森孝・四軒家地区散策コース 区の境界を歩く
コース
米田城跡(梁田が城跡)→定納公園→足助道→山口街道→元陸軍補給廠→丸型ポスト→野墓→桜並木→八劔神社→行者堂→三十三観音堂→泰永寺→弘法堂(約4.5キロメートル)
コースの主な見どころ
1 米田城跡(梁田が城跡(やなだがじょうあと))

築城時期や城主は不明。簗田氏の城代が守っていたとも言われている。領域は東西100m、南北50m程の規模。北と東は急な崖、南と西が堀のようで明治維新の頃までは堀跡や塀跡があったという。
2 定納公園(じょうのうこうえん)

「定納」「定免」ともいい各地にみられる地名。また、豊凶にかかわらず、毎年一定額の年貢を納めさせる土地をいい、藩の年貢収入を安定させる定納法(定免法)と呼ぶ徴税法であった。凶作時の農民には厳しい定納の掟でもあった。
3 足助道(あすけみち)

瀬戸街道(旧大森役場跡)から分かれ、大森橋を渡り、米田城跡の東から山口街道を渡り森孝新田に向かう旧道。三軒家から四軒家を経て長久手市役所(岩作城跡)から三河に入り、足助へ通じた道である。
4 山口街道

名古屋城の東側、東大手から古出来町、猪子石を経て、現在の森孝西小学校の北側を通り、尾張旭の稲葉、三郷、そして瀬戸の山口に至る細い道であった。名古屋への往来に利用された道である。
5 丸型ポスト

森孝西小学校に、教材用に設置してあった使われなくなった丸型ポストを、平成26(2014)年6月25日一般用に設置。名古屋で5本目。
6 野墓(のぼ)

野墓では、中央の台に棺を、もう一つの台に供物や線香を供え、僧侶の読経で野とむらいを行い埋葬した。六地蔵は、昔子どもや幼児の死亡も多く、子どもの延命を祈るためのものだった。昭和30年(1955)年代頃まで行われていた。
7 桜並木

八劔神社前の通りに続く桜並木。戦時中、東西に陸軍の兵器補給廠の建設が進められ、2カ所の用地が広い道路で結ばれた道。昭和55(1980)年4月、学区独立を記念し桜の木が植えられた。
8 八劔神社(やつるぎじんじゃ)

「八劔」という名称は、熱田神宮の別宮で宝剣をご神体とする「八剣宮」に由来するといわれている。大森の八劔神社から文政9(1826)年分祀。毎年10月第2月曜日に秋の例大祭が行われる。参道横には、農業振興事業碑がある。
9 行者堂(ぎょうじゃどう)

13から15歳位の男子が先達に連れられ、奈良の大峰山に詣でる掟があった。崖の上から「親の言うことを聞くか」と言われながら下を覗く「のぞき」をする。下山して帰ると「サンゲ、サンゲ」と言いながら行者堂でお参りをした。
10 三十三観音堂

西国三十三カ所の観音霊場を人々は「講」を結成し巡拝した。その時の参拝記念に建てられ、西国巡礼に行けなかった人達も巡拝した気持ちでお参りをした。横にある馬頭観音は、細く淋しい道であった山口街道の道標として作られた。
11 泰永寺(たいえいじ)

義恵山、真宗大谷派、三軒家交差点北から、平成21(2009)年5月5日に現在地へ移築した。
12 弘法堂(こうぼうどう)

本尊の弘法大師像は、細工師京谷清六氏によって製作された。右・東が秋葉社、左・西が津島社。「秋葉講・津島講・弘法講」の三講合同。毎年4月21日に近い日曜日にお供え物を持参し、参詣者に施される。
まちあるきマップ
PDFデータを印刷していただくと、配布しているマップになります。まちあるきにご利用ください。守山区役所3階地域力推進課などでも配布しています。
(注)以下のファイルはすべてテキスト情報のない画像データです。内容を確認したい場合は、守山区役所地域力推進課(電話番号052-796-4524)までお問い合わせください。
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森孝・四軒家地区散策コース -区の境界を歩く- 印刷用マップ外面 (PDF 906.3 KB)
印刷用マップ表面・裏面です。コースの主な見どころの説明が載っています。 -
森孝・四軒家地区散策コース -区の境界を歩く- 印刷用マップ中面 (PDF 649.5 KB)
印刷用マップ中面のコース図です。
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