もりやま歴史浪漫紀行 守山区と徳川家康

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページID1024269  更新日 2025年10月16日

1.守山区と小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)「小牧・長久手の戦い」において、羽柴(後の豊臣)秀吉軍と徳川家康・織田信雄軍が、織田家の主権を巡って争いました。

3月に始まった戦いは、犬山城に秀吉、小牧山城に家康が陣取り、膠着状態となりました。両軍の睨み合いが続くなか、4月に入り、家康の本拠を狙った秀吉軍の「三河中入作戦」が行われました。

4月6日夜半、秀吉軍の池田恒興、森長可、堀秀政、三好秀次が庄内川を渡河し、守山区内を経て長久手へ進出しました。この動きを察知した家康軍は4月8日夜半に小幡城へ入城し、ここを拠点として長久手方面へ向かい、秀吉軍を撃破しました。

敗報を受けた秀吉は、その日の夕方に「小幡城」から直線距離でわずか約2.5kmの「龍泉寺」に本陣を移しました。秀吉は小幡城の攻撃を命じましたが、稲葉一鉄らが、「古来より夕刻以降の攻城は禁じられている。明日にすべし」と諫言したため、翌朝の城攻めを決定しました。

一方、小幡城でも龍泉寺の夜襲が建議されましたが、家康が許さず、午後8時過ぎに小牧城まで撤退し、直接対決を避けました。

その後、大きな衝突もないまま、秀吉が信雄と和睦をしたため、家康の局地的勝利だけが残りました。天下を獲った秀吉に、戦で勝ち越したことが、家康の立場を非常に強くし、最終的な家康の天下をもたらしたとも言えます。

(注)日付は旧暦です。

(注)画像データには文字情報が含まれておりません。内容についてお問い合わせをされたい場合は、守山区地域力推進室(電話番号052-796-4527)までお問合せください。

小幡城跡に立っている史跡標示板の写真
小幡城跡 史跡標示板
写真:小幡城址から望む龍泉寺方面の眺望
小幡城跡から龍泉寺方面を望む

2.「守山崩れ」と松平清康

天文4年(1535年)、三河に松平家の地盤を築き上げた名将・松平清康(家康の祖父)は、織田信光(信長の叔父)が守る守山城にて家臣により殺害され(享年25歳)、主を喪った松平勢は崩れて守山を落ちていきました。

この事件は「守山崩れ」と呼ばれ、これをきっかけに松平氏による三河支配が崩壊し、松平家は苦難の道を歩むこととなります。

守山城は、桶狭間の戦い以降、廃城となりましたが、寛永4年(1637年)、清康の菩提を弔うため、城跡に宝勝寺が建立されました。

令和5年3月に撮影した守山城跡の写真
守山城跡の様子(令和5年3月撮影)
守山城跡にある石碑の写真
石碑(守山城跡)(令和5年3月撮影)

PDFファイルをご覧いただくには、「Adobe(R) Reader(R)」が必要です。お持ちでない方はアドビシステムズ社のサイト(新しいウィンドウ)からダウンロード(無料)してください。

このページに関するお問い合わせ

守山区役所 区政部 地域力推進課 生涯学習担当
電話番号:052-796-4527 ファクス番号:052-796-4508
Eメール:a7964527@moriyama.city.nagoya.lg.jp
守山区役所 区政部 地域力推進課 生涯学習担当へのお問い合わせ