港区の町名の由来
港区の町名の由来を紹介します。
名古屋市港区史・地名の由来より
このページに掲載されている港区の地名の由来は、昭和62年(1987)に発行された港区誌を参照しています。
それ以降につけられた地名については掲載しておりませんので、ご了承下さい。
秋葉(あきは)一丁目・秋葉二丁目・秋葉三丁目
寛文3年(1663)、名古屋茶屋町の呉服所・茶屋長意が開発した「茶屋新田」のうちで、地区内に「秋葉杜」が所在したので名付けられた。
熱田新田東組(あつたしんでんひがしぐみ)
正保4年(1647)、藩命により御付家老・成瀬正虎が開発した「熱田新田」の東組に属したので名付けられた。
熱田前新田(あつたまえしんでん)
寛政12年(1800)、藩命により熱田奉行・津金文左衛門胤臣が開発した新田にちなんで名付けられた。
油屋町(あぶらやちょう)
元の土地所有者が、油屋を営んでいたところから名付けられたといわれる。
惟信町(いしんちょう)
この付近の土地区画整理事業を推進した服部善之助の徳をたたえて、その諱(いみな)の「惟信」を町名とした。
一州町(いっしゅうちょう)
稲永新田の一角で、草競馬場になっていた。東邦電力(中部電力の前身)用地で、その社長・松永安左衛門の雅号の「一洲」から名付けられた。安左衛門は、壱岐(長崎県石田郡印通寺)の出身であった。
稲永(いなえい)一丁目・稲永二丁目・稲永三丁目・稲永四丁目・稲永五丁目・稲永新田(いなえいしんでん)
文政3年(1820)、熱田の粟田兵部らが開発した「稲富新田」と、同9年、大喜下総らが開発した「永徳新田」が、明治9年(1876)に合併して稲永新田となった。
入場町(いりばちょう)・入場一丁目・入場二丁目
荒子川の柳瀬橋の付近に杁(いり)があったので「杁場」といっていたが、現在では「入」の字を当てている。
入船(いりふね)一丁目・入船二丁目
名古屋港築港第二号地にあり、旧・入船町から名付けられた。
いろは町(いろはちょう)
熱田奉行・津金文左衛門胤臣が開発した「熱田前新田」のうちの「いの割」「ろの割」「はの割」に由来して名付けられた。
遠若町(えんじゃくちょう)
熱田奉行・津金文左衛門胤臣が開発した「熱田前新田」のうちの「をの割」「わの割」「かの割」に由来して名付けられた。「遠」は「を」のもとの字、「若」は「わ」「か」を合成したものである。
小碓町(おうすちょう)・小碓一丁目・小碓二丁目・小碓三丁目・小碓四丁目
「熱田新田」のうちで、熱田神宮ゆかりの日本武尊(やまとたけるのみこと)の幼名・小碓命(おうすのみこと)からとって名付けられた。
大江町(おおえちょう)
名古屋港築港第六号地で、南に流れる大江川にちなんで名付けられた。
大手町(おおてまち)
熱田奉行・津金文左衛門胤臣が開発した「熱田前新田」のうちで、大堤防があったことから、「大堤(おおて)」といわれるようになり「大手」の字が使われるようになった。小碓村当時の字名には「大手堤」とある。
大西(おおにし)一丁目・大西二丁目・大西三丁目
名古屋茶屋町の呉服所・茶屋長意が開発した「茶屋新田」のうちで、戸田川に接し、「大西」と呼ばれていたところから名付けられた。
小川(おがわ)一丁目・小川二丁目・小川三丁目・小川四丁目
寛政9年(1797)、海西郡竹田新田(現・弥富市)の佐藤五兵衛が「福富新田」を開発したが、数次にわたり決壊し、所有者も次々と変わり、享和2年(1802)、小川伝兵衛ら3名が買受け、文化2年(1805)、「小川新田」と改称したところから、これにちなんで名付けられた。
