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もりやま歴史浪漫紀行-守山区と徳川家康-

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このページを印刷する最終更新日:2023年7月14日

ページID:165037

もりやま歴史浪漫紀行ー守山区と徳川家康ー

1.守山区と小牧・長久手の戦い

 天正12年(1584年)「小牧・長久手の戦い」において、羽柴(後の豊臣)秀吉軍と徳川家康・織田信雄軍が、織田家の主権を巡って争いました。

 3月に始まった戦いは、犬山城に秀吉、小牧山城に家康が陣取り、膠着状態となりました。両軍の睨み合いが続くなか、4月に入り、家康の本拠を狙った秀吉軍の「三河中入作戦」が行われました。

 4月6日夜半、秀吉軍の池田恒興、森長可、堀秀政、三好秀次が庄内川を渡河し、守山区内を経て長久手へ進出しました。この動きを察知した家康軍は4月8日夜半に小幡城へ入城し、ここを拠点として長久手方面へ向かい、秀吉軍を撃破しました。

 敗報を受けた秀吉は、その日の夕方に「小幡城」から直線距離でわずか約2.5kmの「龍泉寺」に本陣を移しました。秀吉は小幡城の攻撃を命じましたが、稲葉一鉄らが、「古来より夕刻以降の攻城は禁じられている。明日にすべし」と諫言したため、翌朝の城攻めを決定しました。

 一方、小幡城でも龍泉寺の夜襲が建議されましたが、家康が許さず、午後8時過ぎに小牧城まで撤退し、直接対決を避けました。

 その後、大きな衝突もないまま、秀吉が信雄と和睦をしたため、家康の局地的勝利だけが残りました。天下を獲った秀吉に、戦で勝ち越したことが、家康の立場を非常に強くし、最終的な家康の天下をもたらしたとも言えます。

 (注)日付は旧暦です。

 (注)画像データには文字情報が含まれておりません。内容についてお問い合わせをされたい場合は、守山区地域力推進室(電話番号052-796-4527)までお問合せください。

小幡城跡に立っている史跡標示板の写真です

小幡城跡 史跡標示板

小幡城址から望む龍泉寺方面の眺望です

小幡城跡から龍泉寺方面を望む

もりやま歴史浪漫紀行-守山区と徳川家康(表面) (史跡紹介)

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もりやま歴史浪漫紀行-守山区と徳川家康(裏面) (徳川家康対羽柴秀吉 一触即発の地)

もりやま歴史浪漫紀行-小幡城趾

もりやま歴史浪漫紀行-龍泉寺

2.「守山崩れ」と松平清康

 天文4年(1535年)、三河に松平家の地盤を築き上げた名将・松平清康(家康の祖父)は、織田信光(信長の叔父)が守る守山城にて家臣により殺害され(享年25歳)、主を喪った松平勢は崩れて守山を落ちていきました。

 この事件は「守山崩れ」と呼ばれ、これをきっかけに松平氏による三河支配が崩壊し、松平家は苦難の道を歩むこととなります。

 守山城は、桶狭間の戦い以降、廃城となりましたが、寛永4年(1637年)、清康の菩提を弔うため、城跡に宝勝寺が建立されました。

令和5年3月に撮影した守山城跡の写真です。

守山城跡の様子(令和5年3月撮影)

守山城跡にある石碑の写真です

石碑(守山城跡)(令和5年3月撮影)

このページの作成担当

守山区役所区政部地域力推進課生涯学習担当

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ファックス番号

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