浪越公園
名古屋にできた最初の公園
大須二丁目の「那古野山古墳公園」は、名古屋で最初に開園した「浪越公園」の記憶をとどめる公園です。
江戸時代初期から大須にあった清寿院という寺院が、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となった後、その跡地の活用について町民が愛知県へ公園化を要望し、整備されたのが浪越公園でした。

浪越公園について
明治政府が初めて「公園」を定めた
東京・京都・大阪をはじめ、人口が多く集中する都市には、昔から多くの人が集まり、景色を楽しんだり散策したりしてきた名所や旧跡があります。たとえば、京都の八坂神社の境内や嵐山のような場所です。これらはこれまで、特別に税が免除されてきた社寺の境内や公共用地として扱われていました。
しかし、1837年(明治6)に明治政府が、すべての人が憩い楽しむための「公園」として正式に位置づける方針を決定し、「公園にふさわしい場所を選び、景観や状況などを詳しく調査し、図面を添えて大蔵省に提出するように。」と各府県へ通達しました。(名古屋の公園100年のあゆみ(名古屋市)より)
浪越公園の開園
1876年(明治9)7月、大須門前町の住民を代表する高瀬杲之助さんと原正庶さんは、名古屋にはまだ公園が一つもないことを心配し、江戸時代に大変にぎわっていた門前町の廃寺・清寿院の裏庭を、名古屋の人々が散歩を楽しめる場所にしてほしいと、愛知県令(現在の県知事)へ願い出ました。
この願いは受け入れられ、「浪越公園」と名付けられて県によって開設されました。
公園内の小山には休憩用のあずまやが設けられ、そのふもとには池がつくられました。池の周りには古くからある桜の木が十数本植えられ、花見の季節には多くの人でにぎわったと伝えられています。
愛知県内で最初に設置された公園
名古屋都市センター「平成24 年度NUI 特別レポ-ト戦前の名古屋都市計画公園史について」によると、「愛知県公文書館に所蔵されている資料に、県管理の公園として「小牧公園」(小牧城周辺)、「稲置公園」(犬山城周辺)、「岡崎公園」(岡崎城周辺)、「浪越公園」の4公園について、毎年の詳細な収支その他の記録文書が残されていた。」とあり、愛知県内最初の公園は、この4公園と推定されています。
名古屋の名所「浪越公園」
1902年(明治35)に発行された「日本全国巡遊学生遠足修学旅行案内」という当時の修学旅行ガイドには、名古屋の名所として「浪越公園」が 名古屋城より先に紹介されています。
案内の目次を見ると、尾張地方の概要(面積・人口)、県内の道路・鉄道路線、陸軍第三師団司令部、東本願寺別院・西本願寺別院、浪越公園、名古屋城、桶狭間古戦場…という順で紹介されていました。
浪越公園の説明には、次のような内容が書かれています。
「浪越公園は門前町にあり、規模は小さいがたいへん風情がある。」
つまり、軍の司令部や大規模な寺院(東西本願寺)に続けて紹介されていることから、浪越公園は当時の名古屋において、訪れる価値の高い名所として位置づけられていたことがわかります。
名古屋城より前に載せられている点も、それだけ注目度が高かったことを物語っています。
浪越公園の移り変わり
全国的にも名が知られつつあった浪越公園ですが、新たに都市公園として「鶴舞公園」が整備されたことにより、1909年(明治42年)1月29日に廃園となりました。
廃園に至った背景には、大須観音をはじめとする南寺町の賑わいに対し、浪越公園が散歩や休息を楽しむ憩いの場として十分な広さを備えていなかったことも、理由の一つとして挙げられています。
1910年(明治43)、浪越公園の一部について愛知県から名古屋市へ譲渡されました。
那古野山古墳を含む土地を管理するため、県から市へ譲渡されたようです。
1914年(大正3)、名古屋市は愛知県から公園設置許可を得て「那古野山公園」を開園しました。
2022年(令和4)2月、那古野山公園が整備され「那古野山古墳公園」として生まれ変わりました。
那古野山古墳公園
那古野山(なごややま)について
那古野山古墳公園の名称である「那古野山」は、江戸時代後期から刊行された「尾張名所図会」に説明文があります。
『清寿院の後園にありて、古木老幹生い茂る、苔径怪石攀廻る、古色隠々たる雅地なれば、当年の面影その儘見るに足る小山なり』とあり、現代文にしますと
『清寿院の裏庭にある小さな山は、古い木々がこんもり茂り、苔むした小道や奇妙な形の石が入り組んでいます。全体が昔の雰囲気をそのまま残した、落ち着いた風情のある場所で、当時の姿を今でもよく感じ取れる小山です。』
先ほどの説明文にもある小さな山は、江戸時代以前の面影を受け継ぎ、現在の公園にもそのまま残っていることが確認できます。

