名古屋市役所 郵便番号:460-8508 愛知県名古屋市中区三の丸三丁目1番1号 電話番号:052-961-1111(代表) 所在地、地図
常設展示室
豊臣秀吉は天文6年(1537)に、秀吉清正記念館が建つ尾張中村(現・名古屋市中村区)で生まれました。当時は、室町幕府が弱体化し各地の戦国大名が実力で領土を支配する、戦乱の時代でした。秀吉は、織田信長の統一事業を継承して国内を統一し、近世社会の形成に大きな役割を果たしました。この秀吉の下で、加藤清正ら多くの尾張出身の武将たちが活躍しました。
常設展では、尾張中村で生まれた2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正の事績を紹介しています。秀吉が信長に仕えたころから、天下統一への道、秀吉死後の関ヶ原の戦い、大坂の陣での豊臣氏滅亡までを、実物資料や複製により展示しています。
ただいまの見どころ
常設展 165期
10月1日(火曜日)から11月27日(水曜日)
豊臣秀吉自筆掟書
桃山時代 天正13年(1585)11月21日付
名古屋市指定文化財 近江木下家旧蔵
*秀吉が妻ねね(後の高台院)に宛てて書いたと思われる約束ごとの手紙。
◆◆ただいまの展示目録◆◆
常設展の展示構成
常設展示室では、定期的に展示替えを行っています。ここで紹介した資料は展示されていない場合もありますので、ご了承ください。詳しくは、「ただいまの展示中の資料」でご確認ください。
テーマ1.信長と秀吉
尾張の戦国大名、織田信長はしだいに勢力をのばし、永禄11年(1568)に室町将軍・足利義昭を助けて、京(今の京都)に入りました。秀吉は信長に仕え、長浜城主(現・滋賀県)、次に姫路城主(現・兵庫県)に取り立てられ、力をつけていきます。信長は元亀4年(1573)に室町幕府を滅ぼしますが、天正10年(1582)、本能寺で明智光秀に討たれ、天下統一を目の前にして倒れました。ここでは信長が天下統一を志した時代を紹介します。
本能寺焼討之図
明治 楊斎延一画
天正10年(1582)に起きた、本能寺の変の様子を描いた浮世絵。
テーマ2.秀吉の天下統一
信長の死後、秀吉は他の家臣たちをおさえ、後継者となりました。ここでは「天下統一」、「検地と刀狩り」、「対外政策」の3つの小テーマに分け、秀吉の天下統一への道のりと、政治手法を紹介します。
2の1.天下統一
秀吉は天正10年(1582)、山崎の戦いで明智光秀を、翌年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を倒し、信長の後継者として、天下統一を進めていきました。秀吉が政治の中心を置いたのは、大坂城(現・大阪市)でした。天正13年(1585)に関白(天皇を助けて政治を行う職)となり、豊臣姓を名乗ります。天正18年(1590)に小田原(現・神奈川県)の北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を成し遂げました。
豊臣秀吉画像
江戸時代前期 近江木下家資料
秀吉清正記念館蔵 名古屋市指定文化財
馬藺後立兜(ばりんうしろだてかぶと)
複製 原資料:桃山時代 大阪城天守閣蔵
豊臣秀吉が所用し、九州攻めの際、西村重就にほうびとして与えた兜。
裁断橋擬宝珠(さいだんばしぎぼし)
江戸時代前期 元和8年(1622)
名古屋市博物館蔵 名古屋市指定文化財
小田原攻めの最中に病死した堀尾金助の三十三回忌にあたって、母が心情を刻んだもの。
2の2.検地と刀狩
秀吉の打ち出した政策で、特筆されるのは、ほぼ全国で検地と刀狩を行ったことです。検地は、全国の土地を測量し、石高(こくだか その土地で、米がどれだけとれるかの見こみ)を決めたものです。これをもとに年貢(ねんぐ)高を決め、安定した経済基盤づくりを目指しました。刀狩は、農民に武器の所有を禁止し、没収するものでした。それまで不明確だった、農民と武士の区別をはっきりさせました。
検地基準尺
複製 原資料:桃山時代 尚古集成館蔵 重要文化財
太閤検地で、長さの基準である1尺(約30センチ)を定めるために使われた。石田三成の花押がある。
