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令和4年度中区の成り立ち・歴史・文化をいまに伝える活動報告

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このページを印刷する最終更新日:2023年7月27日

ページID:162043

令和4年度堀川文化講座『名古屋の栄さまと「得月楼」父の遺稿から』よもやま話

日時:令和4年10月22日(土曜日)午後1時30分から午後3時(受付午後1時)

プログラム:

  1. 「おから猫の伝承」動画
  2. 講演『名古屋の栄さまと「得月楼」父の遺稿から』よもやま話

参加者人数:78人

当日の様子

堀川文化講座のチラシ

平成26(2014)年11月 堀川端のかしわ料理店「鳥久」が惜しくも全焼してしまいました。
納屋橋の近くにあったその建物は、かつて、多くの文化人のサロンとして賑わった料亭「得月楼」でした。
「建物は、単に古いというだけではなく、大正末期以来、名古屋を代表する文化の殿堂だったことを心に留め置き願いたい。」という、「得月楼」の六代目当主である寺田栄一氏を父にもつ寺田繁氏の講演会を行いました。

寺田繁氏の講演の主な内容
・明治から大正初期にかけ「得月楼」を訪れた人=後藤新平、坪内逍遙、市島春城、川上貞奴、福沢桃介。
・御園座で上演された「どん底」に巡査役で出演。杉村春子、滝沢修、千田是也らが築地の仲間でした。
昭和にはいると久保田万太郎に師事。芝居、俳句を学ぶ。文壇、画壇への人脈が広がった。
・「得月楼」から独立した名店。かしわ、うなぎの「宮鍵」と、あんこう鍋の「得仙」。特に後者は10年先まで予約が満杯の伝説。珍しいところでは、海部郡蟹江町に本社を構える、お漬物の「若菜」。ここの奈良漬けのブランドに「得月楼」の名が残っている。
・交流のあった人たちの例を挙げると、徳川夢声、喜多村緑郎、伊志井寛、花柳章太郎、小島政二郎、久米正雄、宮田重雄、川口松太郎、渋沢秀雄、秦豊吉の名がある。
・「美術行脚」と称して京都、奈良へ年2回、旅行に出ている。このときの顔ぶれが菊池寛、佐佐木茂索、川端康成、横光利一ほか。また、有島武郎、生馬の弟でもある里見弴に可愛がられ、志賀直哉、武者小路実篤の知遇も得る。
・昭和19年、戦火が激しくなるとともに「得月楼」の暖簾を降ろし、戦後は土地、建物ごと売却。「鳥久」になった。
・戦後は、新聞に劇評を書いたり、新派、文学座の役者たちへのインタビューに加え、NHK名古屋のラジオ番組「俗曲玉手箱」で解説を担当。ラジオドラマの脚本も。
・昭和47年4月7日死去。「冬椿死ぬこといやでなかりけり」
・料亭の御曹司だけに好きなことを仕事にして生きられた。
・戦前の「得月楼」は、旦那衆が自由に金を使って芸者遊びが出来る環境。良い時代だった。

第26回堀川文化歩こう会「納屋橋から日置橋 堀川両岸の歴史と文化を探る」

堀川の歴史と文化

堀川中流域の天王崎橋から日置橋あたりの名古屋台地には数々の遺跡や貝塚があり、古くから人が住んでいたことを示しています。

江戸時代初期の1610年から1611年に堀川が掘られ、左岸には尾張藩の奉行所や藩蔵が立ち並び、右岸には魚介類を扱う奥の市場に隣り合わせで魚介類を扱う問屋や料理屋、干鰯(ほしか)を扱う問屋などが並んでいました。
洲崎神社の祭礼では巻藁船が浮かび、藩主のお姫様の御舟行列で賑わい、文化年間(1804年から1818年)には洲崎神社あたりから日置橋まで桜と桃が植えられ、花の名所になりました。

明治時代以降は藩蔵や奉行所などが、倉庫街や西洋医学の教育と治療の中心になります。
紡績会社、時計会社などの工場もでき、水運を利用した製材所や材木商・薪炭商・竹材商などが林立、火力発電所も設けられました。

戦後は納屋橋付近に多くの劇場や映画館、レジャー施設、飲食店もできて賑わったが、娯楽の多様化の中で、賑わい復活に多くの取り組みがされています。

日時

令和4年11月5日(土曜日)午前10時から正午まで

コース

納谷橋(堀川右岸)→法蔵寺→日置橋(堀川左岸)→松原緑地→聖運寺→洲崎神社→納谷橋

参加者数

43名

当日の様子

堀川を見学している様子
松原緑地を見学している様子

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