浮野学区(西区)の紹介
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ページの概要:西区の浮野学区についてご紹介します。
0.770平方キロメートル
西区各学区の人口と世帯数については、下記ページからご覧いただけます。
西区の西北端に位置する浮野学区は、昭和50年(1975年)、平田小学校分校の独立とともに平田学区から分割され誕生した。
名古屋市の東部丘陵地の新興住宅とは異なり、田園地帯にそそりたつ白亜の住宅で、新興ベッドタウンとして注目を集め、これをきっかけに民間の住宅や店舗などが続々と建築されるようになった。南北に長い学区の中央付近を東名阪自動車道(高架下は国道302号)が東西に横切っている。
昭和39年(1964年)、土地区画整理事業が始まり、昭和47年(1972年)に完了した。米作りに適した緑豊かな水田地帯は一新され、住宅・店舗と倉庫・工場が共存する地域となりその業種は、繊維、紙、印刷、機械、板金など多種にわたるものである。
昭和55年(1980年)の国道302号の開通を始め、高速道路網の充実や下水道の整備など着々と都市基盤の整備が行われてきた。また、昭和51年(1976年)の集中豪雨によって氾濫し、近隣に相当な被害をもたらすなど、幾度も住民を苦しめ、不安にさせてきた学区の真中を南北に流れる水場川については、流下能力向上のための改修工事が行われた。
各学区の活動、取り組みなどについて、活動内容や実施スケジュール、成果、課題などの点を紹介する「地域活動事例集」の中から、浮野学区の地域活動事例を紹介します。
(地域活動事例集は、地域で様々な活動に取り組まれている皆様の「他の地域の活動を参考にしたい」という声を受けて作成されたものです。地域活動の魅力向上や新たな活動に取り組む上でのきっかけとして、ぜひご活用ください。)
浮野学区地域活動事例
浮野学区の活動事例「浮野学区ふれあい給食壽会」について紹介しています。
西区各学区の地域活動事例については、下記ページからご覧いただけます。
水場川流域は絶えず内水氾濫による浸水が心配される地形です。平成12年の東海豪雨以後も何度も水害に見舞われ、大雨の度に大変不安な日々を送ってきました。思い出すのは地元住民16,500人の署名を携え、水場川改修の要望書を提出した日のことです。あれから8年以上が過ぎた今年6月15日浮野小学校にて、待ちに待った水場川改修完成式典を行うことができました。私たちにとって本当にうれしい一日となりました。
今、穏やかに流れる水場川の横を浮野っ子たちが笑顔で歩いています。この笑顔を守るためにも引き続き地域で協力し合い、防災に強いまちづくりを進めていきます。
昭和30年に西春日井郡山田村が名古屋市に合併して、今の浮野学区は西区山田町となりました。昭和41年水田地帯に市営平田住宅が完成したことにより、新興ベッドタウンとして注目を集め、民間の住宅や店舗、工場などが次々に建築されました。昭和47年からは現在の町名になり、翌48年この地区に平田小学校分校が作られ、昭和50年4月に浮野小学校が独立開校しました。
大昔の浮野は今の清須市の東、朝日遺跡の中にあって、朝日ムラと呼ばれる集落の生活がありました。昭和47年からは国道302号の建設にあたり、朝日遺跡の発掘がすすめられ、平田住宅の建て替え工事前に行われる遺跡の発掘調査では、弥生時代のお墓である方形周溝墓がたくさん見つかりました。最古の銅鐸鋳型の破片や弥生土器が出土して話題になり、今年行われた調査説明会では、古墳時代の人の足跡が見つかったという驚くべき報告があります。
昭和50年代の浮野学区は、登校時には長い列が続きました。神社仏閣がない学区ですからお祭りというと子ども会で毎年おみこしを自分たちの手で作りワッショイと練り歩きました。時代が変わり、少子化の波は浮野学区でも例外ではなく、かつてのように若い世代の流入が待たれています。浮野小学校に数多くの子どもたちが集うことを願っています。
西区役所区政部地域力推進室安心・安全で快適なまちづくりの企画担当
:052-523-4525
:052-522-5069
名古屋市西区役所 所在地、地図
開庁時間 月曜日から金曜日 午前8時45分から午後5時15分まで(休日・祝日・年末年始を除く)
(注)開庁時間が異なる組織、施設がありますのでご注意ください
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