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名古屋駅前散策コース(詳細)

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このページを印刷する最終更新日:2023年1月4日

ページID:1226

ページの概要:名古屋駅前散策コースを案内しています。

(1)西祐寺

西祐寺(鐘楼)の写真

もと滋賀県小谷村にあり、西祐の開基というこの寺は、明治42年、広井尋常小学校の跡地であったこの地に移されました。門の上に鐘楼が乗ったこの寺の本尊は阿弥陀如来立像。

(2)名古屋国際センタービル

国際都市をめざす名古屋が世界へはばたく拠点ビル。2階から5階まで、市民レベルの国際交流をめざした国際センターが入るこのビルは、地上26階、地下3 階、高さ102m。時代の最先端を行く思想と憩が1つになった市民の新しいコミュニケーションゾーンです。

(3)山車(だし)

新明社の大祭での山車の写真

贅を尽くし、工夫をこらした山車。その上で人形がからくりで巧妙に動く様子は目を見張らせます。山車は町のシンボル。区内には文政年間に造られた紅葉狩車、二福神車、唐子車の山車があり、地元の人々によって守り続けられています。いずれも市の文化財に指定され、名古屋まつりの山車揃、10月17日の神明社の大祭にはその雄姿をみることができます。

(4)神明社

神明社の写真

10月第2土曜日の大祭には、紅葉狩車、二福神車、唐子車の三両の山車が繰り出し、町内を練り回してにぎわいます。参道の敷石に不動明王が現れ、参詣に来た人が金縛りにあったといわれ、この敷石が坤現不動として祀られています。祭神天照大御神。

(5)光明院

千石船に乗った地蔵様の写真

もと清須にあったが、慶長遷府の時、この地に移ったといわれます。境内に多くの地蔵様があります。普通は東か南を向いているが、ここの地蔵様は北を向いた珍らしいもの。また、千石船に乗った地蔵様もあり、これは全国でもあまり例を見ないもの。さらに大きな石に刻まれた三十三観音像もあり、尾張藩御用商人三人衆の一人で主席を占めた内海屋の寄進によるものといわれます。

(6)浄信寺

本尊阿弥陀如来像。宝物に聖徳太子作と伝えられる子安地蔵菩薩があります。笛・ひちりき・笙を学び、管弦・舞楽の道を極めて、本願寺楽頭として一門の栄誉と責任をになった羽塚秋楽は九世住職。明治14年、東照宮の楽事に臨み、廃絶に帰せんとしていた舞楽を挽回し、名古屋楽人の名誉を一身に集めたと伝えられます。

(7)納屋橋

納屋橋の写真

明治・大正の名古屋を今に伝え、市民に親しまれ続けてきた広小路通の名物納屋橋。今も昔の優雅な姿をそのままに、堀川の水面に映しています。この橋が初めてかけられたのは慶長15年(1610年)の「清須越」のとき。橋のたもとにたたずみ、昔、経済の大動脈として名古屋を支えた堀川を見るとき、悠久の念にかられます。欄干には堀川開削の総奉行福島正則と郷土の三英傑の紋所も見られます。

(8)白龍神社

白龍神社の写真

「白龍さま」の名で知られるこの神社は、昔は柳橋交差点近くにあり、前を江川の清流が南北に流れていました。その傍にイチョウの木があり、いつかこの木に白龍が乗り移り数々の霊験を現すようになりました。昭和の初め、この木を切ろうとしたところ、病人や怪我人が続出し、伐採は取りやめられました。昭和34 年、東側の現地に無事移植されました。商売繁盛に特に御利益があるといわれます。

(9)八角堂

八角堂の写真

初代尾張藩主徳川義直は、名古屋城二之丸御庭に我が国初めての聖堂を建て、学問所とした。享保9年(1724年)七代宗春が夫人鶴千代のために、水主町の法蔵寺に移し、以来八角堂とよばれました。先の戦禍で焼失しましたが、平成16年に再建されました。参観は毎月第1土曜日に限られます。

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