新堀川・精進川の記憶
精進川について
名古屋台地と御器所台地・瑞穂台地に挟まれた低地を流れていた川が精進川(しょうじんがわ)と呼ばれていました。
精進川の名前の由来は、河口近く右岸に祭られていた鈴ノ御前社の神主がお祓いのためこの川で身を清めたことによると尾張徇行記に書かれています。
また、中流の辺りの御器所村の村境では、「長根川」、上流の前津小林村では「流れ川」と呼ばれていたそうです。(名古屋市史より)

精進川(後の新堀川)の開削事業
名古屋市が市制施行後(1989年(明治22))に初めて取り組んだ大規模事業の一つに、「精進川(後の新堀川)の開削」がありました。
このころは、都市計画法などの都市整備に関する法制度が整っておらず、事業を進めるための仕組みも十分ではありませんでした。
精進川の開削構想は江戸時代初期から検討されていましたが、実現には至りませんでした。その後もたびたび計画が立てられたものの、財政難などを理由に中止され、長年にわたって「計画倒れ」の事業となっていました。
名古屋城築城前
1609年(慶長14)、清須から名古屋への遷府(清須越し)が決定されると名古屋城下からの物資輸送のための堀を開削する場所が検討されました。
一つは、現在の堀川開削のルート(台地の西側)、もう一つが精進川開削ルート(台地の東側)でした。
この時ルートの調査が行われ、その結果、勾配が緩やかな台地の西側のルートが採用され、1610年(慶長15)ごろ堀川が誕生しました。
江戸時代後期
精進川改修計画の始まり
精進川の開削が議論されるようになったのは、江戸時代後期のことでした。
これは、名古屋城下の重要な水運路であった堀川に大幸川上流から流入した土砂が堆積し、納屋橋付近まで川底が浅くなって、舟運に支障をきたすようになったためでした。
1816年(文化13年)、米穀問屋27軒が、堀川の川さらえ(川底にたまった砂や泥を掘り取り除く)を願い出ました。陳情書には、「堀川だけでは船の出入りが多く混雑するため、今1カ所堀川があったなら、町が繁盛すると話し合っている。」とありました。堀川が造られて200年を超えた頃のことでした。
また、精進川も、庄内川や矢田川など他の川と同様に、洪水のたびに流域が氾濫するという問題も抱えていました。
1828年(文政11)、精進川の開削が計画され、1830年(文化13)、「精進川川替え」の図ができました。
名古屋台地に沿って精進川の流路を改良するものでしたが、計画は中止となりました。
「尾張藩においては精進川改修を企図せしことあり、、、何故に行わられざりしやは詳らかならず。」と理由は明らかではありませんが、精進川の開削は行われませんでした。(名古屋市史、瑞穂区誌より)

新しい川に「今般願之川替通」とあります。
堀の始まりの「堀留」は、現在の丸田町交差点の辺りに計画していたようです。
精進川の流路を田畑を避けるように熱田台地の縁へ付け替え、さらに堀川と同様に7か所の橋を架ける設計となっています。
明治時代
吉田禄在名古屋区長の構想
1883年(明治16)、元老院議官が名古屋を視察した際、吉田名古屋区長は、名古屋の発展のために精進川を改良して名古屋東部の水運を充実させる必要があると建議しました。さらに、愛知県令の国貞廉平にも同様の建議書を提出しました。
吉田名古屋区長は、遠浅であった熱田港を改良して名古屋港を築く構想とあわせて、名古屋台地東部に新たな水運網を整備しようと考えていました。精進川の改修は、単なる水運の利便性向上や治水対策にとどまらず、名古屋の将来を見据えた都市づくりの重要なプロジェクトとして位置づけていたようです。
この建議によって、2回にわたり精進川の測量が行われましたが、結局改良工事は実現しませんでした。
柳本直太朗名古屋市長の諮問
第3代名古屋市長の柳本直太朗は、名古屋のまちづくりの第一歩として、将来のため改修すべき街路の調査研究を行い、改修路線の計画を立てていました。
その後、柳本市長は、1896年(明治29)、精進川の氾濫による被害を防ぐと同時に水運の必要性を感じ、現在の千種駅付近から熱田湾へ至る運河の建設計画を市会に諮問しましました。
市会も認めましたが、実現しませんでした。
大規模事業への展開

