見晴台遺跡市民発掘の歴史
見晴台遺跡の発掘調査は、調査のほぼすべての過程を市民参加で実施することを特徴としています。各地で同様の体験発掘事業が行われていますが、長期間にわたって、発掘調査の各工程が体験できる見晴台遺跡の市民発掘調査は、全国的に見ても他に例の無い事業といえます。
見晴台遺跡
見晴台遺跡は、南区見晴町の笠寺公園周辺にひろがる、旧石器時代から室町時代にかけての遺跡です。残されている遺構の時期は、弥生時代中期から古墳時代初頭、おおよそ2000年前から1700年前が中心になります。
見晴台遺跡で見つかっている遺物で最も古いのは17次調査のピット(小穴)から出土した角錐状石器(かくすいじょうせっき)です。おおよそ2万年前に作られたと考えられている石器です。それ以後、縄文時代の生活痕跡はあまり多く残されていませんが、縄文時代晩期終わりころ、おおよそ2500年前には、台地の東側の低地部分で縄文時代の貯蔵穴が見つかっています。6次調査で見つかった3基の貯蔵穴からは、ドングリやクルミなどの堅果類が出土しています。
弥生時代後期になると、竪穴住居跡が数多く見つかるようになり、見晴台遺跡にムラが営まれていたようです。このムラには周りを取り囲む濠(環濠)が掘削されました。この環濠は、断面形状がV字形をしており、幅約4m、深さ約4mあります。環濠全体では、直径200mほどの規模になります。環濠の北西側部分では濠が複数に掘られていることがわかっており、50から51次調査においても、環濠が平行に掘られている状況が確認されました。弥生時代後期を中心としたムラでは、これまでに220軒以上の竪穴住居跡が見つかっています。
古墳時代にはいったん生活痕跡が少なくなりますが、古代には再び竪穴住居が見つかるようになり、ムラが営まれていたようです。中世以降は笠覆寺(笠寺観音)に関連すると考えられる陶磁器類が溝から出土しています。近世・近代にかけては、畑地として利用されていたようで、耕作地の境界と考えられる溝などが見つかっています。
太平洋戦争の間には見晴台遺跡付近は、本土防衛のための高射砲陣地が築かれました。現在でも笠寺公園内には高射砲の台座が残されています。
見晴台遺跡市民発掘の歴史

見晴台遺跡は、昭和16年に当時全国2例目であった銅鐸形の土製品が発見されたことで注目を集めました。昭和22年には遺跡周辺が笠寺公園として整備されることになり、公園計画の事業計画が決定された昭和36年から、在野の研究者の皆さんにより保存の重要性が議論されてきました。昭和38年には「名古屋考古学会」が結成され、見晴台遺跡の重要性を確認するために、昭和39年に最初の発掘調査が行われました。台地の東側の部分が調査された1次から3次調査では環濠や住居跡が確認されました。4・5次調査では台地の西側で6軒の住居跡を確認し、6次から8次調査では現在ゲートボール場がある部分で低地部の調査をおこない、縄文時代の貯蔵穴がみつかりました。
昭和46年には87,000平方メートルを歴史公園として整備することが決定し、この後は整備計画と連動して調査がすすめられていきました。また、10次調査からは調査体制も変化し、教員・大学生・高校生・中学生の参加が大幅に増えました。そのなかで、中学生の青空教室が開催されるなど、学習活動も盛んとなり、中学生の体験論集「見晴台教室」も発行されました。第14次調査前にはプレハブの仮設見晴台考古資料館が設置され、昭和48年の15次調査実施中には見晴台考古資料館の建設が決定し、昭和54年の資料館開館以降、19次調査からは、見晴台考古資料館が主体となって、広く市民の皆さんから参加を募って調査を進めてきました。このように見晴台遺跡の市民発掘は、市民のみなさんに参加いただきながら、半世紀にわたって続けられてきたものです。こうした調査は全国的にみても他に例がありません。
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