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千種区の町名の由来

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このページを印刷する最終更新日:2016年4月1日

ページID:778

ページの概要:千種区の町名の由来

千種区史より

赤坂町(あかさかちょう)

一般的に赤土の坂の意味です。長久手の合戦の時、夜明けに軍勢が通った坂だからとの説もあります。

池下町(いけしたちょう)

大正時代までは蝮ヶ池の池底だったため、付いた地名です。

猪高町(いたかちょう)

明治39年に猪子石村と高社村とが合併して、猪高村となりました。

井上町(いのうえちょう)

昭和41年に、地主の姓をとって名付けられました。

猪子石・猪子石原(いのこいし・いのこいしはら)

香流川の北と南に、いのこ(いのしし)によく似た石があり、牡石・牝石と呼ばれていたことから付きました。

今池一丁目~五丁目(いまいけ)

江戸時代に、池の側に馬池新田がありました。「うまいけ」がなまって今池となったといいます。

内山一丁目~三丁目(うちやま)

山谷の小平地だったことから付いたものです。内(うち)は縁(ふち)のなまりでしょうか、入りこんだ地形にこの名は多いです。

大久手町(おおくてちょう)

「クテ」は湿地、沼地の意味があります。湿地を開拓して田畑にした地という説と、低い山の手の窪地とか、くねくね曲がりくねった道という説があります。

大島町(おおしまちょう)

昔は「おおじま」と呼んでいました。棒の手の名手、大島三右衛門の屋敷があったので名付けたといいます。

丘上町(おかうえちょう)

丘の上にあるからという地名です。

御棚町(おたなちょう)

古くは「御棚妻」といいました。末森城主の奥方を「御棚の方」と呼んだからという説と、陶器を乾かす棚を「御棚」といったからという説があります。

鏡池通(かがみいけとおり)

鏡ヶ池の側を通る道なので名付けられました。

覚王山通(かくおうざんとおり)

明治37年、覚王山日暹寺(日泰寺)の山号にちなんで命名されました。

香流橋一丁目・二丁目(かなればし)

香流川からとった新しい町名です。

鹿子町・鹿子殿(かのこちょう・かのこでん)

田代町(たしろちょう)の字名「鹿子殿(カノコデン)」にちなんだ地名です。以前は「カゴトノ」と呼ばれており、猫ヶ洞下池付近にあった「かご池」からとった説と、雑木がまばらな状態を地名にしたという説があります。

瓶杁(かめいり)

古墳時代以降の陶器産地の名残りの地名であると思われます。瓶の生産地で、杁の近くにある陶器の洗い場という意味でしょう。

萱場一丁目・二丁目(かやば)

昔、お婆さんがカヤを洗っていたときに足を滑らせて、そのまま池にはまって死んでしまった池を萱婆池と呼ぶようになったそうですが、その萱婆池にちなんで名付けられたという説と、屋根の材料にする萱の刈場との説があります。

唐山町(からやまちょう)

帰化人である唐人が住みつき、付近で陶器を生産したことから生まれたといいます。唐(から)は中国や韓国の代名詞ですが、ここでは韓国の陶人の住居地と推量され、陶部(すえべ)の住居した山であったと思われます。

川崎町(かわさきちょう)

「崎」は狭間、先端の意味で、小川の狭い先端の地から付けられた地名だと推測されます。

観月町(かんげつちょう)

月見の名所であったことから付けられました。

神田町(かんだちょう)

高牟神社の費用を弁する神田(しんでん)があったので、それから神田(かんだ)町となったものです。

菊坂町(きくざかちょう)

町名を募集して付けた新しい町名です。

桐林町(きりばやしちょう)

昔は「きじばやし」といったが、なまって「きりばやし」となったそうです。「きり」は開墾、新開を意味し、桐が当て字となっている地名が多いですが、ここは定かではありません。

古井ノ坂(こいのさか)

高牟神社を中心に、各所に清泉が湧き出ていたから古井、という説があります。

古出来三丁目(こでき)

藩主の屋敷跡に武家屋敷や町屋に変わる際にできた町を出来町といいますが、この地の西隣に新出来町ができたので、区別するために「古」をつけたそうです。

桜が丘(さくらがおか)

この辺りの土地所有者の名にちなんで、昭和3年に桜の木を多く植えたことから付けられました。

山門町(さんもんちょう)

日泰寺の山門の南、参道の両側の地名で、日泰寺の山門にちなんだ地名です。

四観音道東・四観音道西(しかんのんみちひがし・にし)

尾張四観音(笠寺・竜泉寺・荒子・甚目寺)を結ぶ巡礼のための道でした。千種区には、笠寺と竜泉寺を結ぶ道がありました。江戸時代に作られた名だと推測されます。

下方町(しもかたちょう)

織田信秀の一武将、上野城主下方左近貞清の姓にちなんで付けられました。当時は、「城前」「土居下」の地名でした。

松軒一丁目・二丁目(しょうけん)

尾張藩の家老、成瀬正軒(松軒)の隠居宅があったことから付きました。

汁谷町(しるたにちょう)

汁は「尻」「後」の意味を持ちます。後方の谷、という意味があったと推測します。

城木町(しろきちょう)

名古屋城築城の際、この付近から用材を伐り出したことからの地名です。

城山町(しろやまちょう)・城山新町(しろやましんまち)