金川町(かねかわちょう)
中川運河の開削の際に造成された運河沿岸の土地で、東岸は「○川」、西岸は「○船」のように、「川・船」を町名に用いた。「金・新・玉・福・清・富」の字をそれぞれ冠した町名が見られる。
金船町(かねふねちょう)
「金川町」と同じ理由で名付けられた。
河口町(かわくちちょう)
中川運河に沿い、河口に近いところから名付けられた。
川園(かわその)一丁目・川園二丁目・川園三丁目
名古屋茶屋町の呉服所・茶屋長意が開発した「茶屋新田」のうちで、戸田川下流に近い田園地帯で川を埋め立てた原ということで通称「川原」といわれたところで、町名変更に当たり「川園」と名付けられた。
川西通(かわにしどおり)
中川運河の西の通リということで名付けられた。
川間町(かわまちょう)
明徳土地区画整理事業の完成に伴い、当時、現・西名古屋港線(あおなみ線)から東海橋まで流れるオタラク川と、中部鋼板(株)の工場の南側にあった川の間にはさまれた土地であるところから名付けられたといわれる。
寛政町(かんせいちょう)
明治22年(1889)、「宝神新田」・「甚兵衛後新田」・「熱田前新田」・「稲永新田」が合併してできた「寛政村」に由来し、「寛政」の名は、「熱田前新田」が開発された寛政12年(1800)にちなんで名付けられた。
木場町(きばちょう)
貯木池などが多かったところから名付けられた。
金城ふ頭(きんじょうふとう)一丁目・金城ふ頭二丁目・金城ふ頭三丁目
名古屋港築港第十三号地で、名古屋城にちなんで名付けられた。
九番町(くばんちょう)
御付家老・成瀬正虎が開発した「熱田新田」のうちで、開発に当たり「九番割」と名付けたところでこれにちなんだ。
港栄(こうえい)一丁目・港栄二丁目・港栄三丁目・港栄四丁目
もとの「港栄町」一帯で、その繁栄にちなむ雅名が付けられた。
港北町(こうほくちよう)
名古屋港の北に位置するということで名付けられた。
港明(こうめい)一丁目・港明二丁目
もとの「港明町」の一帯で、明るい名古屋港にちなむ雅名が付けられた。
港陽(こうよう)一丁目・港陽二丁目・港陽三丁目
もとの「港陽町」の一帯で、陽の当たる名古屋港にちなむ雅名が付けられた。
港楽(こうらく)一丁目・港楽二丁目・港楽三丁目
もとの「港楽町」の一帯で、楽しい名古屋港にちなむ雅名が付けられた。
小割通(こわりどおり)
旧・小碓町のうちで、小さく区割りされたところの意から名付けられたものと思われる。
幸町(さいわいちょう)
熱田奉行・津金文左衛門胤臣が開発した「熱田前新田」のうちで、名古屋萱屋町の味嗜たまり商佐野屋・中村与右衛門が、この付近一帯を所有していたので、昭和8年(1933)、町名を付けるに当たって、佐野屋の「サ」を冠した雅名が付けられた。
魁町(さきがけちょう)
「幸町」と同様、地主の佐野屋の「サ」を冠した雅名が付けられた。
作倉町(さくらちょう)
天保8年(1837)、藩の地方勘定所開発の「熱田築地前新開」を、文久元年(1861)、「作良(さくら)新田」と改称した。この「作良」にちなんで名付けられた。
佐野町(さのまち)
「幸町」「魁町」と同様、地主の佐野屋の屋号から名付けられた。
汐止町(しおとめちょう)
名古屋港築港第十一号地の一角で、汐を止めるという雅名と思われる。
潮凪町(しおなぎちょう)
名古屋港築港第十号地で、潮がおだやかになることを願っての雅名と思われる。
潮見町(しおみちょう)
名古屋港築港第九号地で、旧・東防波堤先端外側に造成されたところから名付けられた。天白川に面した浜は、千鳥ヶ浜海水浴場として親しまれた。
