ページの先頭です

ここから本文です

平成29年2月6日 市長定例記者会見

ソーシャルメディアへのリンクは別ウインドウで開きます

このページを印刷する最終更新日:2023年11月2日

ページID:90446

報告事項

  • 名古屋市博物館企画展「採録 名古屋の衣生活 伝えたい記憶 残したい心」


会見動画

報告内容

名古屋市博物館企画展「採録 名古屋の衣生活 伝えたい記憶 残したい心」の開催について

(市長)
はい、それでは2月6日(月曜日)ですが、会見を始めたいと思います。おはようございます、ということで。本日は、名古屋市博物館企画展「採録 名古屋の衣生活 伝えたい記憶 残したい心」の開催について、ご報告をいたします。

今、私たちは、全国どこでも同じ服を買うことができ、多種多様な衣服を豊富に手に入れられる生活をしております。しかし、そのような生活ができるようになったのは、戦後のことでございます。

それまでの衣生活は、その地域の暮らしに結びついたものでした。嫁入りに用意してもらった羽織、普段よく着た上っ張り、子どものために仕立て、成長に合わせて直した着物、生業(なりわい)に合わせて作られた仕事着などでございます。

「衣服にまつわる昔の暮らしを聞かせてください。」という問いかけに、昭和初期生まれの名古屋の人たちが語った衣服に関する話の数々、そういった「声」を記録し、皆さんに伝えていく、それが「採録名古屋の衣生活」です。

展覧会の会場では、衣服を「晴れ着と普段着」など、いろいろな切り口で見ていきながら、機織りなど、なくなっていく「手づくりの技」にも注目し、実物の資料や動画、機織りの実演なども紹介いたします。

ぜひ親子やご家族でご来館いただき、会場に展示している着物や道具を使ったことのある世代から、知らない世代へ、ご自身の思い出とともに語っていただく、世代間交流の場になればということでございます。

開催期間は、2月11日(土曜日)から3月26日(日曜日)まででございます。ぜひ、ご覧くださいますよう、お願いいたします。

ということで、職員からも説明させていただきますけど、ちょっとその前にわしもこれ言っとりますけど、これ(市長が着ているシャツとネクタイ)も有松絞り(有松・鳴海絞)でございまして、まあぜひ。有松絞りに関しましては、名古屋城築城の折ですね、400年前です。天下普請ということで、30万人とか20万人とか言われてますけど、全国から職人が集まりまして、その中に豊後地方ですか。大分県の、絞りの職人がおったらしいですわ。わしもその人と会ったことはにゃあですけど、まあこの人に尾張の殿様が、義直さんが直接言ったかどうかわかりませんが、「ええじゃにゃあか」ということで。

ちょうど鳴海と知立の間がちょっと距離がありますんで、そこでぜひそれを生業としてやってちょうということで、まあ竹田さんですね。竹田さんに声をかけて、で減税等して税制でも保護しまして、有松・鳴海絞ですけど、できたということがございまして。

まあこれは記録にありますんで。江戸時代に、東海道の唯一ナンバーワンと書いてあります。隋一と書いてありますけど、の土産であったという、これがそのものでございまして、まあぜひ。

かといって商売って大変だもんで、皆さん愚痴で言いますけど。絞り屋さんも大変なもんですから、まあちっとでも名古屋の名物として、特に男物のシャツというのは、普通は有松絞り言ったら女性の浴衣みたいなんが多かったですけど、男物のシャツが今、こういう風(市長が着ている風)にありますんで、ぜひ皆さんもお買い求めいただくと、名古屋名物としてええかなあということでやっとります。

 

(当局:今市長からもご紹介いただきましたが、今回の展覧会は私たちの暮らしに欠かせない衣食住のうち、「衣」をテーマにして、展覧会を行います。 こちらに並んでおりますようなパネルにありますような着物ですとか、昔の道具というのは、博物館が開館以来、市民の皆様からたくさん寄贈いただいたものばかりを展示しております。

こうした道具や着物をただ展示するだけではなくて、地域の人たちにインタビューをしまして、それについても紹介しています。それについては、チラシとかこちらのパネルでも紹介しているんですが、例えばここにある、これは「蚕かご」といいまして、養蚕、蚕を飼っていたときに使うかごなんですけれども、こういったかごを紹介するとともに、実際に養蚕をしていた人のお話も載せています。蚕が桑を食べているとき、ざあざあざあざあと雨が降っているみたいだ、というふうにおっしゃっていたので、そういった実際に使っていた人の記憶っていうのも、一緒に紹介することによって、よりこの昔の暮らしを、リアルに感じていただければなあと思っております。

