第1章 善進町真影流棒の手のあゆみ
棒の手、伝わる

棒の手とは熱田神宮祭事の際、馬の塔(馬を豪華な武具で飾り、神社に奉納する行事)とともに奉納された芸能です。2人1組で武器を使う演技を基本とし、いくつもの流派が興りました。
善進町真影流棒の手(ぜんしんちょう しんかげりゅう ぼうのて)は弘化元年(1844)ごろから行われ、熱田神宮や村の氏神である善進神明社で披露されていました。
当初は棒だけで演じていましたが、時代とともに刀や槍・なぎなた・鎖がまなどを組み合わせた技が演じられるようになりました。現在は善進神明社で10月に行われる例大祭をはじめ、名古屋まつり、港区区民まつりでも披露されています。

善進町真影流棒の手保存会 世話役 溝口 裕男さんにお話を聞きました。
(司会)はじめに、棒の手が善進町に伝わった経緯を教えてください。
(溝口)江戸時代まで、この辺(港区)は海だった。それで当時、名古屋城周辺には西側に少ししか田んぼがなかったため、南の海を干拓させて新田を開発していった。そこへ他所から百姓を連れてきて入植させ、やがて村ができていった。

(豆知識)
地図の色つきの部分は、江戸時代に開発された熱田前新田の大まかな位置です。
荒子川より西は西ノ割、荒子川と中川運河の間は中ノ割、中川運河より東は東ノ割と呼ばれていました。
※南側の一部を南ノ割とする地図も存在します。
善進町は西ノ割に位置します。
(溝口)昔も今もそうだけど、村の若者には遊びが必要だった。で、若者を遊ばせるというのは、何かひとつ遊ばせることを作らなしょうがないわけだ。それで、遊ぶ方法として西ノ割に入ってきたのが棒の手だった。西ノ割の若者は棒の手でハッスルする。(笑)
棒の手は、もとは武術かもしれないけど、ここに伝わったときは「遊び」だわね。武術と遊びの融合したもの。
(司会)すると、善進町では百姓が棒の手を始めたということですか?
(溝口)そうそう、そういうこと。昔は16歳から40歳の男子を対象として行われていた。だから参加しやすいように、服装も「百姓の格好でそのまま出てこやええわ」って。それを今も続けとるだけのことやんな。
(補足 棒の手の衣装)
棒の手の衣装は各地で異なります。善進町真影流棒の手は、昔の百姓の衣装。
素朴な盲縞(めくらじま、紺色で無地の綿織物)に黒襟の野良着、紺の股引(ももひき)、黒い足袋(たび)にわらじ履きという、独特の姿で行われます。
こんな感じ。

(司会)棒の手は神明社の祭礼に奉納されると伺いましたが…
(溝口)そう。でもね、棒の手が伝わった当時、西ノ割(荒子川以西)に神明社はまだなかった。今は跡形もないが、本来の神明社は中ノ割(荒子川の東)にあった。それで、「これではいかん、お宮さんを持ってこないかん」ということで、ちょうど俺が生まれる直前くらい(大正14年ごろ)にお宮さんを西ノ割にもってきた。それが今の神明社。
棒の手 戦後のあゆみ
善進町真影流棒の手の継承は戦後の混乱期に一時途絶えましたが、昭和30年(1955)に再興の希望が高まり、有志で保存会を結成しました。その後、昭和31年5月には市無形文化財に、昭和48年10月には市無形民俗文化財に指定され、今日に至っています。
(司会)保存会結成当時のお話を聞かせてください
(溝口)西川さん、土方さんという人が中心となって昭和30年に保存会を結成した。
(司会)その当時、溝口さんは…
(溝口)わしはやってない。全然。
(司会)…えっ、やっていなかったのですか?
(溝口)(笑いながら)昭和30年のときは関係ないもん。俺まだ現役で働いとったもんな。
そんで、退職してから神明社の総代を否応なしにやらされた。(笑)
(司会)では、世話役の話が来た経緯は…

(溝口)西川さんと土方さんの2人が長生きして棒の手を維持してくれていたが、棒の手はあくまで「グループの遊び」という考え方で、外の人間に世話してもらわなかったわけだな。その2人の後も他の人間が世話役を受け継いどったんだけど、世話をやっとる連中がみんな辞めちゃったんだわ。辞めたり亡くなったり。そのうちに「神明社の総代が面倒見てくれ」と言われるようになって総代が世話役を兼ねるようになり、わしに「総代やってくれ」って話が回ってきた。
わしが世話役を引き受けたのが平成13年。成り行きで、他に(世話役をできる人が)おらんで引き受ける、という格好で。
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