鳴海周辺のみどころ一覧2
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東海道から庚申坂を上り、天神社から鳴海小学校に行く坂道を上りきった所南側の、大きな楠や銀杏の木が茂る中に白壁の社殿がある。祭神は雷神で須佐之男命社。
文禄年間(1592年から1595年)の創建で瑞泉寺十一世仁甫和尚の開山。庚申山猿堂寺と称していたが、宝暦7年(1757年)に有松村に移転し現在の祇園寺となった。一方、旧地には地蔵堂があって安永3年(1774年)に庚申堂と改称し、後に円道寺となり現在に至っている。本尊は青面金剛童子(庚申)。屋根に「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が据えられている。寺前の坂を庚申坂という名称はこの堂名に由来する。庚申信仰は室町時代以降に広く民間に流行し、干支の日の内で「庚申(かのえのさる)」の日(年に6回)に信仰行事を行う。
永享年中(1429年から1441年)三井右近大夫高行の創建で永禄3年(1560年)兵火で焼失再建した。本堂は中興の連純和尚が文政10年(1827年)から改築を始め25年かけ、間口八間半奥行八開半三間の向拝付き、前に縁を設け入母屋造本瓦葺の大型の本堂を完成した。幕末尾張藩主徳川慶勝が直筆の扁額鳴海寺を残し、本堂の欄間には名古屋の彫物師瀬川治助(鳴海の山車彫に係わる)による龍と天女の彫物が見事であり、明治6年(1873年)鳴海小学校の前身である広道学校として発祥した所である。
問屋場は慶長6年(1601年)江戸時代宿駅制度と同時に運送、文書の送達、宿の割当てなどの為に設けられた施設で、庄屋などと同じく名望家が交替で勤める習わしで、その下に年寄、帳付、人馬指、迎番等の役があり宿の割当、人馬の配置などに従事し、何時も人足と馬を用意して人や荷物を運んだ。鳴海には最初花井町の児玉家が勤め一ヶ所であったが、天保の頃(1830年から1844年)に東の問屋場ができて月番交替で勤めた。
永享4年(1432年)鳴海荘の森山左近三郎吉勝は蓮空上人に帰依して落飾し、浄空と名乗り室町幕府将軍足利義教の庇護のもと創建。文明10年(1478年)兵火に逢い灰燼に帰し砦から現在地へ移転した。文明15年に寺号浄泉寺を授与された。本堂は棟札によれば享和元年(1801年)の建立。間口七間奥行七間の寄棟造本瓦葺、内陣の天井は、周囲は格天井、中央部は清洲城下の廊下を移した菱形天井で珍しいものである。本尊は阿弥陀如来像。近年境内が整備され納骨堂、釈迦三尊石像などが建立された。
鳴海本陣は寛永10年(1633年)ごろ設置され、代々西尾家が勤め、幕末には下郷家が継いだ。宿村大概帳によれば敷地678坪に建坪が273坪であり東海道から扇川までかなり広壮な建物であった。最近まで建物の一部が残っていたが今は無い。なお脇本陣は本町に2軒(銭屋新三郎家、大和屋左七家)あった。
康平2年(1059年)に開山。創建時には青鬼山地蔵寺といい、上の山方面にあったが、弘安5年(1282年)長母寺の無住国師が現在地に移転再興。応永20年(1413年)現在の山号寺号となった。本尊は伝定朝作の一丈六尺地蔵菩薩で、昔正月に歩射の行事で蛤を放生したので蛤地蔵の名がある。また江戸時代時の鐘を鳴らし別名鳴海寺ともいわれている。本堂、地蔵堂のほか門前に弘法堂と中に咳地蔵と十王像がある。
本尊は大日如来像で、脇に不動尊が祀られている。元は赤塚にあったが兵火により焼失。その後森下を経て寛永年間(1614年から1644年)中興の祖盛弁法印が廃城になった鳴海城の廃材で現在地に再建し、今の山門が遺物とのことである。山門の横に観音堂があり絵天井で扁額も残されており、子宝観音として参詣者が多い。
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