那古野山古墳
上の写真の那古野山と呼ばれた小高い丘は、「那古野山古墳」として確認されています。かつては南向きの前方後円墳でしたが、現在は直径約22メートル・高さ約3メートルの円墳状の姿をとどめています。
1865年(元治2年)の発掘調査では、古墳時代から平安時代にかけてつくられた須恵器が出土しました。
また、公園の南側には富士浅間神社があり、その周辺からは「浅間神社古墳」と呼ばれる古墳も確認されています。これらの発掘で見つかった須恵器などは、現在、富士浅間神社に保存されています。
浪越公園から那古野山古墳公園へ
明治初期に整備された公園の多くは、西洋文化を取り入れたもので、浪越公園もその一つでした。
当時の公園は、社寺の境内や公共用地に誰もが憩い楽しむことのできる場として整備されていました。
その後、公園の役割は時代とともに広がり、憩いの場やコミュニケーションの場、子どもの遊び場、災害時の避難場所、さらには自然環境を保全する場など、実に多様な形態の公園が生まれるようになりました。
浪越公園は、廃園となりましたが、公園に求められる機能や概念の変化を経て、現在は那古野山古墳公園として生まれ変わり、誰もが憩い楽しむことのできる公園として存在しています。

公園の小山には大きな木が植えられており、落ち着いた雰囲気があります。
また、公園の入り口付近には、公園の紹介や大須のまちの歴史、名古屋三名水の一つである柳下水などについて説明がされた看板が多く立っており、大須の情報を分かりやすく知ることができる公園です。
地名について
浪越の読み
浪越を「なみこし」と読むものと、(現地の教育委員会の立て札や新修名古屋市史第10巻年表・索引)考えていたところ、名古屋都市センターのレポートには、(なごや、または、なみこし)浪越公園と呼ばれ、、、という説明文があったり、明治のころの文献にも浪越公園にふりがなで、(ナゴヤ)と付けられているものが見受けられました。
「新修名古屋市史」では唯一、第5巻「浪越(なごや)踊り」(1932年(昭和7))にふりがなが示されていました。
また、「なごやの町名」の那古野(なごの)一・二丁目の項には、「町名由来には、多くの説があるが確証はない。浪越(なみこし)からナコヤになったとも(ナ=那、コ=古、ヤ=野)、この辺りが豊穣の地であったため「饒屋」(にぎや)と呼んだのがナゴヤにかわったともいう。」と記されています。
那古野と名古屋
「なごや」の表記について「那古野」と「名古屋」の違いについて調べてみると、「なごや」は、荘園の制度が始まったころから那古野荘と書かれており、室町時代、今川氏が現在の名古屋城二之丸付近に那古野城が築かれていたところまでの多くは、「那古野」が使われていたようですが、一部「名護屋城」の記述もあったようです。(新修名古屋市史第2巻)
その後、徳川家康によって名古屋城が築かれた場所に、尾張国の府(現在の県庁所在地に相当する行政の中心地)が置かれ、「名古屋府」となり、城下町も「名古屋」、付近は「名古屋村」となり「名古屋」が使われるようになりました。(新修名古屋市史第3巻・第10巻年表・索引)ただし、名古屋開府後では、『那古野府城志』(1822年(文政5))のようにわざわざ古い地名を用いている公的な文書類ではない史料などもありました。(新修名古屋市史第3巻)
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