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笈瀬川筋散策コース(詳細)

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このページを印刷する最終更新日:2023年1月4日

ページID:1253

ページの概要:笈瀬川筋散策コースを案内しています。

(1)水野社

700年以前よりこの地にあるといわれる水野社は、かつて八雲琴が伝承されていました。文政3年(1820年)伊予国中山吉士通郷が神託により創始し、世に広めたといわれる八雲琴は、竹を二つ割にした胴に二弦を張って弾奏し、神聖な神曲を演じて神に奉ずるものです。これを演ずるにも、琴の扱いにもつつましやかなみそぎが行われていました。

(2)椿神明社

椿神明社の写真

わしはおいせ川のカッパ太郎だ。川岸にはお宮の森がある。何十本もの大椿が繁っているので椿の森とよんでいる。おいせ川は子どもの天国だ。大勢の子どもが泳いでいる。わしも泳ぎがうまい。それに誰にも負けない力持ちさ。一番得意は男の子に化けることだ。・・・。力自慢で男の子に化けるのが得意なカッパの話が伝わる椿神明社は伊勢神宮の外宮にみたてられた社で、豊宇気比売命(トヨウケヒメノミコト)を祀っています。

(3)稲穂社

稲穂社の写真

天保2年(1831年)、当時の牧野村住民の内より12戸がこの地に移住して新たに一集落が造られました。当社はこの里の守護神として祀られたものです。

(4)牧野神明社

甘酒祭で有名です。昔、境内に大きな藤の木があり、花期には大勢の人が集まり田畑を荒したため、この木を伐採したところ、村中に疫病が流行した。陰陽師が占うと藤の木の祟りであり、酒を醸して神に献ずれば癒るということであった。そこでおいせ川の水で甘酒を造り、神に献じたら、たちまち疫病がなくなったといわれ、以来今日に至るまで神事として行われています。伊勢神宮の内宮に見立てられたこの社の祭神は天照大御神。

(5)須佐之男社

須佐之男社の写真

祭神建速須佐之男命(タテハヤスサノオミコト)・火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)。小じんまりとした社であるが人々の崇敬厚く、前の歩道に御神木が立っているのも面白い。古来より、椿神明社、牧野神明社、稲穂社、厳島神社とともに、牧野5社の1つ。

(6)厳島神社

厳島神社の写真

周囲に水を巡らし、中央に社殿を奉安したこの神社は一風変わった雰囲気を漂わせています。古くより椿神明社、牧野神明社とともに牧野村三社の1つでした。

(7)福田兼助碑

福田兼助碑の写真

智興寺前に福田兼助の碑が建っています。名古屋西地区近代教育の祖といわれた兼助は、農家の出であったが学問を好み、徳川時代末期に村の子弟の教育に尽くし、明治になり学制が敷かれたときは推されて村校の教師になった人。この碑は門人・知友達が敬愛の念を表すため、明治34年に建てたものです。

(8)熊野社

熊野社の写真

鳥居の右に青銅の神馬が雄姿をみせる熊野社。境内はクス、ケヤキの保存樹がうっそうと繁り、静寂な雰囲気を漂わせています。祭神は伊邪那美大神(イザナミノミコト)。境内には末社の子安社もあり、安産の守護神木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)を祀っています。

(9)金山神社

金山神社の写真

鎮火・農耕の神としてあがめられている金山毘古神(カナヤマヒコカミ)を祀った神社。鍛冶業の守護神であり、昔、露橋附近で名古屋城の石垣用の石を切ったとき、石工達に信仰されたといわれます。

(10)円福寺

天正6年(1578年)、北一色村善行寺の二世海善が米野村に隠居して一宇を創建したのに始まります。海善は織田信長の親族であったといわれます。本尊阿弥陀如来立像。

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