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区長の部屋(平成25・26年度)

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このページを印刷する最終更新日:2014年1月6日

ページID:42161

ページの概要:熱田区長からのメッセージを掲載しています。

平成27年3月

 お世話になりました・・・

 

 

 いきなり私事で恐縮ですが、この3月末をもって定年退職いたしますので、私が執筆する「区長の部屋」は、今回が最終回となります。これまで拙文をお読みいただいた読者の皆様には、深く感謝申し上げます。

 

 熱田区長としての2年間を振り返りますと、私にとって初めての区役所勤務ということもあって、これまでの市役所生活ではできなかったことを沢山経験させていただきました。

 区役所の業務は、市民サービスの最前線として、区民の皆様の信頼を得ながらそれぞれの職務を遂行することです。このことは、職員一同の努力のお陰で、概ね満足のいく水準が保たれていると思っています。それは、来庁者アンケートの結果にも表れています。

 また、区民の皆様が最も望まれる「安心して暮らせるまちづくり」への取り組みについては、警察署、消防署、地域団体の皆様と協力しながら取り組んできた結果、犯罪も火災も交通事故もずいぶん減ってきましたし、防災対策も着実に進歩してきたと思っております。

 

 そういう、基本的な施策・業務に加えて、これまで以上に力を入れたことがいくつかあります。

 そのひとつが、「区役所の情報発信の強化」です。

 今、まちづくりへの市民参加が求められていますが、その前提となるのが、行政の情報発信であると考えます。そのため、就任直後から職員にはしつこく情報発信の重要性・必要性を語ってまいりました。具体的には、従来からの「広報なごや・区版」だけでなく、区のホームページの内容の充実や、熱田区独自のツイッターの開設など、よりタイムリーにかつ内容のある情報を適切に市民・区民の皆様に届けることができるよう努めてまいりました。

 その結果、熱田区ホームページの月平均のアクセス数は、2年前に比べて約2倍に増加しました。ツイッターのフォロワー数は、まだ500人にも達しておりませんが、地道に情報を発信することで今後着実に増加していくものと考えています。

 この「区長の部屋」のコーナーも、区役所の情報発信の強化の一環として、月に一回の更新を目標として掲載してまいりました。実際には、「仕事が忙しい」などという勝手な理由で2回お休みをしてしまいましたが、何とか最後まで続けることができました。

 内容としては、区内の行事に関連付けながら、熱田の歴史文化などに触れるようなものが多かったのですが、熱田にはその題材に困ることがないくらい数多くの地域資源があります。資料を集めて勉強しているうちに内容が膨らみ、字数の制限がないのをいいことに、どんどん分量が多くなってしまい、読者の皆様にはご迷惑をおかけしたのではないかと反省しております。

 

 その他に力を入れたのが、「熱田の歴史文化を始めとする魅力を活かしたまちづくり」と「大学と連携したまちづくり」です。

 従来から行ってきた、「区民まつりにおける街道宿場市」、「熱田ぐるりん!ウォーキング」、「あったか!あつた魅力発見市」に加え、「熱田ブランド戦略」構築に向けた取り組みを新たにスタートさせました。このことは、前回の「区長の部屋」に詳しく書きましたが、先月26日に開催した「熱田ブランド戦略キックオフシンポジウム」には、雨天にもかかわらず多くの人に会場へお越しいただき、熱心に講演、報告、パネルディスカッションを聴いていただきました。これで予想以上に順調なスタートが切れたのではないかと思っています。

熱田ブランド戦略キックオフシンポジウムの様子の画像

熱田ブランド戦略キックオフシンポジウムの様子

 さらに、熱田の魅力を映像で発信しようと、名古屋熱田ライオンズクラブのご好意により、熱田のドキュメンタリー映画「熱田物語(仮題)」の制作に着手しました。監督は、昨年6月に熱田文化小劇場で行った「名古屋城下町物語」「堀川物語」の上映会の際、対談をさせていただいた、森零(ぜろ)さんに引き受けていただきました。これから撮影が始まり、秋には上映できる予定ですので、楽しみにして下さい。また、学校の教材として活用していただければ、子どもたちが地域の歴史文化のことに関心を持つきっかけになるのではないかと期待しております。

 

 そして、これらの施策、イベントなどの推進に欠かせないのが名古屋学院大学との連携協力関係です。

一昨年夏の、文部科学省による「地(知)の拠点整備事業」いわゆるCOC事業の採択により、これまで以上に区役所と大学の連携が強化され、双方にとってWIN-WINの関係で、いくつかの事業に共同で取り組んでいます。

 中には、学生が企画したアニメキャラクターを通して熱田の魅力を発信する「project758」のように、従来の役所の発想では出てこない、新しいメディアを活用した若者向けの事業も昨年から始まっています。

 このように地域の様々な課題の解決のために、区内唯一の大学である名古屋学院大学の協力が得られることを大変心強く思っております。

 

 私が2年前に熱田区長を拝命したのは、たまたま「縁」があってのことと思います。この「出会い」の大切さは、就任した直後から区役所の職員に伝えてきたところですが、自分自身もこの間、地域の役員の皆様を始め多くの人との「良き出会い」があって、お力添えをいただきました。

 名古屋市、熱田区の多くの施策・事業がそういう地域の役員、各種団体、NPOの皆さんの協力の下に成り立っている、ということを区役所で働いてみて改めて認識させられたところです。

 退職後は、外部の応援団の一人として、陰ながら熱田区のまちづくりのお役にたてることがあれば幸いです。

 

