幅下学区(西区)の紹介
ページの概要:西区の幅下学区についてご紹介します。
0.551平方キロメートル
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明治5年(1872年)、第8義校・9義校・10義校(幅下小学校の前身)の誕生以来の歴史を持つ学区である。
慶長の清須越により城下町名古屋が誕生したが、この時の町の西限は幅下までであった。築城のための陣屋が設けられ、陣屋跡や美濃路沿いに商人を中心とした町が作られていった。藩政以前のこの辺りは、名古屋城と碁盤割商人街が那古野台地に築かれ、堀川沿いの四間道より東が幅上、西が幅下とされた。西側でも士分以上の侍屋敷町と製造業や卸問屋業等の、美濃路沿いの米蔵のある旧名古屋村の辺りを「幅下」と呼んだのが学区名の由来と伝えられている。
江川線を挟んで東西に一歩入ると菓子問屋の街になる。この地域の菓子は俗に駄菓子といわれる煎餅や飴等が中心で、元禄7年(1694年)に新道が開通した年の暮れに初代笠屋与八(現・古橋製菓(株))が門前町の供物菓子からはじめた。文政の頃(1818年から1830年)から盛況を見せ始めたが、本格的になったのは内外に販路を拡張した関東大震災の頃である。この界隈は昭和46年(1971年)まで路面電車が縦横に走り、「新道・明道町の菓子問屋」といわれて多くの住民が菓子類の製造・販売に携わった。通りには店舗が連なって朝早くから「カンカン部隊」等の利用客で賑わう日本有数の菓子問屋街だった。現在はスーパー・コンビニ時代といわれる大きな社会の変化と人々の嗜好の変化により、店舗数もかなり減少したが、この街の菓子問屋はこれからもたくましく存続していくことを町の人は願っている。
各学区の活動、取り組みなどについて、活動内容や実施スケジュール、成果、課題などの点を紹介する「地域活動事例集」の中から、幅下学区の地域活動事例を紹介します。
(地域活動事例集は、地域で様々な活動に取り組まれている皆様の「他の地域の活動を参考にしたい」という声を受けて作成されたものです。地域活動の魅力向上や新たな活動に取り組む上でのきっかけとして、ぜひご活用ください。)
幅下学区地域活動事例
幅下学区の活動事例「ふれあい盆踊り」について紹介しています。
西区各学区の地域活動事例については、下記ページからご覧いただけます。
法蔵寺は真宗大谷派で山号は田中山です。歴史の古い寺ですが、この地に移ったのは、清須越直後の寛永3年(1626年)です。お菓子で有名な新道の近くにあり、新道六ヶ寺の一角を占めています。江戸時代には樽屋町の大木戸を軸に西の守りでもありました。
鴫塚には貞享元年(1684年)芭蕉がこの辺りの田中の里で詠んだ「刈跡や早稲かたかたの鴫の声」の句が刻まれています。安政3年(1856年)冬、暒湖・三四等の発起で建てられたもので、文字は竹村鶴叟(たけむらかくそう)の筆です。傍らに当寺の住持大夢の建てた「鴫塚」としるした標石が立っていますが、これは再建碑で原碑は戦災で焼失しました。
芭蕉は那古野の円頓寺にも訪れ、「ありとあるたとえにも似ず三日の月」の句を残していますが、幅下で唯一の芭蕉の鴫塚の句は貴重な文化遺産です。昭和52年名古屋市史跡に指定されました。
幅下学区は清須越の五条橋、清須越商人の川伊藤家や青木家の所有する四間道の蔵、富士浅間神社、新道六ヶ寺、新道菓子問屋街など史跡に恵まれた地域です。
下級武士や商人が多く、学問も盛んだった西区の中でも特に寺子屋が活発で、坪内逍遥も幼い頃新道の寺子屋に通いました。幅下橋の袂に蟹養斎が設立した「幅下学問所跡」の表札がありますが、これは尾張藩藩校「明倫堂」の先駆をなすものです。
また、明治5年創立の幅下小学校の宝に、「山岡鉄舟の大額」があります。山岡鉄舟(1836年から1888年)は江戸城の無血開城を勝海舟より前に西郷隆盛と交渉し約束させた人で、明治20年頃幅下小学校へ政府の要人として視察に訪れました。児童数は800人(巷では千人学校といった)、校舎が二階建で、当時としては先進的な教育が行われていたことを評し、「東海第一の学校なり」と賞賛し、大額に「幅下校」と墨書しました。鉄舟は翌年53歳で死去しました。
西区役所区政部地域力推進課地域の魅力の発信・観光推進担当
:052-523-4525
:052-522-5069
名古屋市西区役所 所在地、地図
開庁時間 月曜日から金曜日 午前8時45分から午後5時15分まで(休日・祝日・年末年始を除く)
(注)開庁時間が異なる組織、施設がありますのでご注意ください
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