枇杷島学区(西区)の紹介
ページの概要:西区の枇杷島学区についてご紹介します。
0.989平方キロメートル
西区各学区の人口と世帯数については、下記ページからご覧いただけます。
西区各学区の生活環境指標については、下記ページからご覧いただけます。
西区西部の庄内川沿いに位置し、学区の南部を通る美濃路沿いなどに屋根神様信仰が残る町。大正10年(1921年)に西春日井郡枇杷島町から西区へ編入された。
平安末期、平清盛によって尾張へ流された藤原師長が里の娘と親しくなり、都に戻るときに琵琶を与えたが、悲しんだ娘はそれを抱いて入水したとの言い伝えが、「枇杷島」の由来ともされる。ともに用いられてきた白菊町、琵琶里町という地名は、昭和62年(1987年)の住居表示変更で消滅し、今もそれを惜しむ人は多く、現在も町内会組織の呼称として残っている。
徳川家康が慶長16年(1611年)頃、清須市西枇杷島町に開かせた「江戸の神田」「大阪の天満」と並ぶ日本三大市場の一つ「下小田井の市」(のちの枇杷島市場)が始まりで、昭和30年(1955年)枇杷島に移り、枇杷島青果市場が開場され多くの卸売りや市場関係者で賑やかであった。昭和58年(1983年)に北部市場の開場(豊山町)により枇杷島青果市場が閉鎖され、跡地は市営住宅、スポーツセンター、公園に変わり近隣の人々のスポーツや憩いの場となっている。枇杷島市場の移転で、市場関連の商店や会社、市場関係者の飲食店も減少したが南部の古き町並みの一部や学区北部の田畑地帯は、多くの戸建て住宅やアパート、マンションなどが建ち、公園も造成され開発が進み、若い世代も増え始め、枇杷島学区は市場中心の町から清楚で明るい住宅地域になりつつある。
各学区の活動、取り組みなどについて、活動内容や実施スケジュール、成果、課題などの点を紹介する「地域活動事例集」の中から、枇杷島学区の地域活動事例を紹介します。
(地域活動事例集は、地域で様々な活動に取り組まれている皆様の「他の地域の活動を参考にしたい」という声を受けて作成されたものです。地域活動の魅力向上や新たな活動に取り組む上でのきっかけとして、ぜひご活用ください。)
枇杷島学区地域活動事例
枇杷島学区の活動事例「朝市(地産地消)」について紹介しています。
西区各学区の地域活動事例については、下記ページからご覧いただけます。
遠く平安貴族の悲恋が由緒ともいわれるわが枇杷島。大正10年の名古屋市合併で伝統ある枇杷島町の名は後発の西枇杷島にゆだねたものの、一方で東京の築地、大阪の堂島と並ぶ三大市場の「小田井の市」が東へ延び、明治43年の「枇杷島市場」認可、昭和30年の現スポーツセンター敷地への移転で、学区の象徴となった。
しかし、やがて市場は豊山へ再移転、西枇杷島町も7年前から清須市となり、今や「枇杷島」の名は庄内川両岸で住居表示や施設名などには残ってはいるが、歴史の面影は日々に薄れていく。
何とか「枇杷島」の歩みを語り継ぎたい。そんな思いの昨秋、何と市場を始めたのは東枇杷島側の人と、従来の西枇杷島側説を覆す古文書を発見。今後、郷土史を発掘、継承する機運の高まりが期待される。
名古屋開府400年の昨秋、宮内庁が所蔵する「白菊の琵琶」の「里帰り」展示が、わが学区にも歴史の光をあてました。この「里帰り」にはもう一つの言い伝えが重なります。
平安時代、平清盛によって尾張へ配流された琵琶の名手、藤原師長が、後に都へ帰る際、仲良くなった里の娘へ形見に琵琶を与えましたが、悲しむ娘はそれを抱き入水して果てたという物語です。その地が今の枇杷島で、琵琶は娘とともに弔われてきた清音寺から徳川家を経て宮中へ届いたとされてきたのです。
学問的な検証はともかく、枇杷島を語るには欠かせない脚色としてこのロマンが成立するには、ここが「七勝八景」と称され、江戸、明治の名所案内に必ず登場した無比の景勝地だったことが絶好の舞台仕立でした。
遠くぐるりと山々を望み、近くは清流の川堤に無数の桜が咲き乱れる往時の様を、枇杷島橋の中ほどから林立するビル群に重ねて思い浮かべてみるのも一興です。
西区役所区政部地域力推進課地域の魅力の発信・観光推進担当
:052-523-4525
:052-522-5069
名古屋市西区役所 所在地、地図
開庁時間 月曜日から金曜日 午前8時45分から午後5時15分まで(休日・祝日・年末年始を除く)
(注)開庁時間が異なる組織、施設がありますのでご注意ください
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