中区で辿る織田信長
中区で辿る織田信長ゆかりの地
1560年6月12日(永禄3年5月19日)は、桶狭間の戦いが起こった日です。
この戦いでの勝利によって織田信長は全国にその名が知られるようになり、以後、大名として大きく躍進していきました。
桶狭間の戦い以前、少年期から青年期にかけての信長は、那古野の地に居住していました。
那古野で成長した信長
那古野神社(天王坊)
那古野神社は、名古屋城ができる前、信長の居た頃から、現在の金シャチ横丁義直ゾーンの南、東海農政局のある敷地辺りにありました。

1532年(天文元)に那古野合戦の兵火で焼失しましたが、1539年(天文8)に信長の父織田信秀により再建され、名古屋村の氏神とされていました。(提灯お賽銭の箱などに織田家の家紋がついています。)
名古屋城を築城する時に、当初は城の敷地の外へ移す予定でしたが、徳川家康の配慮で引っ越しはなくそのまま置かれました。
また、三之丸にあるため、「三之丸天王社」とも言われるようになりました。
明治になって「須佐之男社」(すさのおしゃ)と社名をかえ、その後、現在の地に移され、1899年(明治32)「那古野神社」(なごやじんじゃ)と名称を改めました。
那古野城(城主織田信長)
織田信長は、のちに徳川家康が築いた名古屋城の前身にあたる「那古野城」の城主であった時期があります。
江戸時代の記録である『金城温古録』には、名古屋城築城以前の城下一帯を描いた図が収められています。その図の中央部には、「古城跡 本丸今川氏豊居之 附郭柳丸(那古野城の別名)」との記述があり、この記述に付された破線部分を那古野城跡と推定しています。
現在の名古屋城周辺は、古くから那古野荘と呼ばれる荘園として存在しており、室町時代には今川名児耶氏が支配し、その後は駿河の今川氏の勢力下に置かれ、那古野城が築かれていました。
父・織田信秀が津島から名古屋方面へ勢力を伸ばし、今川氏からこの地を奪取した後、信長は父から那古野城を与えられました。(名古屋城公式ウェブサイト名古屋城の歴史より)
古渡城(信長元服)
信長の父信秀は、名古屋へ進出した際に古渡城を築いて、拠点を勝幡城から古渡城に移しました。
1546年(天文15)信長満12歳の時、古渡城において元服の儀式が行われたと伝わっています。
東別院

古渡城は、父信秀が末森城を築いて移ったため廃城となり、その後は城が築かれることはありませんでした。跡地にはその後、寺院が置かれました。
1690年(元禄3)、尾張徳川家二代光友公が、「名古屋御坊」建立のため古渡城跡地を寄進しました。
1702年(元禄15)、名古屋御坊本御堂が建立されました。
明治時代、名古屋御坊は何度か名称が変更され、1876年(明治9)に「名古屋別院」と改称されました。現在の正式名称は「真宗大谷派名古屋別院」といい、地域では親しみやすい呼び名として「東別院」「お東さん」と呼ばれています。
名古屋城築城前の万松寺(うつけ者と呼ばれる信長)
中区錦二・三丁目、丸の内二・三丁目、桜天神社付近一帯には、名古屋城築城に伴って現在の場所へ移転する以前の万松寺が、広い範囲にわたって存在していました。
織田家の菩提寺であった万松寺は、織田信長が「うつけ者」と呼ばれるきっかけとなった逸話の舞台としても知られています。父・信秀の葬儀に当初出席していなかった信長が、場にふさわしくない身なりのまま式の途中で突然現れ、抹香をつかんで父の位牌に投げつけたと伝えられています。
徳川家康と万松寺
徳川家康が幼少の頃(竹千代)に織田家の人質として尾張にいた時、熱田の加藤図書助順盛屋敷や万松寺などで暮らしていたという話が伝わっています。
加藤清正と万松寺
加藤清正が名古屋城築城のために滞在していた場所が万松寺であったことを、『尾張名所図会』で紹介しています。

万松寺(織田信秀が織田家の菩提寺として開基)
織田信長の父信秀が織田家の菩提寺として、現在の桜天神社あたりに創建されました。
1610年(慶長15)名古屋城築城の際、現在地に移りました。
画像提供 亀岳林万松寺
政秀寺(功臣平手政秀を弔う)
若き日の織田信長の守り役として、死をもって諫めた平手政秀の菩提を弔うため、信長が、1553年(天文22)、小牧山の南の小木村に建立しました。
1584年(天正12)小牧・長久手の戦いで焼失しましたが、翌年、清須にて再建されました。
1610年((慶長15)、清須越しで、現在地に移ってきました。