精進川開削の事業実現は、国による兵器製造所の建設計画と、愛知県による博覧会の誘致が大きな転機となります。
名古屋市には、兵器製造所建設に伴う排水対策として新堀川の開削と博覧会の会場整備(鶴舞公園開設)が求められました。
また、熱田港(熱田湾)の築港工事が進められており、運河による水運の整備があわせて進められました。
このように、それまで実現が難しかった事業は、国や県の大型プロジェクトと結び付くことで、一体的に推進されることになったのです。
精進川開削事業の始動
1905年(明治38)、青山朗名古屋市長は、市会に「精進川開削ノ件」を諮問しました。
「本市東部一帯の下水排水の改善については、これまで長年にわたり適切な方法が検討されてきた。
このたび熱田町に新設される予定の兵器製造所は、約9万坪(約29.8ha)の広大な敷地(ナゴヤドーム約6個分)を持ち、地上6尺(約1.8メートル)ほど盛り土をする計画となっている。
この工事が完成すれば、下水を流すことがこれまで以上に難しくなるのは当然だと考えられる。そこで、この機会に精進川を本市の白山町まで川幅20間(約36メートル)に拡張して掘り開き、一方では排水を円滑に流すための対策とし、他方では水運の利便性向上も図ろうとするものである。」
市会の答申
「一、本諮問の趣旨は大体において施設の必要ありと認める。二、河の幅員、護岸工事その他水路は、財政事情を考慮して、調査設計をたてること。三、関係する市町村に対し、利益の程度に応じた費用負担を求めること。四、東京砲兵工廠熱田兵器製造所の設置によって、排水に関して大きな被害が生じるおそれがあるため、国に対して相当の補助金を求める方法をとられたい。」と答申され調査予算が認められました。
同年6月、市会は精進川開削予算を可決。

精進川改修工事と共に県道熱田街道改修線(幅員13間、約23.6メートル)の整備も計画されていました。
この道路は現在の大津通にあたり、栄町交差点から熱田方面まで路面電車を敷設する構想でした。
国による名古屋港築港と兵器工場建設、県による道路整備(大津通・大須通など)と名古屋市による精進川改修工事と博覧会会場(鶴舞公園)整備が進められ、吉田禄在名古屋区長が描いた都市整備構想は具体化されていきました。
1905年(明治38)10月起工式があり、精進川改修工事が始まりました。
1910年(明治43)12月、精進川改修工事は完成しました。
翌年、名古屋に堀川が造られて300年後、精進川は、新堀川と名称が変更されました。
第10回関西府県連合共進会
名古屋開府300年を記念し、第10回関西府県連合共進会が、鶴舞町(開園前の鶴舞公園)において愛知県主催により1910年(明治43)3月16日から6月13日まで開催された。(同時に開催の名古屋開府300年祭は、名古屋市主催)
名古屋市は敷地1万坪を無償提供し、総経費約75万円をもって準備が進められた。
この共進会には3府28県が参加し、本館の他、特許館、機械館、林業別館等が並び、出品点数は13万点に及んだ。
このとき、豊田佐吉は自動織機を出品し、画期的な発明として功労賞を授けられた。
開催期間中に皇太子の見学もあり、3ヶ月間の観覧者は260万人に達し大成功をおさめ、これを契機に名古屋の産業界は一段と活性化していった。
(名古屋都市計画史(名古屋都市センター)より)
新堀川誕生のその後
新堀川の開削後、名古屋台地東部が大きく発展しました。鉄道や名古屋港に近い下流部には大規模な工場が立地し、名古屋市街地に近い上流部では、堀川沿いと同様に木材関連産業が集積しました。その結果、それまで田畑が広がっていた地域は次第に市街地へと変貌し、都市化が進んでいきました。
時代背景、市域拡張と都市計画
名古屋は明治後期以降、市域の拡張を目的として周辺町村との合併を重ねました。その結果、1921年(大正10)の大合併では16町村を編入し、市域面積は市制施行当初の約10倍、人口は約60万人に達して「大名古屋」と呼ばれる大都市へと成長しました。この大合併の背景には、1920年(大正9)に施行された都市計画法による都市基盤整備の必要性があるものでした。
昭和初期になると、大正時代から進められてきた区画整理事業の成果が地図からも明確に見て取れます。幅の広い幹線道路が整備されるとともに、その周辺の道路も規則的に区画され、計画的な市街地が形成されていったことがわかります。
新堀川周辺の地域の都市化は、このような時代背景も重なり、ますます発展していきました。
戦後の新堀川
戦後の新堀川は、先に発展した堀川と同じ道をたどりました。戦後復興が進むなかで木材産業も再び活況を呈し、新堀川沿いには木材関連業者や貯木施設が集まりました。とくに1955年(昭和30)から3年間は、名古屋港の輸出品目の上位を木製品が占めるなど、木材産業は最盛期を迎えました。
産業の川から市民の水辺へ
しかし、その後は輸送手段の主役が舟運からトラック輸送へと移り、産業構造の変化や木材流通拠点の移転も進みました。その結果、木材産業は次第に衰退し、かつて木材輸送や物流を支えた堀川・新堀川の舟運もその役割を終えていきました。こうして両河川は、産業活動の中心から都市内の水辺空間へと姿を変えていきました。
一方で、名古屋の産業とまちの発展を支えてきた堀川・新堀川は、大きな課題も抱えることになりました。約100年前の大正時代には名古屋で下水道整備が始まりましたが、急速な都市化や工業化が進むなかで、工場排水や家庭排水の多くが堀川・新堀川へ流れ込むようになりました。その結果、まちの発展と引き換えに河川の水質は著しく悪化し、両河川は深刻な水質汚染に見舞われました。
このため、堀川・新堀川を再び市民に親しまれる水辺としてよみがえらせるべく、水質浄化や環境改善の取り組みが進められることになりました。現在もなお、清らかな水環境を取り戻すためのさまざまな取り組みが続けられています。
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