昭和2年(1927年)鳴海小学校北辺りで、野村三郎氏、鈴村秋一氏が発見した縄文晩期から弥生期に至る複合遺跡で、この地方では最初に屈葬人骨、獣骨、魚骨、貝類、石器、土器、須恵器、中世陶器などが出土し、当時の生活様式などがうかがえ、考古学研究上重要な発見があり、特に土器は雷式と形式名が与えられ、鳴海の貝塚遺跡の先駆となった。
鳴海球場は昭和2年10月に最初の試合が開始されてから中等野球(現高校野球)のメッカとして名選手を生み出し、甲子園球場や神宮球場と日本三大球場として少年のあこがれの球場だった。昭和33年秋期高校野球大会を最後に翌年名鉄自動車学校に。一部スタンドを整備工場に使用し球場の面影が今でも残っている。
扇川に架かる橋で、応永15年(1408年)に東海道を東上した象が、土橋であった橋を渡るのに危険であるなどの記録(大日本国郡誌編纂)があり、古くから架けられたとされる橋である。江戸時代には板橋の高覧付長さ17間(31メートル)幅3間(5.4メートル)の反橋になり、尾張藩の直轄で天白橋とともに大きな橋であった。今の橋は明治になって反橋から平橋にされ昭和52年3月に改築された永久橋である。
丹下・善照寺の3つの砦で鳴海城を包囲するために織田信長が扇川と手越川の合流点に築いた砦で梶川平左衛門以下260名の武士を配置した。規模は長さ80間(144メートル)、幅50間(90メートル)ともいわれ、信長は善照寺砦からこの砦を経て桶狭間に向かった。砦が廃された跡は梶川の五輪塔が残されていたが今はなく昭和2年「中島砦址」の碑が建てられた。近くに古道の車路橋がある。
宝暦10年(1760年)の創建。瑞泉寺二十世呑舟の開山。本尊は木像行者菩薩像で行者堂ともいう。昭和17年(1942年)本尊行者菩薩の金剛杖から曹洞宗紫雲山金剛寺に改められた。境内には西国三十三観音の祠があり、堂内の十六羅漢像は明治時代の鳴海焼の逸品である。
文化3年(1806年)宿場町の東の入り口に建てられた。夜灯明をつけ旅人の目印、宿や道中の安全を祈願したものであり、木戸と立場(茶屋)があった。石灯籠の四面には「永代常夜灯」「宿中為安全」「秋葉大権現」「文化三丙寅正月」との文字が刻まれている。
東海道から石段を登って神明鳥居をくぐると社があり、室町時代の創建で伊勢神宮の分祀社。大昔は年魚市潟(鳴海潟)が展望できた景勝の地で伊勢遙拝の好適地であった。本殿は昭和9年の造営で祭礼の夜祭は各町内の出物が有名であった。崖下の東海道に松並木の名残の一本がある。
左京山駅近くの手越川沿いの一角に小さな祠がある。元はもう少し北の田圃の中に東西に細長い島の形をして鬱蒼と樹木が茂っていた塚があった。何の塚か分からないが、昔から「二位殿」(左・右大臣奥方で平家の落人を祀った塚)と称してお山の石碑や木の葉を手にしては瘧(おこり)になるといわれ、大切に地元の人々に保護され、崇敬者が多い。
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