 こうした並んでいるものっていうのは、ある世代の人にとってはすごくありふれたものばかりになっていますけれども、こうした人々、実際に地域にいた人々の話とともに、ご紹介すれば、私たちの住む名古屋という地域の暮らしが、どのように変わってきたかがわかると思います。 ぜひこの暮らしを知っている方々は、展覧会に来て、思う存分いろいろ、「自分のときはこうだったなあ」というお話をしていただいて、お子さんやお孫さんと一緒に来て、それを伝えていただければと思っております。)

 

大体ほんだで、明治以降ぐらいかね。

 

(当局:はい。そうです。明治以降です。)

 

明治以降だな、これ。

 

(当局:はい。)

 

これ、来た人の思い出話があるいうことになると、割合と戦後。戦後なんかまだこれは、このこういうのを聞いた覚えありますよ、わしは。

 

(当局:ああ、そうですか。じゃあまあ市長にも…)

 

ももっとこんもりと、と。

 

(当局:市長にもまた聞き取りに行かなければいけないかもしれないですけれども。)

 

まああの頃はまあ、これズボンで、シャツでもまあ白いシャツしかあらへんしねえ。そういう時代だったわな、これ。

 

(当局:そうですね、そういう時代だったと思います。)

 

で寒いときは何かこういう、こういうようなやつは、こたつか火鉢もありましたね、昭和23年ぐらいのとき。そこでみんなでこういうごぼっと、上から羽織って、まあ親や何かと一緒で家族で、手あぶりながら話した覚えありますわな、これ。

 

(当局:はい。まさしくそういった、実際に使っていた人たちが、そういった思い出を話してくれていることを、博物館ではカードに、こういった資料の名前とともに記録していくっていうのが、こういう明治から昭和の道具に対する資料に関しては、行っています。)

 

そうすると何か、博物館寄附してったということか、それは。

 

(当局:はい、そうですね。そこに展示してあるものは、ここに載せているものはもうすべて、寄贈していただいたものです。)

 

寄贈してたという。なるほどね。はい。江戸時代なら、それもあるけどな徳川家康が着とったやついうの。徳川美術館に、ふんどしまであると。家康が着とった、身につけとったものは、とにかく神様のもんだもんで。どえりゃあ大事にしようと。ふんどしまであるということですけどね。

 

(当局:そうですね。今回はそういった有名な方ではなくって、地元に住む方々ばかりになるんですけども。)

 

庶民が着とったと。

 

(当局:はい。そういったものにも、そういう昔の暮らしを学ぶためには、必要な資料であるっていうのを、市民の皆様も知っていただければなあと思います。)

 

昔は寒かった感じするけどな、何となく。

 

(当局:それはそうだと思います。)

 

そんな寒かったのが、着るものは今みたいな、ジャケットの大きい、あれはありませんからね。ダウンジャケットみたいな。

 

(当局:ですからこちら(ポスターの写真の1つ)は、漁師の着物になるんですけれども、木綿を何枚も何枚も、5、6枚重ねて、で刺し子っていって、細かく針で縫って、寒さに耐えたそうです。そういうちょっとした工夫をして、今ダウンジャケットとか、そういうのない時代ですから、こういうのをやっていたそうです。)

 

「どてら」って言わんかったっけ。

 

(当局:「どてら」っていうのも、あります。)

 

そうだろう。確かどてらって言った記憶がある。

 

(当局:そうですね。これは綿入りのはんてんになるんですけれども、それも、はい、展示しますので、よかったらまた見に来てください。)

 

しょっちゅう洗濯できいせんで、どてらの袖が、鼻水みたいなもんでよ、テレテレになったりね。

 

(当局:そういう話も確かに聞いたことあります。)

 

まあそういう時代ですからね。昭和23年生まれなら。はい。じゃあとりあえずええですか。はい、じゃあこれで。

 

質疑応答

市長選について

(記者)
市長選についてなんですが、いまだに市長のほうから、態度の表明がされていない中ですが、自民党市議団のほうですね、自民党市議団が、市政の刷新を掲げて立候補を表明している岩城前副市長のほうを支援する方針を示してるんですけれども、それに対する所見をお伺いしてもよろしいですか。

(市長)
まあ、それは何とも。政党は政党の活動をされますので、ええ。それ以上僕としては言うことは、別にありませんけど。僕自身については、何べんも申し上げておりますように、議会が今度始まりまして、予算を提出いたしますので、それに向けてはですね、責任あるタイミングで、お話をしないかんと。したいと思っておりますので、それまではしばらくというか、必ずそれはしますので、お時間をいただきたいというふうに思います。