七条町(しちじょうちょう)
文化11年(1814)、開発された「道徳前新田」のうちで、昭和31年(1956)7月、南区から一部が編入された。
七番町(しちばんちょう)
「熱田新田」のうちで、開発に当たり「七番割」と名付けられたところ。
品川町(しながわちょう)
付近一帯が、品川白煉瓦の工場であったところから名付けられた。
十一屋町(じゅういちやちょう)・十一屋町一丁目・十一屋町二丁目・十一屋町三丁目
文化14年(1817)、開発された「山藤新田」のうちで、名古屋の呉服商十一屋(現・丸栄) ・小出庄兵衛の所有地であったところから名付けられた。
正徳町(しょうとくちょう)
正徳年間(1711から1715)に開発されたところともいわれるが、年代的にそぐわず、むしろ、「正保町」の「正」の字と「明徳町」の「徳」の字を組み合わせて名付けられたものと思われる。
正保町(しょうほうちょう)
正保4年(1647)、「熱田新田」が開発されたところから名付けられた。
昭和町(しょうわちょう)
名古屋港築港第七号地で、埋め立て完成が大正15年7月であり、その年の12月25日、大正天皇が崩御され、年号が「昭和」と改元されたのにちなんで名付けられた。
新川町(しんかわちょう)
「金川町」と同じ理由で名付けられた。
神宮寺(じんぐうじ)一丁目・神宮寺二丁目
文化14年(1817)、熱田神宮寺の開発した「神宮寺新田」にちなんで名付けられた。
新船町(しんふねちょう)
「金川町」と同じ理由で名付けられた。
甚兵衛通(じんべえとおり)
元禄9年(1696)、「甚兵衛新田」を開発した海東郡福田村(現・南陽地区)の西川甚兵衛の功をたたえて名付けられた。
砂美町(すなみちょう)
もともと低湿地であったところを、名古屋港先のしゅんせつ砂で埋め立てたことから名付けられた。
須成町(すなりちょう)
蟹江町の須成神社の御葭(みよし)ながし神事で蟹江川に流されるご神体が、昔、この辺りに流れ着いたところから名付けられたともいわれているが、さだかでない。
善進町(ぜんしんちょう)・善進本町(ぜんしんほんまち)
由来は判然としないが、古くから村内の若者衆の会合として「善進」の名が用いられていたという。
善南町(ぜんなんちょう)・善北町(ぜんほくちょう)
善進本町の南・北に位置するという意味から名付けられた。
空見町(そらみちょう)
名古星港築港第十一号地で、当時、港の南端に位置したので雅名が付けられた。
泰明町(たいめいちょう)
昭和36年、土古土地区画整理事業の完成に伴い、明るい平和な町を祈念して名付けられたと思われる。
高木町(たかぎちよう)
現在の高木学区と神宮寺学区の境辺りに、背の高い一本松と称される松の大木があったのにちなんで名付けられた。
多加良浦町(たからうらちょう)
文政5年(1822)、開発された「宝来新田」のうちで、「宝」を「多加良」として雅名が付けられた。この付近地は、かつて海水浴場として市民に親しまれた。
辰巳町(たつみちょう)
正保4年(1647)、開発した「熱田新田」の辰巳(東南)の位置に、「辰巳の杁」があったところから名付けられた。
築盛町(ちくもりちょう)
「熱田前新田」のうちで、盛り上げて築いたところという意で名付けられたと思われる。
千年(ちとせ)・千年二丁目・千年三丁目
延宝3年(1675)、尾張藩の御船奉行・横井作左衛門が開発した「船方新田」と、天保8年(1837)、藩の地方勘定所が開発した「熱田築地前新開」(のち、「作良新田」と改称)を合わせて、明治9年(1876)、「千年村」という雅名が付けられた。