織田信秀の築いた末森城から名付けられたものです。江戸時代には、城西・城屋館の地名がありました。小高い丘陵地の城なので城山といい、北海道以外では各地に多い地名です。

新池町(しんいけちょう)

元禄15年(1703年)、藩の直轄工事として造られた池の名を取って付けられました。

振甫町(しんぽちょう)

江戸時代の明国の帰化人、張振甫にちなんだ地名で、当時は振甫新田といわれました。

末盛通(すえもりとおり)

江戸時代には末森村と呼ばれていました。陶(すえ)・末は、古代の部民である陶器製造に従事した人々の地名に多く、「陶器を生産する森」であったと解釈してよさそうです。ちなみに、東山一帯は、陶業の発祥地です。

清明山一丁目・二丁目(せいめいやま)

平安時代の有名な陰陽家、安倍晴明が、かつて住居したことから付いた名です。

高見一丁目・二丁目(たかみ)

「高」は「鷹」とも書きます。鷹を見る所という説と、平山としての高さがある所という説があります。

竹越一丁目・二丁目(たけこし)

戦略の必要から、竹薮をつくって敵の遠望をさえぎったことから付けられました。また、竹は岳の当て字という説もあります。岳の腰、つまり山の腰にあたる所という意味です。

田代町(たしろちょう)

全国的に多い地名で、三河の山間部に多く見られます。田をつくるために開墾した土地であることを表しています。

谷口町(たにぐちちょう)

谷の入口の意味だと推測します。

茶屋が坂一丁目・二丁目(ちゃやがさか)

山口街道の坂に一軒の茶屋があり、往来する人々が休んだことから名付けられました。

月見坂町(つきみざかちょう)・月が丘(つきがおか)

月見坂は、江戸時代の月の名所として、藩士や風流人、文士の遊覧の地でした。月の名所にちなんで付けられた地名です。

徳川山町(とくがわやまちょう)

藩の狩猟場だったところで、徳川山荘にちなんで付けられた地名です。

仲田一丁目・二丁目(なかた)

仲は中、上下の中間を示す方位語です。中間にある田の意味だと思われます。

鍋屋上野町(なべやうえのちょう)

かつては上野といいました。尾張部には上野という地名が3ヶ所もあって不便なので、考えた末、鍋鋳物職水野太郎左衛門の祖先が、織田信秀の庇護のもとに、ここに住みついたので鍋屋上野としたといいます。

南明町(なんめいちょう)

学区の南側にある明るい土地という説と、丸山神社の南にあるからという説とがあります。

西崎町(にしさきちょう)

小川の狭い西の端にある地、という意味だと推測されます。

猫洞通(ねこがほらとおり)

猫ヶ洞池に由来します。この付近の山を「兼子(かねこ)山」と呼んでいましたが、それがなまって「ネコガボラ」となったという説と、中国の猫堂にちなんで命名したという説があります。

東山(ひがしやま)・東山元町(~もとまち)・東山通(~とおり)

江戸時代に、名古屋城の東にある遊覧地として人々に親しまれ、広い地域を東山と呼んだものと思われます。

日岡町(ひのおかちょう)

学区で一番早く日が当たる岡なので付けられました。

姫池通(ひめいけとおり)

姫ヶ池の側を通る道の意味です。昔、末森城が今川勢に攻撃されて、奥方や姫たちは西の方へ逃げ、逃げ場を失った彼女たちは池へ身を投げて自殺したとのことです。その池が姫ヶ池であると伝えられています。

日和町(ひよりちょう)

日和山の転で、天候を見るための眺望のきく山のことです。全国各地に多い地名ですが、気象台が設けられたことから付けられた、新しい地名です。

吹上一丁目・二丁目(ふきあげ)

古矢田川層の上にできた村落で、昔はこの辺りまで入海だったため、真砂が風で吹き上げた所といわれています。風を受けやすい地形に多い地名です。

富士見台(ふじみだい)

天気のよい日には富士山が見えるだろう、という夢をこめて付けられたものだそうです。

不老町(ふろうちょう)

浅瀬の水、もしくは池水の温むところに多い地名です。縁起をかついだ近代的な地名でしょう。

法王町(ほうおうちょう)

仏を敬う呼び方にちなんだ地名です。

星ケ丘(ほしがおか)

名古屋市の住宅団地の中で一番高いところにあることから、星にもっとも近く、輝く星の美しい丘という意味をこめて、昭和30年に住宅公団が命名しました。

堀割町(ほりわりちょう)

末森村特産の赤土(かべ土、テニスコート用の土)を名古屋城下町へ搬出したため、堀になってしまったという説、また、名古屋新田へのかんがい用の水路を開さくしたから起こったという説があります。

蝮ケ池(まむしがいけ)

まむしが多い池、末森城の真西(まにし)、ここから真西に名古屋城があったから、といろいろな説があります。「真西が池」「真武士が池」の転化でしょうか。

丸山町(まるやまちょう)

かつての丸山村の名残りの地名です。当時、丸型の地形をしていたと推測されます。古井村の出郷ともいうべき新開拓村で、神明社があります。

見附町(みつけちょう)

藩政時代に中秋の名月に宴が張られた月見坂の正面に位置していたことによるといわれます。

山添町(やまぞえちょう)

昔は山下といって、田が多かったそうです。山に添った下の田、からその地名が生まれたといいます。

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