名古屋東照宮 東照宮祭 名古屋まつりのルーツ

むかし「名古屋祭り」は、4月に行われていました。
明治から戦前にかけて、名古屋東照宮の東照宮祭を名古屋祭りと呼んでいました。
東照宮祭は、徳川家康公の命日、元和(げんな)2年4月17日が祭礼日です。
お祭りを始めたのは、徳川義直公
敬公(義直の諡名)実録には、
「今年4月(元和4年(1618)2月)、御三回忌御法事執行。このときより御祭礼を始め候旨申し候」
と記されています。
これは、初代尾張徳川家当主・徳川義直公(敬公)が、「父・家康公(東照大権現)の三回忌法事の時から祭礼を始めるように」
と述べたことを伝える記録になります。この時から、尾張徳川家公認のお祭りが始まりました。
翌年(1619年(元和5))、名古屋城三之丸に尾張徳川家の東照宮が完成しました。
お祭りは、名古屋城下町最大の行事
新修名古屋市史第三巻では、「名古屋東照宮の祭礼は、近世名古屋城下町における最大の行事であった。そのため町民だけではなく、武士、殿様までが祭り見物を楽しみにしていたのである。」と紹介しています。
お祭りの日は、町民も町内から出す練り物に従い、御城の中(丸の内)へ入ることが許されていました。また、祭り行列が通過する本町通りには、見物用の竹矢来が設けられました。通り沿いには、見物席を設けて弁当を振る舞うなど、客をもてなす商店や町屋が立ち並び、茶店を出すなどの商いが行われることもあったそうです。
お祭りの呼び物は、名古屋城下のみんなが参加した祭礼行列
お祭りの行列には、武士、神官、僧侶、町民など名古屋城下のいろいろな人が、参加していました。
行列は、三基のお神輿を中心に警固の人(コスプレーヤー)、山車などで、三之丸から御旅所(おたびしょ)までのパレードを行っていました。
お祭りに山車が登場したのは、東照宮が建てられた1619年(元和5)、名物山車の橋弁慶車が登場し、その後、山車が9輌となり、すべてからくり人形が載せられお祭りの目玉となりました。
1865年(元治2)の家康公没250年祭では、総勢6800人を超える壮大な規模で全国一の祭礼ともいわれました。
引き継がれた「なごやまつり」
尾張徳川家の支えで続いていたお祭りは、明治となっても城下町の人々によって祭りは続けられました。
その頃の東照宮祭を「名古屋祭」とよんでいました。
しかし、昭和の戦災によって、この祭りは途絶えてしまいました。
東照宮は、国宝であった本殿をはじめ、すべての建物が焼失しました。また、祭り行列を盛り上げていた神輿や山車も、碁盤割の町並みとともにすべて焼け失われ、祭り行列を行うことができなくなりました。
1954年(昭和29)、名古屋市と商工業関係者によって「名古屋商工祭」が開催されました。この祭りにあわせて「文化財指定の山車祭」として、市内に残されていた八輌の山車が参加し、華やかな祭り行列が復活しました。
翌年からは、商工祭に芸術祭や教育祭が加わり、名称も「名古屋まつり」となって、現在に至っています。
このような経緯から、現在の「名古屋まつり」は、かつての名古屋祭り(東照宮祭)の名称を受け継いでいるようです。
東照宮祭
前日祭(4月16日)
午後3時より神事が行われ、午後5時から午後7時まで、朱塗りの舞台にて雅楽・舞楽の奉納が行われます。どなたでもご見学いただけます。

東照宮祭(4月17日)
徳川家康公命日の4月17日は、神事が厳か(おごそか)に行われています。
名古屋東照宮

祭神、徳川家康公
1619年(元和5)9月17日、名古屋城郭内三之丸(今の名古屋城大手二之門前から能楽堂前の駐車場辺り)に創建されました。
1875年(明治8)名古屋鎮台(旧陸軍)がおかれ現在の場所(丸の内二丁目3)へ移されました。
1935年(昭和10)、義直公以来の本殿を始め主要の建造物が国宝(旧国宝保存法)に指定されました。
1945年(昭和20)戦災によって本殿など全焼。
1954年(昭和29)建中寺より義直の正室高原院の御霊屋(おたまや)を移築して本殿としました。この建物は、愛知県指定有形文化財、名古屋市都市景観重要建築物に指定されています。
東照宮正殿
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