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覚王山・四谷めぐり(詳細)

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このページを印刷する最終更新日:2020年4月3日

ページID:16552

ページの概要:【千種区史跡散策路】覚王山・四谷めぐりの詳細です。

千体地蔵堂(せんたいじぞうどう)

日泰寺山門前の参道東側に建っている。堂内には錫杖と宝珠を持つ立像と半跏の延命地蔵がある。

日泰寺(にったいじ)

明治33年シャム(現タイ国)の国王から贈られた釈迦の遺骨を奉安するために、明治37年に建立された寺。わが国唯一の超宗派の寺院である。本堂、山門、五重の塔、鐘楼など見事な伽藍をほこっている。毎月21日の弘法縁日は善男善女で賑わう。

日泰寺奉安塔(にったいじほうあんとう)

高さ15メートルのガンダーラ様式の花崗岩仏塔で、仏舎利が安置されている。県指定の文化財である。

尋盛寺(じんせいじ)

文禄4(1595)年、尋盛上人が清洲に創建。中区の白川町を経て、現在地に移転。山門は清洲越し以来のものという。印章塚がある。

台観寺(たいかんじ)

もとは三重県にあったものを、大正7(1918)年この地に再建。本尊は行基作と伝えられる阿弥陀如来。境内には弘法大師作といわれる大黒天があり、春の大黒祭は賑わう。

大龍寺(だいりゅうじ)

江戸時代中ごろ東区新出来町に建立され、明治の末ごろ現在地に移転。通称「らかんさん」として親しまれている。建築様式は一見城郭のような唐様南蛮風のデザインになっている。

大林寺(だいりんじ)

寛永5(1628)年、尾張藩祖徳川義直の家臣滝川忠征が、名古屋城築城の余材をもって中区桑名町に創建し、戦時中に現在地に移る。滝川氏の菩提寺で、境内には滝川一族の墓碑が並ぶ。

相応寺(そうおうじ)

寛永20(1643)年、藩祖義直が生母於亀の方(相応院)のために東区山口町に創建。昭和7年、現在地に移転。総門と本堂の額は義直の自筆である。

善篤寺(ぜんとくじ)

もとは美濃にあり、清洲越しで中区大須に移った後、昭和13年に現在地に移る。山門は清洲越し以来のもの。境内に筆塚がある。

正法寺・曹洞宗高等尼学林(しょうぼうじ・そうとうしゅうこうとうにがくりん)

昭和22年、尼僧学林がここに再建され、後に愛知専門尼僧堂、特別尼僧堂も建立され、厳しい仏門修行が続けられている。

城山八幡宮・末森城址・旧昭和塾堂(しろやまはちまんぐう・すえもりじょうし・きゅうしょうわじゅくどう)

城山の森一帯には、織田信秀が築いた末森城があった。父信秀の後を継いだ信行が兄信長に滅ぼされ、この城もわずか10年ほどで廃城となった。この城址に昭和11年に建てられたのが城山八幡宮である。本殿裏手には市内最大級のアベマキの古木の連理木(1本の木が途中で2つに分かれた後再び1本にくっついている木。縁起がよいとされる)が見られる。境内の南西にひっそりと建つ古い建物は旧昭和塾堂といい、昭和3年に青年団の社会教育の場として建設されたものである。

性高院(しょうこういん)

名古屋大学の西、鏡池通に面した8階建ビルの寺で、徳川家康の第四子松平忠吉の菩提寺である。境内には忠吉、天野信景、松平君山らの墓がある。寺には忠吉画像、双体地蔵石碑、梵鐘など多くの市指定文化財が所蔵されている。

桃巌寺(とうがんじ)

織田信秀の菩提寺として信行が建立した。本尊は聖観世音菩薩。守護神は弁天像である。中でも「ねむり弁天」は有名である。境内には、信秀の墓と座高10メートルの青銅製の名古屋大仏や珍しい四方竹などがある。

揚輝荘(ようきそう)

株式会社松坂屋を創業した伊藤家の別邸として約一万坪の土地に大正7年頃から様々な建物が移築、新築され、各界の要人や文化人の社交の場となった。その後、世の移ろいを経て、敷地も3分の1ほどになったが、現在でも地階に壁画のある山荘風建物「聴松閣」や尾張徳川家ゆかりの座敷に洋室等を加えて建築した「伴華楼」、池泉回遊式の庭園などが残っている。平成19年に名古屋市に寄贈され、翌年に5棟の建物が市指定文化財に指定された。一部公開中。

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