千鳥(ちどり)一丁目・千鳥二丁目
名古屋港築港第一号地で、千鳥町・稲荷町・磯端町などを合わせて名付けられた。
津金(つかね)一丁目・津金二丁目
寛政12年(1800)、「熱田前新田」を開発した津金文左衛門胤臣の功をたたえて名付けられた。
築三町(つきさんちょう)
名古屋港築港第三号地ということで名付けられた。
築地町(つきじちょう)
名古屋港築港第四号地ということで名付けられた。
寺前町(てらまえちょう)
寛永20年(1643)、鬼頭景義が開拓した「西福田新田」のうちで、浄土真宗・浄恩寺の門前ということで名付けられた。
天目町(てんもくちょう)
「天目」一帯は、一時期、東本願寺別院の所有であって、仏前に供えた米飯は、この地の米を用い天目型の茶碗で供えるのを常としていたことから名付けられた。
東海通(とうかいどおり)
江戸時代に東海道の海路「宮から桑名」間の代用の陸路交通に充てられたということで名付けられたと思われる。
当知町(とうちちょう)・当知一丁目・当知二丁目・当知三丁目・当知四丁目
西川甚兵衛が開発した「甚兵衛新田」で、文政4年(1821)、「当知新田」と改められた。
「当知」の語源については不詳であるが、「無量寿経」という真宗・浄土宗の根本経典にある「汝自当知(にょじとうち)」から名付けたのではなかろうか。その意は「汝(なんじ)、自らまさに知るべし」という。
土古町(どんごちょう)
元文4年(1739)、海東郡蟹江村(現・蟹江町)の鈴木新助が開発したところで、「同伍(どうご)」といって、「同じ組」が起源ではないかといわれるが、「土古山新田」というところから、荒子川に沿って砂洲により小高い丘状になっていたものと思われる。
中川町(なかがわちょう)・中川本町(なかがわほんまち)
中川運河にちなんで名付けられた。
中之島通(なかのじまとおり)
荒子川に通ずる中之島川にちなんで名付けられた。
七島(ななしま)一丁目・七島二丁目
天明8年(1788)、愛知郡下之一色村(現・下之一色町)の木村権左衛門が開発した「七島新田」にちなんで名付けられた。
南陽町(なんようちょう)
明治39年(1906)、福田村・福屋村・茶屋村の三村を合併するに当たり、尾張部の南端に位置し、伊勢湾に臨み比較的暖かさを感じさせるので、「南の陽(ひなた)」の意で「南陽村」と名付けられた。
西蟹田(にしかにた)
寛永17年(1640)、鬼頭景義が開発した「福田新田」のうちで、もとは潮の干満で田のようになり「干田(かんだ)」といっていたという説もあるが、古い字名「西蟹田」を当てたとするのが正しいと思われる。
西川町(にしかわちょう)
寛延3年(1750)、海東郡福田村の西川甚兵衛が開発した「甚兵衛後新田」のうちで、開発者の功をたたえて名付けられた。
錦町(にしきまち)
明治43年(1910)、東海道「宮の宿」から歓楽街がここに移転し、雅名が付けられた。
西倉町(にしくらちょう)
名古屋港築港に伴い多くの貨物倉庫が建てられたので名付けられた。
西茶屋(にしちゃや)一丁目・西茶屋二丁目・西茶屋三丁目・西茶屋四丁目
名古屋茶屋町の呉服所・茶屋長意が開発した「茶屋新田」にちなんで名付けられた。
野跡(のせき)一丁目・野跡二丁目・野跡三丁目・野跡四丁目・野跡五丁目
「稲永新田」のうちで、旧の字名「野跡」から名付けられた。同じ字名は「甚兵衛後新田」にもあった。
浜(はま)一丁目・浜二丁目
名古屋港築港第一号地で、元町・浜町・港本町などを合わせて名付けられた。
東茶屋(ひがしちゃや)一丁目・東茶屋二丁目・東茶屋三丁目・東茶屋四丁目
