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庄内学区(西区)の紹介

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このページを印刷する最終更新日:2023年5月19日

ページID:41230

ページの概要:西区の庄内学区についてご紹介します。

庄内学区

プロフィール

面積

1.808平方キロメートル

人口と世帯数

西区各学区の人口と世帯数については、下記ページからご覧いただけます。

西区の統計(人口など)

生活環境指標

西区各学区の生活環境指標については、下記ページからご覧いただけます。

「学区別生活環境指標」紹介ページ


学区の紹介

 明治以前この辺りは尾張山田荘に属し、北に庄内川、南に矢田川が流れ、その中に名塚村、新福寺村、堀越村があったが、度々の洪水で大きな被害を受けたため、慶長19年以降現在地に移住した。「尾張徇行記」によれば、名塚村74戸270人、新福寺村27戸116人、堀越村68戸335人と記されている。明治22年、稲生村・名塚村・新福寺村・堀越村を合併して庄内村ができた。村の名前は庄内川左岸に位置したことから命名したとされている。庄内川は、古くは土岐川、玉野川、勝川、枇杷島川、番場川、一色川と沿川の地名と密接した名前で呼ばれ全川を通した名前はなく、一説には江戸期に沿川に発達した農業集落地「庄」(稲生庄、山田庄、一色庄など)の内をぬって流れる川ということから、庄内川と呼ばれるようになったといわれる。また、地名の別の由来としては、アイヌ語の「ショナビ」が「ショナイ」と鈍ったものという説もある。つまり庄内川、矢田川の土砂によって堆くなった土地という意味である。昭和12年名古屋市域拡張により、当時の西春日井郡庄内町から西区の区域となった。
 大正の末期までは純農村地帯であったこの地も、名古屋布袋線の開通と庄内川橋の架橋により商工業の発展は目覚ましいものがあった。特に、東洋レーヨン、御幸毛織等の染色・毛織物工場等の進出により人口も増加し、住宅の街として長足の進歩をなしてきた。戦後、国道22号線開通により、新名西橋が堀越町に架設され、また平成5年には地下鉄3号線が上小田井までの延長により、名鉄犬山線と相互乗入れも実現した。さらに、平成19年には名古屋高速道路も完成し、鳥見町から乗り入れができ、一宮では名神高速道路とドッキングし、他県への交通玄関口として今後ますますの発展が期待される。

地域活動事例

 各学区の活動、取り組みなどについて、活動内容や実施スケジュール、成果、課題などの点を紹介する「地域活動事例集」の中から、庄内学区の地域活動事例を紹介します。

(地域活動事例集は、地域で様々な活動に取り組まれている皆様の「他の地域の活動を参考にしたい」という声を受けて作成されたものです。地域活動の魅力向上や新たな活動に取り組む上でのきっかけとして、ぜひご活用ください。)

庄内学区地域活動事例

西区各学区の地域活動事例については、下記ページからご覧いただけます。

「西区の地域活動事例」紹介ページ

学区だより

旧蹟 庚申塚(稲生原古戦場跡)-庄内学区・加藤さんより-(広報なごや平成25年2月号西区版掲載)

庚申塚の写真

 この塚は、地下鉄庄内通駅より北北西に徒歩5分から6分の所にあり、小さな祠と石碑が残っている。
 約450年程前、柴田勝家らは織田信長の弟信行を擁立し、信長に対して謀反の動きがあったため、信長は、弘治2年8月名塚砦(名塚白山社境内)を築き、この地で勝家軍と戦い、信長が勝利し尾張の統一に大きく踏み出した。戦死者は稲生原あたり一面を真っ赤に染め、特に砦の正面である庚申塚(名塚町一丁目)周辺は、目を覆う惨状であったため、討ち捨てられた死体を哀れと思った住民が、塚を造り葬り祀ったものといわれている。
 
 庚申塚とは、路傍などに青面金剛(庚申…十二支の申)を祀ってある塚。三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の形を刻んだ石塔などを建ててあることが多い。

庄内学区の変遷-庄内学区・横井さんより-(広報なごや平成23年6月号西区版掲載)

 伊勢湾の奥深くに位置していた庄内学区周辺の歴史は弥生時代から始まると言われております。これは西志賀貝塚・天塚町遺跡、船人夫町貝塚などの発掘で推定されております。
 しかし、この低地一帯に庄内川・矢田川などによって上流から土砂が運ばれ、1000年以上の長い年月によって次第に土地が盛り上がり、また人工的な埋め立てなどもあって、現在の広大な平地が形成されたと思われます。
 そこに住みついた先人達は猟や漁業、農耕生活にいそしみ、人口の増加とともに近くの土地に分散し、名塚村、新福寺村、堀越村などが構成されてきました。
 慶長15年(1610年)に名古屋城の築城工事が始まり、庄内川・矢田川の治水工事も施工されて、堤防が改築されることになりました。この時堤防の内側になる村落は堤防の外へ出るよう指示があり、名塚、新福寺、堀越の各村は神社、寺院とともに南側の現在地に移住しました。
 その後は大きな移動もなく、大正時代まで農耕中心の生活が続き、昭和に入ってからは庄内川の伏流水によってメリヤス工場、染色工場、製綿工場などが進出し、商店街もできてきました。
 今では人口の増加、住宅の密集などでそうした工場は次第に少なくなり、マンションやスーパーなどが建設され、地域の風景が変わってきました。そうした近年の学区の発展には目を見張るものがありますが、戦前(昭和15年頃)まで行われていた各神社の祭礼、地域の行事などが少なくなってきたことは淋しく思われます。

このページの作成担当

西区役所区政部地域力推進課地域の魅力の発信・観光推進担当

電話番号

:052-523-4525

ファックス番号

:052-522-5069

電子メールアドレス

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