桶狭間の戦い(中区のまちを駆け抜けた信長)
織田信長が、桶狭間の戦いに出陣する際、熱田社(現在の熱田神宮)で戦勝祈願を行い、勝利後、そのお礼として土塀(信長塀)を寄進したという話はよく知られています。
他にも各地において、信長が戦勝祈願を行ったと伝えられる場所が存在しています。
日置神社(信長の戦勝祈願)
桶狭間の戦いに際して織田信長が日置神社で戦勝祈願を行い、その御礼として千本の松を植えたことから、神社は「千本松日置八幡宮」と呼ばれるようになったと伝えられています。
また、この松にちなみ、現在の門前町や橘一丁目・二丁目周辺は「千本松原」と称されるようになり、松原小学校や松原学区の地名の由来にもなっています。

松原緑地(信長の戦勝祈願)
日置神社に近い松原緑地にある、かつて「くすのきさん」と呼ばれていた大楠(弘法大師お手植えと伝えられるクスノキ)に対しても、信長が戦勝祈願を行っていたという話が伝えられています。
清須越しの信長ゆかりのお寺
名古屋城築城、名古屋開府に伴い、「清須越し」が行われ、信長が清須城にいたころのお寺などが名古屋へ移ってきています。
天寧寺(信長祈願の故事が残っている)
室町時代後期、清須城下で開創され、清須越しによって現在地に移ってきました。
仏・法・僧の三宝の守護神、三宝大荒神(さんぽうだいこうじん)が有名なお寺です。
織田信長が、わが子の健やかな成長を祈願した故事にちなみ、「守鶏(しゅけい)絵馬」の奉納祈願が行われています。
守鶏絵馬は、願い事を雄鶏の絵馬に書いて奉納し、その願いがかなった際には、雌鶏の絵馬にお礼を書いて改めて奉納するという習わしです。

功徳院(鋳鉄地蔵)
1555年(天文24)、鋳物師(いもじし)水野太郎左衛門により鉄地蔵菩薩立像が造立され、功徳院の本尊として安置されました。
鉄地蔵が造られた由来については、織田信長が鉄砲の弾を鋳造した際に残った鉄を用いて作らせたものと伝えられています。
この鉄地蔵は高さ132センチメートルの大きな地蔵尊で、1940年(昭和15)、「重要美術品等の保存に関する法律」による当時の国の指定文化財でしたが、1945年(昭和20)の空襲により、惜しくも功徳院の建物の焼失とともに熔解してしまいました。
鋳物師の水野氏は、1571年(元亀2年)に織田信長から、鋳物をつくる仕事を独占してよいという特別な許可を与えられていました。
水野氏は、信長から受けた権利について徳川の時代にも続けて認められており、尾張藩内では水野氏の許可を得ず、鐘・鰐口・鍋・釜などを売買することは禁止されていました。
写真提供:功徳院
鋳物と鋳物師
鋳物とは、金属を加熱して溶かし、型に流し込んで冷やし固めて作る金属製品のことです。日本では古くからこの技術が用いられ、弥生時代には銅鐸・銅鏡・銅剣などの青銅製品が作られました。
古代から中世にかけては、仏像や梵鐘、灯籠など、宗教や祭祀に関わる製品が多く製作されました。さらに近世になると、茶釜などの文化的用途に加え、砲弾や大砲といった軍事用の鋳物も作られるようになりました。このように、鋳物は長らく国家や宗教、武家文化に関わるものが中心でした。そのため、鋳物の技術は為政者に保護され、これを担う技術者は「鋳物師」と呼ばれていました。
しかし近代に入ると、技術の発展とともに用途が広がり、鍋ややかん、土瓶などの生活用品が大量に生産されるようになり、鋳物は庶民にとって身近な存在となりました。
總見寺(織田信雄が父のために創建)
天正年間(1573から1592)に織田信雄(おだのぶかつ)が、父信長の菩提を弔うため清須に創建。
清須越しで現在に移転しました。
所蔵の信長公画、旧清州城壁画など9点の県の指定文化財があります。

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