茶屋長意が開発した「茶屋新田」にちなんで名付けられた。
東築地町(ひがしつきじちょう)
名古屋港築港第五号地で、堀川の東に位置したので、「東築地」と名付けられた。
東土古町(ひがしどんごちょう)
鈴木新助が開発した「土古山新田」の東部に位置したので名付けられた。
福屋(ふくや)一丁目・福屋二丁目
鬼頭景義が開発した「西福田新田」のうちで、明治39年(1906)、三村を合併して「南陽村」が誕生するまで「福屋村」といったところから名付けられた。
藤高(ふじたか)一丁目・藤高二丁目・藤高三丁目・藤高四丁目・藤高五丁目
寛政9年(1797)、海東郡福田村の西川弥市が開発した「藤高新田」にちなんで名付けられた。
藤前(ふじまえ)一丁目・藤前二丁目・藤前三丁目・藤前四丁目・藤前五丁目
文政5年(1822)、名古屋大船町の伊藤喜左衛門が開発した「藤高前新田」にちなんで名付けられた。
船見町(ふなみちょう)
名古屋港築港第八号地で、船が見えるところから名付けられ、大きな貯木場が所在した。
宝神町(ほうじんちょう)・宝神一丁目・宝神二丁目・宝神三丁目・宝神四丁目・宝神五丁目
文化14年(1817)、熱田神宮寺が開発した「神宮寺新田」、海東郡戸田村(現・中川区)の山田弾六と名古屋宮町の藤川屋九郎助とが共同で開発した「山藤新田」・「元美新田」、文政5年(1822)、熱田神宮大宮司の千秋氏が開発した「宝来新田」の各新田を、明治9年(1876)、合併して「宝神新田」と命名したのにちなんで名付けられた。
本宮町(ほんぐうちょう)・本宮新町(ほんぐうしんまち)
享和元年(1801)、「熱田前新田」が完成すると、新田地区内に竜神社・稲荷社・神明社が建立された。この地に建立されたのが竜神社で、古い元(もと)の社ということで名付けられた。
丸池町(まるいけちょう)
「熱田新田」の工区「十三番割」のうちで、この付近を流れていた用水で、幅広く、底深い池状の箇所があった。用水の水が少なくなっても、そこだけは池をなしていたところから、このことにちなんで名付けられた。
港町(みなとまち)
名古屋港築港第二号地で、港本町・海岸通を合わせて名付けられた。
南十番町(みなみじゅうばんちょう)
「熱田新田」の工区「十番割」にちなんで名付けられた。
南十一番町(みなみじゅういちばんちょう)
「熱田新田」の工区「十一番割」にちなんで名付けられた。
名港(めいこう)一丁目・名港二丁目
名古屋港築港第一号地で、真砂町などを合わせて名付けられた。
名四町(めいしちょう)
学区の中央を「名四国道」(国道23号)が東西に貫通しているので名付けられた。
明正(めいしょう)一丁目・明正二丁目
庄内川に架かる「明徳橋」の「明」の字と「正徳橋」の「正」の字を合せて名付けられた。
明徳町(めいとくちょう)
「熱田新田」の西組に位置した旧・明徳村にちなんで名付けられた。
本星崎町(もとほしざきちょう)
「星崎」の名は、旧・本星崎村本地の「星宮社」(星石が納められている)に由来する。南区本星崎町と距離を隔てて港区にも同町名があるが、おそらく星崎村の地先ということで名付けられたと思われる。
竜宮町(りゅうぐうちょう)
名古屋港築港第五号地で、明治43年(1910)、名古屋末広町の山田才吉がこの地(現・東築地小学校所在地)に、「名古屋教育水族館」を設置し、別に五階建ての「南陽館」を建てたことなどにあやかって名付けられたと思われる。
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