(記者)
議会の前に。

(市長)
前なのか、そのときなのか、まあそれに合わせてですね。いう感じでおりますけどね。

観光資源としての名古屋城について

(記者)
名古屋城の件なんですけど、天守閣は置いといてですね、各局の中で予算要求なども、私たちも拝見をしまして、その魅力向上の事業の中に名古屋城って出てくるんですね、文言として。で、市長の中で、名古屋城を観光資源だったり、名古屋のシンボルだったりいろんな言い方されると思うんですけど、そういった面で、名古屋城全体の観光資源としての位置づけっていうのは、どんなふうに市長はお考えですか。

(市長)
そりゃあもう、名古屋にとって相当決定的なですね、名古屋の都市魅力とすると、決定的だと思いますね、これが。名古屋で言うと、大体名古屋城と、皆さんのいろんな書くのも名古屋城の天守閣の絵が必ず、いろんなものの後ろに書くじゃないですか。これ。もうちょっと広げて言やあ、名古屋城、熱田神宮と、まあこの辺が二つの本物性の、際立った二つですけど。

その中でも、やっぱりたまたま大変にラッキーだって、先達に感謝せにゃいかんけど、空襲の前に図面を残しておいてくれたというね。これはほんとに、緑区だったと思いますよ。緑区の名古屋城の市民説明会の中に、わしが頼んだんじゃにゃあよ、言っときますけど。やらせじゃありませんので。ある方が手挙げられて、神様からの贈り物だと。これは図面があって、本物はつくれるということは、言ってましたね。

だからこれはほとんど、までは言いませんけど、ほかの地域でいくと知らんですね。図面があるということを、実は。でこれもまた、熊本の市長さんが、こないだ熊本行きましたときに言ってまして、熊本城もどうするかっていう議論があって、もう3年ぐらいで入れるようにするって言ってましたけど、その中で木造にすべきじゃないかという議論もありました、と。しかし、名古屋城と違って、うちはそういう図面はないんだと。見取り図みたいなのはありますよ。だけど名古屋城のような詳細な実測図がないと。寸分たがわぬ復興ができると。ということがありますんで、これはまあ世界で一つですわ。

ポーランドのワルシャワの旧市街もありません。そういう詳細な実測図。ドイツのドレスデンの聖母教会でも、今のとこありません。出てくるとちょっとわかりませんけど。だからそういう世界のかけがえのないただ一つの、本物の復元を、まあ起爆剤にして、それからあとずっと、多門櫓ってありますけど、ずっとまあ、江戸時代のもの、これ多くは濃尾地震で明治24年に壊れてますけど、それも全部戻してですね。二の丸御殿も、いわゆる実測図はないで残念なんだけど、平面図はありますから。それから写真がありますからね。二の丸御殿は。そういうのも含めて、いわゆる中世武家文化の、近世武家文化ですか。近世武家文化の頂点に達した国宝1号ですから、何と言ったって、これ。ものを復元して、同時にまちづくりにつなげていくと。この名古屋城を。

だからまあ、誰が考えても当然に考えられるのは、名古屋駅へリニア、新幹線なり、新幹線でみえる方が、今度は名古屋城へ行っていただくように、そこのアクセス、まちづくりね。ずっと連続的な、これ。だからあの辺の四間道やらああいう円頓寺の辺やらを中心としたまちづくり。それから堀川、納屋橋、柳橋、でそれからもう一つ行きゃあ熱田神宮と。

東のほうも、これ何かに書いてあったんですけど、豊田佐吉さんが明治20何年だったかな。24年が濃尾ですから、ああ、ちょっと忘れましたけど、浜名湖のとこでやってみえたのは、それと知多半島でもちょっとやってみるとか、実際に名古屋に住むのは、ちょうど清水口の今の西南の角のダイキンのあったとこですね。ダイキンのあるところです、今。あそこに豊田佐吉さんが住まれたらしいです。そのときにやっぱり、お城の見えるとこに住みたかったというのが、その豊田佐吉さんの気持ちだったという、何かで読みましたよ、私これ。もう一回ちゃんとあれせないかんですけど。それほどまでにやっぱ、この名古屋のお城っちゅうのは。

もう大阪城と江戸城は、1600年代で火事で燃えてますよ、両方とも。大阪城は地震だと言われてますけど、地震に伴う火事。江戸城は振りそで火事で燃えてますんで、もう江戸時代を通じて、なかったけどこんだけ巨大な金のシャチがある、本物。それを名古屋のですね、いわゆる“City of Dreams”ですわ。何べんも言っとるでしょう。いっぺんトランプさんに聞いてもらいたいわ、これ。確かにこの地域は、ものすごい貿易黒字でしたけど、やっぱりその、一旦名古屋のシンボルを、国宝1号を失ったと、333年もっとったのに。そっからどえらい努力によってですね、先人の。図面も残しといてくれたということによって、復元したんだと。

