稲生学区(西区)の紹介
ページの概要:西区の稲生学区についてご紹介します。
0.989平方キロメートル
西区各学区の人口と世帯数については、下記ページからご覧いただけます。
稲生の地名は古く、天武天皇の白鳳時代、氏神に伊奴神社を勧請し、伊奴から稲生と呼ぶようになったといわれる。
明治22年(1889年)稲生村・名塚村・新福寺村・堀越村の4村が合併して庄内村となり、大正15年(1926年)庄内町となり、昭和12年(1937年)名古屋市西区に編入された。そして、昭和24年(1949年)、人口の増加により、稲生学区は庄内学区から分離した。
平成22年、稲生学区北部にあった西ふれあい広場を閉館して又穂町に稲生コミュニティセンターが誕生した。稲生小学校父母教師会と同会のOB稲生クラブからAED(自動体外式除細動器)が贈呈され、西区内のコミュニティセンターでは初めてAEDが設置された。
稲生学区では、地域の子どもは地域で守らなければならないとの思いから、「稲生子どもを守る会」を発足した。会員が町内の通学路に立ち、町内の子どもたちの安全を確かめている。家庭では親(保護者)が子どもを守り、学校では先生が子どもを守り、そして、地域では地域の人が子どもを守る。親・学校・地域が三位一体となって大切な子どもを守るため、稲生学区では活動を進めている。
各学区の活動、取り組みなどについて、活動内容や実施スケジュール、成果、課題などの点を紹介する「地域活動事例集」の中から、稲生学区の地域活動事例を紹介します。
(地域活動事例集は、地域で様々な活動に取り組まれている皆様の「他の地域の活動を参考にしたい」という声を受けて作成されたものです。地域活動の魅力向上や新たな活動に取り組む上でのきっかけとして、ぜひご活用ください。)
稲生学区地域活動事例
稲生学区の活動事例「地域・学校・親 三位一体で子どもを守る」について紹介しています。
西区各学区の地域活動事例については、下記ページからご覧いただけます。
「稲生学区の自慢」ということで、「稲生雅楽会」を紹介します。稲生学区で一番の名所は、年間25万人の参詣人がある伊奴神社ですが、ここで、御神德宣揚に努めているのが「稲生雅楽会」です。本会は、現会長の中村邦彦さんの祖父覚右衛門さんが、伊奴神社の発展興隆のため大正8年に結成したもので、現在は、鈴木堂弘講師を含め6人のメンバーが日頃練習をかさね、伊奴神社の他、方々の行事で活躍中です。宮内庁、神社庁など幾多の表彰を受けています。
その他、恒例行事としては、安性寺の節分会まめまき、秋葉祈祷会、伊奴神社の花まつり、又穂の団地まつりなどが人気で、稲生学区の人々の楽しみの場となっております。
稲生の地名は古く、天武2年(672年)創建の伊奴神社に由来するとされます。実際に文献に稲生の地名が現れるのは室町期になってからですが、この頃の稲生は現在の学区よりももっと広く、東は光音寺から西は名塚、新福寺あたりまであったようです。そのせいか稲生の妙本寺、名塚の宗円寺・新福寺はともに山号を稲生山と号しています。
これらの地域は光音寺を除き、昭和12年(1937年)名古屋市に合併する前は西春日井郡庄内町でした。つまり現在の庄内学区と稲生学区は1つでしたが、昭和24年(1949年)分離し稲生学区となりました。平成21年は稲生小学校誕生60周年ということで、小学校主催で郷土史の先生のお話を聞いたり、史跡めぐりをしたり地域ぐるみで勉強しました。
稲生はその名前のように、かつては農業を生業とする集落で惣兵衛川(庄内用水)以南は浄心まで見渡せるほど一面の田畑でその広い地域で稲生の先人たちは農業にいそしんだようです。その稲生も大正から昭和の初めにかけ、南部から宅地化・工場用地化が進み、惣兵衛川からの取水権を返上した昭和30年代初め頃の農地はほぼ現在の江向町地内に縮小していました。
伊奴神社は平安時代に編まれた延喜式に記載のあるいわゆる式内社でその社格も高く、まさに稲生の鎮守であり、秋の例大祭などは子ども獅子やお神輿などで、地域全体のお祭りとなっていますが、最近ではその名前から、安産・子育ての神様として広い地域から若い人たちの参拝も多くあります。
西区役所区政部地域力推進課地域の魅力の発信・観光推進担当
:052-523-4525
:052-522-5069
名古屋市西区役所 所在地、地図
開庁時間 月曜日から金曜日 午前8時45分から午後5時15分まで(休日・祝日・年末年始を除く)
(注)開庁時間が異なる組織、施設がありますのでご注意ください
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