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津金文左衛門胤臣の肖像画
津金文左衛門胤臣は、享保12年(1727年)に、現在の東区徳川一丁目(旧平田町)に生まれました。
彼の活躍した時代は、尾張藩9代藩主・徳川宗睦の時代でした。
彼は16歳で家督を継ぎ、世子治休(はるよし)の小姓となりました。
文武に優れていたため、宝暦3年(1753年)に金方納戸役、明和元年(1764年)に勘定奉行、安永6年(1777年)に先手物頭、寛政元年(1789年)に錦織奉行、寛政3年(1791年)に熱田奉行兼船奉行になり、75歳まで執務したといわれます。
通例、50歳ごろには隠居する当時にしてみれば、彼の才能がいかに藩内で認められていたかが想像できます。
18世紀後半、幕藩体制が大きく揺らぎ、各藩とも財政面で苦境に立たされていました。
尾張藩でも、度重なる風水害や飢饉(ききん)によって財政赤字が累積していました。
津金文左衛門は、藩財政の建て直しを図るための新田開発を積極的に進めました。
そして、寛政9年(1797年)、飛島新田(飛島村)の干拓に続き、寛政12年(1800年)7月、調達金1万両で熱田前新田開発に着手しました。
熱田前新田、約349町歩は、着工からわずか6カ月後の享和元年(1801年)正月、突貫工事によって完成しました。
この熱田前新田も、後の安政2年(1855年)、暴風雨のため新田堤防が決壊し、大被害を被りました。
しかし、当時の藩の財力ではこれを修復できず、しばらく放置されていましたが、伊藤次郎左衛門、内田忠次郎らから1,500両の工事費を借り入れて修築されました。
津金文左衛門は、熱田前新田の干拓功労者としてばかりではなく、窯業開発の功労者としても有名です。
領内で募った熱田前新田の入植者の中に、春日井郡瀬戸村の陶工、加藤吉左衛門景高と民吉保賢の父子がいました。
文左衛門はこの者たちに自身が習得した中国南京焼の製法を伝授、資金を与えて研究させました。
また、文左衛門の子の胤貞もまた、新製法に改良を図り、中部地方特産品としての発展の基礎を築きました。
後に民吉は、九州の磁器の技法を瀬戸に持ち帰り、瀬戸陶磁器を完成させました。
津金文左衛門は、干拓工事の完了した享和元年(1801年)にこの世を去りましたが、記録では病死とされていました。
しかし、太平洋戦争後の昭和27年(1952年)5月11日、戦災都市復興計画に基づく平和公園への墓地移転に際し、大光寺(中区門前町)で彼の棺が発掘され、屍蠟(しろう)化した遺体の状況により、割腹により死亡したとする説が発生しました。
割腹の理由については、新田開発による藩庫逼迫(ひっぱく)の責任を取ったという説や知遇を得た君公、宗睦の逝去を悼んだためであるなど諸説あります。
しかし彼の最期については、いまだはっきりとはしていません。
遺体は、昭和27年(1952年)5月11日に飛島村で火葬されました。
いずれにしても、彼が生前に成し遂げた業績の数々は偉大なものであり、特に港区にとっては最もゆかりの深い人物のひとりということができます。
現在、彼の遺徳をしのぶ記念碑「津金文左衛門胤臣頌徳碑(しょうとくひ)」が港北公園内に、また銅像が飛島村に建てられています。
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