野崎徳四郎
外来種で葉先の開いた白菜を品種改良し、現在のように結球する白菜の基である「野崎白菜」を作り普及させた。
 
プロフィール
氏名
野崎 徳四郎(のざき とくしろう)
中川区内のゆかりの地
株式会社野崎採種場(中川区大当郎一丁目)
人物の紹介
野崎徳四郎は嘉永3(1850)年、愛知郡下之一色村の農家西川藤三郎の長男として生まれ、慶応2(1866)年に同郡荒子村中須(現中川区大当郎)の農家野崎林左衛門の養子となりました。白菜は中国の「山東白菜」として、明治8(1875)年、愛知県植物栽培所(現愛知県農業総合試験場)が根付きの株を入手して栽培を繰り返したが、葉が開いてしまい現在のように締まった白い結球形状になりませんでした。明治18(1885)年、植物栽培所を訪れた徳四郎はこれを知り、種を譲り受け、自身の畑で栽培を繰り返して研究を続け、10年後の明治28(1895)年にようやく結球する白菜の栽培に成功しました。明治36(1903)年には大阪でおこなわれた第五回内國勧業博覧會に出品し、繊維質が柔らかで育ちが早い冬の野菜として好評を得ました。徳四郎はこの成功を独占せず、地元の農家に種を配り、栽培方法を「山東白菜栽培事蹟」に記して説明し、積極的に栽培方法の宣伝と普及に努めました。大正6(1917)年には県農事試験場と協議して「愛知白菜」と命名し、「愛知白菜採種組合」を結成しました。徳四郎は昭和8(1933)年に世を去りますが、その精神は株式会社野崎採種場として子孫に受け継がれ、さらに大型化や耐病性などの品種改良が続けられて、今は「野崎白菜」のブランド名で普及しています。
参考文献
- 中日新聞 「あいち賢人・野崎徳四郎」 平成21年6月6日
- 愛知県農会 『愛知の農業』 昭和4年1月30日
- 同史編さん会編 愛知県発行 『愛知県園芸発達史』 昭和56年3月30日
- 県小中学校長会 (財)愛知県教育振興会 『愛知に輝く人々4 明治のともしび』 昭和58年11月1日
- 野崎採種場 『甘藍花椰菜と白菜』
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