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ミナトガタリ 第10弾なごや古道・街角案内人 第8章 地理を通して歴史を読む

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このページを印刷する最終更新日:2016年9月26日

第8章 地理を通して歴史を読む

司会

港区の古道のことを話してください。

池田

まずは、今までにも話の出た「百曲り街道」かな。

あれは、熱田新田を作った時に歩き始められたんだろうなー。

港区のほとんどは干拓ででき上がったんだけど、まず熱田新田ができた。そこは尾張藩がやって、次の新田からは豪農豪商がやって。でまた藩がやった後に、再び豪農豪商がやった。

それで、一番初めに、熱田新田をやった人が鬼頭景義。平安時代の源為朝の子の尾頭義次の末裔。義次は紀州の鬼、というか盗賊を退治した功績で「鬼頭」と名乗ることを許されたらしい。

司会:  

尾頭橋と関係あるんですか?

池田:      

尾頭というのは、義次が尾を頭に巻いて生まれてきたっていう話だったかな。金山の辺りで住んでいた。金山から北に700、800m程行ったところにある八幡宮には為朝の鎧塚があるんだよ。

要するに源為朝って人は平治の乱で敗れて伊豆に流された。でも子どもには罪がないわけで、為朝の子の義次は都を目指してやってきて尾張に来たところで住みついたと。為朝の子 だったからいつ反乱を起こすかわからない。だから紀州の盗賊征伐をやらされた。朝廷は負けて殺されるに違いないと期待した。

そしたら勝っちゃった。で鬼退治をしたから「鬼頭」の姓をたまわったーという話がある。

司会:  

じゃあ、この辺りの鬼頭さんは源氏の血を引いているかもしれないんですね。為朝の末裔ということで。

池田:  

その子孫、といっても22代後の江戸初期だけど、に、鬼頭景義という干拓のスペシャリストが出たんだ。彼はいろんな所に呼ばれて新田開発をするってことになった。

新田開発をするには2つ条件があって。一つは浅い土地っていうか、いらない土地があるという事。もう一つは水なんだよ。水がないと農地ができない。つまり灌漑の技術。その二つを持ってないといけない。こういう技術をもってコンサルタントみたいなことやっていた。

要するに新田開発をするにはどこから水を持ってくればいいとかね。たとえば熱田新田の水だって、隣に庄内川があるじゃないかとおもうけど。しかし庄内川の水は、多かったり少なかったりして安定しない。それで、五条川から萱津用水を引いた。

司会:

確かにいろいろな要因が関係してきそうですね。

池田:

港区には、鬼頭景義が仰せつかった熱田新田のほかにもたくさんの干拓新田がある。干拓をやるっていうのは神がかり的なところもあった。

要するに、なかなか締め切りができないのだね。締め切りをやるのは技術が必要だった。

熱田新田の次に大きかったのは熱田前新田かな。これは津金さんだね。

司会:

堤防を作る技術や締め切りをする技術を持っていないといけないわけですね。

池田:

そうだね。そうそう、百曲り街道なんかもその関係だ。一種の干拓をしたときの堤防なんだよ。ただし、百曲り街道の堤防は、もう一つ北側の中野外新田などなんだけどね。

で、百曲り街道と言うけど、実際はほとんどが真っ直ぐなんだよ。

司会:  

どうして真っ直ぐなんですか?

池田:  

これはね、その北側で、荒子川と中川で流れの整理をやった新田造りで堤防を作ったのが起こりだね。それで、当然、堤防っていうのは真っ直ぐなんです。

歪曲して作る必要は全くなくて、最短距離をいけばいい。それで真っ直ぐに。その堤防を使ってその南に熱田新田ができた。その堤防の道が百曲り街道なんだよ。

 

「百曲り街道」

百曲がり街道のルート概要

「明治24年地図」に一部加筆
◆画像の解説:百曲がり街道のルート概要。大須門前町から六番町を経て明徳橋まで。

 

司会:

なるほど。でも曲がっているところもありませんでしたっけ?

池田:

そう。西側の最後。29番観音から西側がぐにゃぐにゃと曲がり始める。堤防上を行くところは真っ直ぐなんだけど、そこから西は堤防じゃなかった。ぐにゃぐにゃと海岸線に合わせて道を作ったから、曲がっている。だから途中の29番まではほぼ真っ直ぐなんだよ。

司会:

それにしても、どうして百曲り街道という名称なんでしょうね。

池田:

名前は明治になって県道にするとき作ったんです。

当然のことながら当時は道路に名前がなかった。ただの「堤防の道」ですね。「それではだめだ」ってことで、名付けることに。で、「そうか、ぐにゃぐにゃしてるんなら百曲り街道だ」ってことで、県庁の中で考えて、適当に名前を作ったんだろうなー。

いまでは、どこに向かっているのか分からない道になった。しいて言えば、もともとこれは下之一色に行く道だから「一色街道」とか、名を付ければよかったんだよね。

司会:

へぇー。

池田:

これがちょっと百曲り街道の誤解されてる点だよね。

もともとはそれほど長い道ではなかった。熱田と下之一色を結ぶ道だった。下之一色の漁師さんが歩いて熱田の市などにいったという道です。

それが、県道にする時に百曲り街道という名前がついて明徳橋のところへ繋がった。

司会:

そうなんですか。それほど広い道でもないと思いますが。

池田:

当初は、国は道路を計画的に作ろうという思いがあったんです。

で、皇居から出るときはこう。県庁から出るときはこうというように順番をつけた。で、その時に当時の軍の第3鎮台になったときの拠点が名古屋城。

全国の軍隊の配置が6分割になった中の第3鎮台が名古屋にあったんだね。そこから三重県庁に行く道を考えた。その時に、百曲り街道経由を指定したんです。それで一等県道になった。堤防の道を選んだわけはよくわからないけど、一番近いからだったんじゃないかな。熱田街道沿いよりこっちの方が近いから。

司会

では百曲り街道も東海道の一部?

池田 

いや、百曲り街道は違う。ルートは、北は大須の門前町をスタートして、江川沿いに南に進み、六番町付近で熱田新田の堤防上になり、西へ向かったんだ。終点は明徳橋。

司会:  

そんな所を通っていたんですね。

司会:  

スタート地点の先は国道10号線だったみたいですね。素朴な疑問ですけど、国道の番号って変わるんですか?

池田:  

戦後は固定しているけれども、昔、大きな組み換えをやった。現在の国道1号線は、最初はナンバーのない国道の東海道だった。それから国道2号線になった。そのあと1号線で固定した。

司会:  

東海道って言うのは、江戸時代の街道と同じものですか?

池田:  

国道東海道っていうのは、日本橋ではなく皇居から出ている道だった。でも、七里の渡しの所など違っているところもあるけど、江戸時代の東海道とほぼ同じ。その次にナンバー制になった時に、東京から横浜までが国道1号線。2号線が神戸方向に行く道だったんだよ。ちなみに、重要な港に対しては必ず国道を通ずるというルールもあった。で港区にも白鳥から名古屋港まで6kmくらいの国道ができた。 さっき話した、国道154号。

司会:  

ずいぶん短いですね。

池田:  

それはちゃんと国道1号から港まで行く道路という事で指定されている。 

でも、最短ではないみたいだよ。

司会:  

面白いなあ。知らないことばっかりです。

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