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平和公園文化人墓碑めぐり(詳細)

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このページを印刷する最終更新日:2020年4月3日

ページの概要:【千種区史跡散策路】平和公園文化人墓碑めぐりの詳細です。

大原幽学(おおはらゆうがく・1797年生まれ、1858年没)

尾張藩の重臣大道寺家の出といわれ、農業振興と社会改善に生涯をささげた。彼が結成した先祖株組合は産業組合の先駆けとされる。(万松寺墓域)

牧墨僊(まきぼくせん・1775年生まれ、1824年没)

江戸時代後期の浮世絵師。初め喜多川歌麿に師事し、その後に文化年間(19世紀)葛飾北斎を自邸に招いてその画法を学んだ。北斎は墨僊の邸で「北斎漫画」の初編を描いたとされる。(万松寺墓域)

片岡源五右衛門(かたおかげんごえもん・1667年生まれ、1703年没)

赤穂四十七士の一人。尾張藩士熊井重次郎の二男として生まれ、浅野家の家臣片岡六右衛門の養子となった。そして藩主浅野内匠頭の小姓頭を務めた。(乾徳寺墓域)

平岩親吉(ひらいわちかよし・1542年生まれ、1611年没)

徳川家康に仕え、数々の戦功をあげた後、尾張藩祖義直の子守役となった。まだ幼い藩主に代わって藩の政務を執った。(平田院墓域)

松平仙千代(まつだいらせんちよ・1595年生まれ、1600年没)

徳川家康の第8子で義直の実兄に当たる。わずか5歳のとき大坂で夭折した。(高岳院墓域)

星野勘左衛門(ほしのかんざえもん・1642年生まれ、1696年没)

江戸時代初期の弓術家で尾張藩士。寛文2(1662)年4月、京都の三十三間堂の通し矢で日本一となり、さらに7年後にも再び日本一となった。(高岳院墓域)

鈴木朖(すずきあきら・1764年生まれ、1837年没)

近世名古屋が生んだ偉大な国学者。本居宣長の門下で、三部作「言語四種論」「雅語音声考」「活語断続譜」などの業績を残す。(誓願寺墓域)

平手政秀(ひらてまさひで・1491年生まれ、1552年没)

織田信秀の老臣で、信長の子守役。信秀の死後、行状の改まらなかった信長をいさめて自刃した。信長は彼の忠誠を惜しみ政秀寺を建てた。(政秀寺墓域)

伊藤圭介(いとうけいすけ・1803年生まれ、1901年没)

蘭法医・本草学の大家で、名古屋が生んだ偉大な植物学の先駆者。シーボルトと知り合い、長崎で動植物学を学んだ。明治になってからは東京大学教授となり植物学を講じた。わが国初の理学博士。(光勝院墓域)

寺村馬六(てらむらばろく・1709年生まれ、1788年没)

各務支考の門人。尾張美濃派の俳人として活躍した。号は楓左坊。秋雨塚と呼ばれる句碑には「蜘の囲に秋の小雨のかかりけり」の句が読まれている。(長栄寺墓域)

徳川宗春(とくがわむねはる・1696年生まれ、1764年没)

第7代尾張藩主。大須に芝居小屋や遊郭を造るなど、都市の繁栄を促した。(建中寺墓域)

陳元贇(ちんげんぴん・1587年生まれ、1671年没)

張振甫と共に明国から帰化した文化人。藩主義直に招かれ、藩の顧問となった。書画、製陶、拳法、鍼灸などにも通じていた。(建中寺墓域)

山本梅逸(やまもとばいいつ・1783年生まれ、1856年没)

近代南画の巨匠。彫刻師の子として生まれ、苦学して絵を学び藩の御用絵師となった。卓抜な技法を駆使した豊かな花鳥画の傑作を多く残している。(洞仙寺墓域)

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