芭蕉たちが名古屋で生み出した「蕉風」
蕉風発祥之処(しょうふうはっしょうのところ)

1684年(貞享元)冬、松尾芭蕉が、名古屋の俳人岡田野水、山本荷兮等と歌仙を興行し、「木枯の身は竹斎に似たる哉」を発句した著名な「冬の日」は、蕉風発祥の第一声を放ったものですが、それを記す「蕉風発祥之処」と刻まれた碑が、テレビ塔北東脚前に建てられています。
今回は、名古屋で生まれた「蕉風」についてご紹介します。
野ざらし紀行
1684年(貞享元年)、松尾芭蕉は、深川(東京都江東区の町)の芭蕉庵から旅立ち、伊勢、伊賀、大和、吉野、大垣、桑名、熱田、名古屋を訪れた後、伊賀上野に帰郷して、京都へはいり、江戸へ帰宅する約8か月の旅をしました。芭蕉が、旅の様子や俳諧を記録したものが後に「野ざらし紀行」として紹介されています。
野ざらし紀行直前の芭蕉は、大火事で芭蕉庵が焼失し焼け出されたり、新しい芭蕉庵に入った後には母の他界という悲壮な出来事が続いたところでした。
この旅は、母の墓参りと帰郷を主な目的としながら、芭蕉の友人や門人との交流、師匠の居る京都に立ち寄るなど、様々な心情がある中、各地の人々と出会いながら俳諧を創作し、芭蕉の人生の転機となった旅と言われています。
野ざらしを心に風のしむ身哉(のざらしを こころにかぜの しむみかな)
秋十とせ却て江戸を指古郷(あきととせ かえってえどを さすこきょう)
蕉風の発祥(冬の日)
1684年(貞享元年)、旅行中(野ざらし紀行)の松尾芭蕉と尾張国の俳諧連衆(山本荷兮、岡田野水、加藤重五、坪井杜国、正平、高橋羽笠など)が集まり、俳諧連歌などの歌の会が催されました。
この時に詠まれた句を山本荷兮(やまもとかけい)によって編集され「冬の日」は、発刊されました。(貞享元年)
冬の日は、当時の俳諧の人々に「蕉風」という新風を送るものとなり、後の俳人によって、芭蕉の「蕉風開眼の書」と呼ばれる俳諧撰集となりました。
芭蕉が名古屋へ訪れて行われた俳諧の会は、現在のテレビ塔の東北脚の辺りにあったとされる「傘屋久兵衛宅」で行われていたそうです。
芭蕉は、熱田に住む林桐葉(はやしとうよう)という友人の家に泊まり、約2か月間、傘屋久兵衛宅へ通い俳諧を詠む会に参加したり、尾張の俳諧人を門人として指導など行っていたそうです。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉(こがらしの みはちくさいに にたるかな)芭蕉の発句
「竹斎」は、江戸初期に「仮名草子」(かなまじりの文芸)で発刊された物語のことで、主人公の竹斎は、江戸から旅に出た藪医者という設定で、物語は滑稽な筋書きになっており、名古屋にも滞在した場面も描かれています。
芭蕉は、自分を竹斎になぞらえて名古屋へ訪れました、というあいさつを発句にしたそうです。
蕉風の確立
野ざらし紀行の旅から帰った翌年(1686年貞享3年)に芭蕉は、「古池(ふるいけ)や蛙(かわず)飛び込む水の音」を発句しました。
この句は、蕉風俳諧を確立した句(芭蕉の俳諧が芸術のものとなって完成した最初の作品)として有名な俳句となりました。
俳諧七部集
「冬の日」発刊の後、その続編とされる「春の日」や「曠野(あらの)」という俳諧撰集も山本荷兮によって発刊されます。
その後、芭蕉が発表した句が含まれた俳諧撰集の「ひさご」「猿蓑(さるみの)」「続猿蓑」「炭俵」の4集も発刊されました。
その4集と冬の日、春の日、曠野の3集と合わせて「蕉風ベスト作品集」とされる「俳諧七部集」という撰集にまとめられ、芭蕉七部集とも呼ばれるものとなりました。
尾張の俳諧について
熱田神宮には俳諧連歌資料が数多く残されています。その古いものは1631年(寛永8)の五十韻をはじめとして寛永13年に至っては俳諧連歌万句の興行が行われ、その原懐紙が今も残っています。(新修名古屋市史第三巻第6章熱田の町の人々)
もともと、尾張の地には熱田の法楽連歌の風習があり、十七世紀初頭、法楽連歌が法楽俳諧に移行し、この法楽俳諧を温床として尾張の俳文芸が形成されました。尾張には築城以前に俳諧の下地があったため、庶民の生活にゆとりが生まれ、識字率が上昇したこともあいまって、俳諧は庶民の文芸として普及しました。貞門から談林、さらに蕉風へと俳風の主流は移り、尾張徳川家の家臣で、隠居後も俳人として活躍した横井也有により、尾張でも庶民の文芸である俳諧が、闇斎学の素養ある武士の自己表現の具として取り入れられていることが確認できます。(新修名古屋市史第三巻第11章近世前期の文化)
このように、尾張の俳諧は、芭蕉が名古屋に訪れる1684年(貞享元)以前から俳諧が普及しており、芭蕉を迎え歌仙(うたせん)と言われる俳諧の催しなどが行える素地があったようです。
<解説>俳句と俳諧について
- 俳句は、俳諧の句、五七五の十七音を定型とする短い詩で連歌の発句の形式を継承したものです。(広辞苑)
- 俳句は、明治中期、正岡子規の俳諧革新運動以後に広まった呼称であるが、江戸時代以前の俳諧の発句を含めて呼ぶこともあります。(広辞苑)
- 俳諧は、滑稽味のある和歌、連歌のことで、室町時代の末、宗祇、宗鑑、守武らによって起こされ、貞徳、宗因らをへて芭蕉により、幽玄、閑寂なものに高められた文学です。(小学館国語辞典)
- 連歌(れんが)は、日本古来の文芸「和歌」から派生した歌の種類(形式)で、きっかけとなる句(歌の区切り)から始まって次々と句を詠んで歌を連ねてゆく歌の形です。きっかけとなる句は発句(ほっく)といいます。
- 連歌は、長句(五七五)の発句が詠まれると別の人が短句(七七)で続けて詠むという短い形式(短連歌)や幾人が集まり、次々と長句と短句を連ねる長い形式(長連歌)などの歌の遊びから発達したそうです。
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