大高周辺のみどころ一覧3
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森の里団地の西側の小高い丘の森。祭神は素戔鳴尊で創建は不詳。江明地区の氏神で俗に「お天王さま」とも言われている。寛文村々覚書には「天王」、天和2年(1682年)、寺社方書付之帳には「天王社内二反五畝-」との記録をみればそれ以前からの古社であることがわかる。昭和40年に改築され本殿は間口1.5メートル奥行き60糎の立派なお社、隣に延宝4年(1676年)に勧請された天満社で90糎四方の社がある。江戸時代には天王社、天神社と呼ばれ明治になってから現在の津島社、天満社に。また境内にある手洗鉢には安永3年(1774年)の銘があり、参道入口には明治13年建立の「大高村南部農車道開墾之碑」がある。
森の里団地の中程元大日本紡績(現ユニチカ)工場跡地に山口洪崖(1882年から1947年)の「鴻邱春詞碑」がある。父大邱(1851年から1936年)は漢学に長け「用拙塾」を開き郷党の教育につくし、町長・県会議員として活躍。その長男として薫陶を受け漢詩文に長じ碑文の「鴻邱春詞」他多くの漢詩を著し、丁度大日本紡績を誘致したときの町長を務めていて、後の大高町発展に寄与した彼の功績を讃え顕彰したものである。また洪崖の子息紹一も名古屋市合併前の最後の町長を務め山口家は三代にわたり町政に貢献した。大日本紡績は昭和10年(1935年)に敷地30万平方メートルに建設され、一度に1,000人程の人口が増え、大高町に一大転機をもたらした。40年ばかり操業し昭和50年に閉鎖、その跡地に森の里団地や大高中学校が誕生した。
鴻邱春詞
粉蝶成団夢不間 粉蝶団を成し夢しずかならず
夕雲此処賽芳山 夕雲此処に芳山に賽す
看花好向西郊去 花を看好し西郊に向かって去れば
身在黄金色相間 身は黄金色相の間に在り
大正末期頃より菊井紡績が進出決定するも不況の最中でなかなか操業できず、その間に橋が完成し橋の名前になった。その後菊井紡績は操業に至らず、その場所に大日本紡績が工場を完成させた。
元は扇川と大高川の合流地点通称「三つ又」の西南の河川敷きに鎮座していたが、堤防工事により現在地丸の内北交差点の北130メートルの地に移転した。扇川堤防の脇に石垣で高くされた神殿がある。もとの地には元造船所があり勧請されたようで創建など詳しいことはわからない。
江戸時代から鳴海宿と大高の中間に前之庵という集落があり、古鳴海とともに鳴海の枝郷の一つで、その地に鎮座。末社が10社あり、北野天満宮、稲荷社、香良洲社、祓戸社は別殿に祀られている。境内には楠の大木があり、明治以降八幡社と称されていたが昭和44年にもとの八幡宮になった。
祭神は応神天皇、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、月読命(つきよみのみこと)であり、鳴海の宿場の氏神様である。元は成海神社の分社のようで詳しくは分からないが、宿場町の氏神として祭礼行事が執り行われていた。江戸中期、祭礼が成海神社の裏方と八幡宮の表方に分かれ、それまでの傘鉾行列(かさぼこ)、馬の塔(おまんと)などの祭りから、裏方の山車の引き回ような一層賑やかな祭りに変わり、後発の表方は豪華な彫り物の飾ったお囃子車を導入、ともに小太鼓、大太鼓、笛、鉦など熱田神楽など奏でて脈々と現在までも続いている。また表方の祭りには猩々が登場する。なお白壁の社務所は旧鳴海町 (明治36年建築)の役場庁舎を移築したものである。
大高駅北200メートルの地点にあり、永禄2年(1559年)織田信長が今川氏に対抗するために丸根砦とともに築いた砦であり、大高城と丸根砦との三角形の位置にある。標高35メートル、東西40メートル、南北六69メートルの広さである。桶狭間の戦いの時、飯尾定宗、その子信宗、織田信平ら、500余人が今川勢の朝比奈泰朝ら2,000余人の軍勢に攻め立てられて大半が討死している。南北朝時代(1331年から1392年)尾張の守護土岐頼康の一族に鷲津殿、島田殿、萱津殿と称した家があり、鷲津殿のいた所はこの鷲津山であった。土岐氏の老臣花井・富田の二氏が尾張に来て守護代を勤め花井氏が鷲津方、富田氏が富田方 (現東海市富木島町=富田村+木庭村+姫島村)を支配し、土岐氏との関係から離れて独立すると両者はこの地で抗争を続け、大高は花井氏が支配した。昭和13年に国の指定史跡となった。
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