“City of Restart”というか。そういうまちのシンボルとして、まちづくりの中核として、一つの名古屋城の天守があるというんで、それがずっと広がっていくということです。大事なことは。できりゃあ熱田神宮までつなげたいね。そういうまちづくりを、ずーと堀川や何か経由して。西区北区のずーっとしたまちづくりから。いうことですわ。

という気持ちで、まあ次の世代、1000年は残しますか。法隆寺1400年ですから。1000年。少なくとも334年間は残さないかんわね。前回の333年後に、何と空襲という人災で燃えちゃったんだもん。今度は、戦争のなかった名古屋のまちをつくったと。日本の国をつくったいうシンボルに、最もわかりやすくてなると思いますよ。世界からどえらい人が来ると思いますよ、私。こんなことできるんですか、言って。夢物語だ。図面があったいうことは大きいですね。という。

(記者)
加えてちょっと、まあこれからの話もよろしいんですが、現状例えば、隅櫓3つほど重要文化財になってるものが、現状ありますよね。でも現状の城郭だったり、現状のこの特別史跡になっています現状ですね、こういうものについての活用というか、観光資源としての見方っていうのは、いかがですか。

(市長)
残ったものがありますからね、本物で。隅櫓3つですね。それから東北隅櫓は、まあ燃えちゃったんですけど、あれはもう、夢童由里子さんが、「とにかく河村さん、ああいうような、もう一回復元してね」言って、生前何べんも私が言われておりますんで、当然、東北隅櫓も復元するということの中で。まあそれと、文化的にもやっぱり、侍のまち名古屋ということでしょう。やっぱり。京都はやっぱり貴族のまちでしょう。何だかんだ言って。そりゃ京都御所もありますし。侍ということになると忍者もおりますし、この辺の近くにね、三重県、滋賀県ですか。ありますけど。 

でまあ、やることはいろいろ楽しいことがたくさんあると思いますよ。信長、秀吉さんはあんまり関係ないけど、家康さんは信長さんが中学生、家康さんが小学生の頃ね、多分あそこに一緒に住んでおられましたと。そのとき名古屋城は、旧名古屋城ですけど。今のじゃないけど。旧名古屋、人質として家康さんがおられたので、まあぜひ、今の東海農政局の裏に立派なイチョウが、いっぺんちゃんと、あれも測らないかんけど、年代を。あれは多分400年以上経っとるんじゃねえかということになると、信長、あの辺におったと思われますので、家康さんも。だから中学生の信長と、小学生の家康さんがあの回りで遊んだんじゃにゃあかと。遊んだがやと、いうかなり決定的な本物の記憶にあると思いますよ。ああやって残ってますんで。

いやあ、ほんとにね、世界に強烈にアピールできますよ。やっぱり一旦空襲で焼けたというのがねえ、これがやっぱり泣かせるんですよ。これが。本物性をより際立たせるということですわ。と思いますよ。外国人って好きでしょう。古い建物や何か。ものすごい大事にするじゃないですか。ポーランドでもドイツでも。レンガ1個1個番号つけてこう、復元してくんだから、これ。そうでしょう。そういう日本の姿をアピールするには、ちょうどトランプさんにはええと思いますよ。そういうこと大好きなはずですよ、ああいう人は。

市長選について

(記者)
先ほどの市長選の表明のタイミングの話で、2月議会前後を目途にするっていう話で、もう一個、予算案を発表するタイミングも、まあいいかもしれないという話を前にされてたと思うんですが、どっちかって言うと、注目度を考えると議会、どうでしょう。

(市長)
あんまりまあ、その注目度っていうのあんまり考えておりませんけど。まあ、まあちょっと考えておりますよ、それは。ええ。まあこの記者会見なんかもそうなんですけど、やっぱりまあ、議会っていうのがありますんで、そりゃあね。一つのそれに向けて、予算案の発表も議会のようなもんですけども。まあ開会はされてませんけど。そのように考えております。すいませんけど、ちゃんとそのお約束は必ず守りますんで、ええ。お願いします。すいませんけど。

このページの作成担当

市長室広報課報道係
電話番号: 052-972-3136
ファックス番号: 052-972-3355
電子メールアドレス: a3136@shicho.city.nagoya.lg.jp

ページの先頭へ