2の3.対外政策
秀吉の時代には、日本近海にポルトガルなどヨーロッパの船がやってくるようになりました。秀吉は貿易を奨励し、当初はキリスト教も受け入れていましたが、天正15年(1587)に突如、キリスト教の布教を禁止し、弾圧を始めます。明(みん、今の中国)を征服しようと、2度にわたり朝鮮に出兵しました。この戦いで朝鮮だけでなく、国内も重い負担に苦しむことになりました。この戦いは、秀吉の死によってようやく終わりました。
正清猛虎討取図
江戸時代後期 元治元年(1864) 月岡芳年画
秀吉清正記念館蔵
秀吉の命で朝鮮半島に渡った加藤清正が、虎をで討ちとったという逸話を描いた浮世絵。
テーマ3.関ヶ原の戦い
慶長3年(1598)、秀吉は幼い子ども、秀頼(1593-1615)を残して死去しました。リーダー不在の混乱の中から、実権を握ったのが徳川家康でした。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで、敵対する石田三成らを破り、慶長8年(1603)に江戸幕府を開きました。慶長20年(1615)、秀頼は大坂の陣で家康に攻められ、豊臣氏は滅亡します。ここでは、天下分け目となった、関ヶ原の戦い前後の時代を紹介します。
四戦場図屏風(しせんじょうずびょうぶ) 右隻(部分)
模写 原資料:江戸時代前期 元禄13年(1700) 有沢永貞画 公益財団法人前田育徳会蔵
関ヶ原の戦いなどの経過を描いた地図屏風。加賀前田家に伝来した。
テーマ4.清正と尾張の武将
加藤清正(1562-1611)は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、その親族に当たるといわれます。幼い時から秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで功績をあげ、「七本槍」に名を連ねました。その後は出世コースをひた走り、肥後熊本54万石の大名にまでなりました。多くの合戦での功績をあげただけでなく、築城名人としても有名です。また、熊本の城下町の整備や、農業の発展にも力を入れました。
尾張からはこのほか、前田利家、柴田勝家、福島正則、丹羽長秀、蜂須賀(はちすか)正勝など、多くの武将が出ています。加藤清正をはじめ、各武将の動向を紹介します。
長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)
模造 原資料:徳川美術館蔵 桃山時代から江戸時代前期
加藤清正が朝鮮出兵のときにぶった兜。ユニークな形で、清正のトレードマークとなった。
テーマ5.太閤記の世界
「足軽から天下人まで上りつめた」という秀吉のサクセスストーリーは、江戸時代の人々はあこがれと興味を抱かせました。寛永3年(1626)に秀吉の伝記本、小瀬甫庵(おぜほあん)著『太閤記(たいこうき)』が出版され、広く読まれました。この中ではかなりの脚色がなされ、秀吉は史実とはかけ離れたヒーローとして描かれます。その後も、秀吉をヒーロー化した読み物や芝居が多くつくられていきました。私たちがイメージする秀吉像は、史実にもとにしたものよりも、後世に読み物、芝居での創作された話によるものの方が、ずっと強いのが現実です。ここでは、伝記本や浮世絵などで伝説、ヒーロー化された秀吉像を紹介します。
豊臣秀吉譜
江戸時代前期 明暦4年(1658)
秀吉清正記念館蔵
江戸時代初期の朱子学者、林羅山が徳川幕府の命令によって編さんした、秀吉の伝記書。
A4版 三つ折りリーフレットとしてご活用ください。
常設展 解説リーフレット
常設展 解説リーフレットのダウンロード
ビデオコーナー
常設展示室のビデオコーナーでは、4本の番組から選んでご覧いただけます。
- 絵解き関ヶ原合戦(13分)
- 戦国の城(13分)
- 信長のルーツをさぐる(6分)
- 戦国那古野城(6分)
特別展示室
このページの作成担当
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