第5章 伊勢湾台風の最前線で

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ページID1023611  更新日 2025年10月17日

司会:
何と言っても、港区の歴史において伊勢湾台風は大きな転機になったわけですが、当時はどんな状況だったんですか?

髙羽:
実は西築地は騒がれるほどひどくはなかった。近代になってから埋め立てた土地だから、とりあえずは住めたんだよ。
あ、これからはいかんよ。俺のところは水にたっぷり浸かるよ。それを心配しとるんだわ。

司会:
被災したときはどんな生活をしていたんですか?

髙羽:
変な話だけど、悲しいというよりも贅沢できたんだわ。
物流の拠点だったから、食べ物はいっぱいあるしな。その日は大量に仕入れた日で冷蔵庫が使えず、(別の場所へ)移すこともできず、すべて住民の人に配った。食べるものは市場から差し入れがあったり。おにぎりとお茶と一杯。船から丈が1mくらいのモンキーバナナを房ごともらったのを配ったな。

写真:モンキーバナナ
モンキーバナナ(画像はイメージです)

司会:
地域の助け合いですね。

髙羽:
面白かったのは1斗缶で洗剤が流れてきたことだな。みんなで分けて、いろいろなものを洗ったよ。ポータブルラジオをもらったのも嬉しかったな。これで惨状を知ることもできたし。

司会:
まさに地域で災害を乗り切ったということですね。

髙羽:
まぁ、そういうことだな。
とにかく食うには不自由しなかったな。なかったのは電気だけだもん。布団も米びつも水に浸かっとれへん。西築地はあまり人が死んどらんしな。築地口交差点のあたりに遺体が並んどったくらいだな。

司会:
どのように復興していったのかが気になるところですね。
たしか、昭和40年代半ばになると、物流機能が移動したから、港をにぎわいの場にしようという流れにシフトして、ガーデンふ頭を埋め立てたりしたんですよね。

髙羽:
昭和49年以降だろうな。港の埋め立てが始まったのは。

司会:
西築地エリアの最盛期とどん底と両方知ってるんですね。

髙羽:
いちばんにぎわっていた時期は、とんでもない数の船がきていた。港の周辺より港外の方が多いんだ。当時、60隻ぐらい船が港外で待っとる。港外だで停泊料がいらんのだわ。
俺が町内会長やっとるころは・・・麻雀ばっかやっとったころは暇だったな。商売の需要がないわけだ。お客さんがおらん。

司会:
そんなに変わるものなんですかね。

髙羽:
会社で商売するにしても、今は人がこっち来んでええやん。だで、輸出や輸入でも、名古屋駅前で取引している。昔は申請ひとつ出すのも、富山からでも港まで来なかんかった。今では駅で取引が終わるで港まで来んでもいい。

司会:
港湾機能が動くというのは大変なことなんですね。

髙羽:
「都が変わったら商人も移らんといかん」ってこと考えとらんかったんだろうな。これまでの町がないもん。まだ(港湾機能が)金城ふ頭に移った時はこっちから酒を運んどったけどな。

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