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ミナトガタリ 第10弾なごや古道・街角案内人 第1章 古代の「港区」

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このページを印刷する最終更新日:2016年9月26日

ページID:83440

なごや古道・街角案内人 池田誠一さん

司会:

本日は名古屋の歴史に造詣の深い池田さんに、港区の歴史に関したお話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

池田: 

よろしくお願いします。

第1章 古代の「港区」

司会:  

まずは、古代の港区の歴史からお話しいただければと思います。

池田:

まだ「港区」エリアが陸地になっていなかった時代から海にも歴史があったんだって話かな。

司会:  

それはどのような歴史なんですか?

池田:  

それはね、幾つかあるんだけど。一つは「壬申の乱」の頃に歴史がある。

司会:  

壬申の乱ですか。天智天皇の後継をめぐって、嫡子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子とが争ったものですよね。

池田:  

うん。このとき、大海人皇子が吉野からずーっと伊勢を通って関ヶ原の向うにまで遠征したというのは知っているよね。その時に実は伊勢湾の桑名の辺りから熱田に遣わせた「尾張 宿禰大隅(すくねおおすみ)」という人間の所に寄っているらしいんです。その時に大海人皇子が当時は海だった名古屋港のあたりを渡っていたときに言った言葉が「間遠なり」だった。まあ諸説あるんだけど、それが語源で七里の渡しは「間遠の渡し」とも言われるようになった。

司会:

ほう。

池田:

あと。皇子はそこで熱田近くまで行って妻子を預けたという説があるんですよ。でね、それがどういう訳かはっきりしないのは、今の話が知れ渡ったのが壬申の乱から85年も後の事だったということなんです。大化の改新の時に大隅に非常にお世話になったらしくて恩賞を与えているんです。その「間遠の渡し」は尾張名所図会にも出てくる話で。結構有名です。

司会:  

おそらく普通の海だったと思っているのでビックリすると思いますよ。

池田:  

うん、それはそうでしょうね。まあ。陸地がなかったには違いない。地上はなかったんだけれども海に歴史があった。でもそれだけではないんですよ。

司会:

他にも干拓前の歴史があるのですか?

池田:

二つ目はね。名古屋港管理組合の人が使っている言葉なんだけど、沖合に「保田」っていう所があるんだ。かつては、名古屋港は「保田沖」とも言われていた。

司会:  

初めて聞きました。

池田:  

この保田沖っていうのは現在の名古屋港の中なんだけど、名古屋港管理組合の人はこの言葉を結構使っていたりするんです。

司会:  

普通は海の中にないですよね、地名は。

池田: 

普通はね。海中に地名なんてあるところはない。あってもね、海の中から出ている岩だとか○○沖というものはあるけど、ここは「保田」という名前までつけてある。で、古い名古屋港の付近の地図を見ると、ちゃんとあるでしょう。

 

「保田」

保田の地名が入った地図

◆画像の解説:名古屋港付近の古地図に見られる「保田」の地名。(文字は活字に置き換えられている)

 

司会:  

陸地があったんですかね?島みたいな…。

池田:  

ひょっとすると浅瀬かもしれない。あるいはここが逆に深くて何かを避難させる場所。要するに何かがあった時にそこに避難させる場所だったかもしれないんだけど。とにかく、この地点が保田だということ。

司会:

ミステリアスですね。

池田:

そうなんです。私は先日、「歴史のロマンを大事にしましょうね」っていうのを生涯学習センターでもお話しさせてもらったんですが、いろいろ面白いですよ。

司会:  

この海の中の地名の話は解明されてる話なんでしょうか?

池田:  

名古屋港管理組合の資料にもあるくらいだし、保田のほうは何か解明されているかもしれないですね。

司会:  

そうなんですか。

池田:  

さっきの、「間遠の渡し」は諸説が入り混じっていると思う。結局はよくわかんないんだね。うん、さっきちょっと言いかけたんだけどね、実は、大海人皇子が壬申の乱の時に伊勢をずーっと北上したんだけど何月何日の何時ごろにどこに行ったって事がきちんと書いてある。

司会:  

え!そうなんですか?

池田:  

うん。記録があるんですよ。ところがそれだと尾張に来るようなゆとりがあったのかが疑問なんだね。一日くらいかかって。でも彼は妻子を置くと、その日に戻ってるからね。もうひとつ、私はね、この話で気になるのが。「海人族」(あまぞく)についてなんだ。

司会:  

海人族とか尾張氏とか、海上交易を主とした支配者層がいたという話ですね。

池田:  

うん。私の考えだけど「大海人皇子」と名乗っていたのは海人族と関係があるのではないかと。でもこの話はややこしくなるからやめよう。

とにかく歴史の話ってゆうのは、真実の究明は極めて難しい。ホントはどうかわからないんだけど。ただ地元にとっては「間遠の渡し」という言葉がある。そして「保田」の方はちゃんと図面に出ていたりする。これは一つのロマンとしてご紹介したいね。

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