線高架化のための用地確保は、復興土地区画整理事業によって進めることが可能となりました。

翌年、愛知県・名古屋市・商工会議所・国鉄名古屋鉄道管理局・岐阜工事局・名鉄・近鉄によって構成された鉄道復興計画委員会により、「金山総合駅基本構想」が決定されました。これにより、金山に国鉄の駅が設置されることが正式に決まりました。

しかし、国有鉄道及び地方鉄道の乗り入れ部分は総て高架又は地下とし、、、について事業化が進まず、10年後の国鉄の中央線複線立体化計画を待つこととなりました。

金山総合駅前広場構想の画像
金山総合駅前広場構想(名古屋市復興局)
1958年(昭和33)の地図
1958年(昭和33)

国鉄金山駅の開業

1957年(昭和32)、国鉄は中央線の複線立体化計画とこれに伴う千種・金山各駅の配線計画を決定しました。
これは、名古屋市が中央線の複線立体化を国鉄に要望したことを受けたものです。これに対し国鉄は、財政状況が厳しいことから、工事費の負担(全体の約半額)および用地取得・債権処理を名古屋市が担うことを条件に回答しました。名古屋市はやむなくこの条件を受け入れ、その結果として本計画が実現しました。

1962年(昭和37)、名古屋市が工事費を全額負担し、国鉄金山駅が誕生・開業しました。

1969年(昭和44)金山の画像
1969年(昭和44)西側から写した航空写真 左が北側

市営交通の集結

1950年(昭和25)、建設省により「名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網」が発表されました。これは、名古屋の地下鉄路線網の原型を定めたものであり、このうち2号線は栄町から金山を結ぶ計画とされていました。

1967年(昭和42)には地下鉄2号線の栄駅、金山駅間が開業し、1968年(昭和43)には市電(栄、金山橋間など)の廃止に伴い市バス路線が拡充され、駅前広場にバスターミナルが整備されました。

さらに、1971年(昭和46)には地下鉄2号線の金山、名古屋港間、1974年(昭和49)には地下鉄4号線の金山、新瑞橋間がそれぞれ開業しました。

このように、市営交通も金山に集結し各方面へのアクセスが充実しましたが、東海道線の駅は未整備であり、名鉄と国鉄・地下鉄との間には約300メートルの隔たりがありました。そのため、交通ターミナルとしての機能が十分ではなく、不便さの残る状態にありました。

1985年(昭和60)の地図の画像
1985年(昭和60) 金山総合駅が出来る前

金山総合駅開業からのまちづくり

金山総合駅誕生

1989年(平成元)7月、名古屋市制100周年記念事業を契機として金山総合駅が開業しました。
総合駅構想は、開業の40年以上前に戦災復興計画の中で生まれ、復興土地区画整理事業により名古屋市が確保してきた駅北・駅南の用地が、ようやく一体的に活用されることとなりました。

線路で分断されていたこれらの用地は連絡橋によって結ばれ、市営地下鉄(当時の2号線)・JR中央線・名鉄本線・JR東海道線の上を、駅北と駅南から自由に行き来できるようになりました。
そして、各路線間の乗り換えは大きく改善され、交通結節機能が飛躍的に向上しました。

総合駅開業前、金山駅の1日当たりの乗降客数は約17万人でしたが、開業後は、2004年(平成16)の名城線環状化や2005年(平成17)の中部国際空港開港の影響もあり増加を続け、近年では2023年(令和5)の推計で48万人以上(金山駅周辺まちづくり計画による)とされています。
現在では、市内有数の交通結節点として機能し、名古屋駅に次ぐ中部圏第2位の規模を持つ駅となっています。

金山総合駅の画像
開業時の金山総合駅の図(広報なごや1989年6月)

金山のまちづくりの本格化

1990年(平成2)金山駅前地区開発構想の公表。金山総合駅北口駐車場を開設。

これまでは、JR金山駅や名鉄金山橋駅が立地する北エリアを中心に、駅を核としたにぎわいが形成されてきましたが、総合駅の開業を契機として、駅南北が一体となったまちづくりが本格的に進められるようになりました。

金山南ビル

1999年(平成11)、金山総合駅南口に金山南ビルが誕生しました。
金山総合駅南の市有地を活用し「賑わいの創出」をテーマとして、金山のまちのランドマーク、地区のシンボルとなるように、134.5mの高層ビルが完成、当初は「美術館棟(名古屋ボストン美術館)」、まちづくりの拠点「名古屋都市センター」、人が集まり、ふれあう「ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋」、公共駐車場「金山駅南駐車場」で構成されているビルとなりました。

アスナル金山

2005年(平成17)、アスナル金山が開業しました。この年、「愛・地球博(愛知万博)」が開催されています。

駅と一体となったこの施設は、バスターミナルやタクシー乗り場、駐車場などを含む交通機能を備えており、駅からの人の流れをスムーズに受け止める空間となっています。また、乗り換え時の時間調整や待ち合わせの場として利用されるほか、音楽ライブなどのイベント開催により、多くの人が訪れるにぎわいの拠点となっています。

さらに、アスナル金山の開業により、金山北エリア(アスナル金山)と金山南エリア(金山南ビル)のにぎわいがつながり、金山一帯としての広がりのあるにぎわいが形成されました。

金山駅周辺の現状とまちづくりの展開

現在の金山駅周辺は、駅北側の広場に出ると商業施設「アスナル金山」とつながり、人々が集まりにぎわいのある空間が広がっています。
一方、南広場では、マルシェやストリートパフォーマンス、各種イベントが開催され、北側とは異なる魅力を持つにぎわい空間が形成されています。

また、金山総合駅は、市内のみならず県外からのアクセスにも優れた位置にあるため、中部国際空港や名古屋駅に直結する「中部圏の交通ハブ駅」として重要な役割を担っています。昭和期の乗り換え駅から大きく発展し、現在では中部圏の主要拠点の一つとなっています。

このように発展した金山は、さらに、地理的な好条件、交通ハブ駅としての機能性を生かして、2017年(平成29)「金山駅周辺まちづくり構想」がまとめられ、2025年(令和7)「金山駅周辺まちづくり計画」が策定されました。

金山の歴史と交通拠点としての発展

金山は、時代ごとの社会変化に合わせて姿を変えながら発展してきた地域です。
古代には願興寺を中心にまちが形成され、近世には佐屋街道の起点として交通の要所となりました。
近代以降は鉄道整備により拠点性を高め、戦後の金山総合駅の開設を契機に交通の要所として周辺のまちづくりが進みました。
現在は、市内有数の交通結節点として中部国際空港に直結する、中部圏の重要な駅として機能しており、今後もリニア開業を見据え、名古屋の主要な拠点としてのまちづくりが進められていきます。

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