 本当にお世話になりました。ありがとうございます。

熱田区の「区長の部屋」の写真

これが熱田区の「区長の部屋」です

 

平成27年3月16日     熱田区長  宮木哲也

平成27年2月

「熱田」はブランドになり得るか・・・「熱田ブランド戦略」始動へ

 

 

 去る1月22日、熱田生涯学習センターにおいて、「熱田ブランドのこれから」というテーマで講演をさせていただきました。

 これは、同センターの後期講座の『なごや学』『熱田ブランド再発見 食を中心として』という講座の最終回を公開講座として行ったものです。それまでの4回の連続講座で、熱田を代表する老舗の若手の皆さんが、「食」を中心として、それぞれの得意分野について語られたあとで、それらを総括する役割をいただきました。と言っても、食について私は素人なので、今回の講演では、「何故、熱田ブランドなのか」、「熱田ブランドを構成する魅力要素にはどんなものがあるか」、など、熱田の歴史・文化・風俗などを中心にお話をさせていただきました。

 会場には、定員を超える80人ほどの方が来場され、中には相当歴史に詳しい方のお顔もチラホラ見られ、多少緊張いたしましたが、途中で「熱田区おしゃべり大使」の講談師、古池鱗林さんにも登場していただき、終始、和やかな雰囲気で講演を進めることができました。

公開講座「熱田ブランドのこれから」の様子

公開講座「熱田ブランドのこれから」

 さて、ブランドと言うと何を思い浮かぶでしょうか。ブランド品、企業ブランド、プライベート・ブランド(PB)などが一般的な使われ方です。ブランドという言葉の定義は様々ですが、マーケティングの世界では、「製品やサービスまたはそれを提供できる企業を区別するための名称や記号、デザイン、メッセージなど。また、その組み合わせ」というように使われています。この言葉のそもそもの語源は「自分の家畜などを他者の家畜と区別するために焼印を施したこと」だそうです。

 つまり他者と「区別する」というのがブランドの本質です。

 

 このような産業の分野だけでなく、近年は、村や町、都市など一定の地域そのものをブランド化しようという「地域ブランド」の考え方が広まりつつあります。この言葉がマスコミで取り上げられるようになったのは、2003年ころからだといわれています。

 ただ、ここで整理しておかなければならないのは、例えば「夕張メロン」とか「大間のマグロ」とか、地域の名前がついたブランド商品がありますが、これは地域そのものを対象としたブランドではないので、「地域資源ブランド」として概念上の区別をしておく必要があります。

 そして今、私が述べようとしているのは、地域そのもの、つまり熱田をブランド化しようという提言です。

 

 地域をブランド化する際の目的は、地域の活性化であったり、観光推進、地場産品の販売であったり様々ですが、それだけではなく基本には、そこに住む人々が地域に誇りと愛着を持ち、住み続けたいと思うことが大切だと考えます。

 

 そのような地域ブランドの先進事例としては、小樽、富良野、湯布院、小布施、直島など地方の小都市のほか、金沢、京都、札幌などの大都市もあげられます。

 ここでは、私が訪れたことのある町のなかでも、ブランド戦略的な考え方で成果をあげつつあると思われる小布施町について簡単にご紹介します。

 長野県の北東部にある人口1万人余りの町、小布施町は、「栗と北斎と花のまち」をキャッチフレーズとしたブランド戦略で、町を活性化させ、全国から注目を集めています。

小布施の「北斎館」の写真

小布施の「北斎館」

 「きっかけは北斎。」と言われています。というのは、葛飾北斎が晩年の4年間を、ここ小布施で過ごしたことから、町には、個人所有も含めて北斎の作品が数多く残されていました。それらが散逸することを恐れて、町が買い取り、今から40年ほど前の1976年に「北斎館」という美術館を開設しました。

 すると、この美術館を目当てに観光客が訪れるようになったため、町は、建物と建物の間や広場などの公共空間を、「修景」という手法で整備し始めました。有名な「栗の小径」もその一つです。栗の木レンガが敷き詰められた幅2メートルもない小路は、小布施を代表する風景となっており、観光客は必ずここで写真を撮ります。そして、その風景が小布施のイメージとして定着し、情報発信されるわけです。最近は、フェイスブックやツイッターなどのSNSを通してさらに拡散されています。

小布施の「栗の小径」の写真

小布施の「栗の小径」

 また、栗は古くから小布施の産品として有名で、江戸時代は将軍に献上していたという記録もあるほどです。小布施に来ると、土産は栗菓子ということになります。少々お高いのですが、観光客はせっかく来たのだからとお土産に買い求めていきます。これも代表的な小布施ブランドです。

 また、花については、20年くらい前から意識的に「花のまちづくり」が進められています。「フローラルガーデンおぶせ」「おぶせフラワーセンター」といった施設を整備し、さらに平成12年からは、私的空間も修景の対象とする「オープンガーデン」を開始しました。これは、個人の庭先などの花壇・庭園を登録し、一般に公開して、来訪者との交流を図ろうというものです。

小布施の「オープンガーデン」の写真

小布施の「オープンガーデン」

 このような小布施のまちづくり、ブランド戦略は、基本的には住民主体で行われています。歴史・文化に触れることができ、食べたり、買ったり、観たり、体験したりと、訪れる人に様々な魅力を提供していることから、来訪者の滞在時間も長くなり、町の活性化という点ではかなり成功していると感じました。

 

 さて、このような地域ブランド戦略が、今何故、熱田で必要なのか。また、はたしてそれが成立する可能性があるのか、について触れてみたいと思います。

 熱田といえば、先ず熱田神宮の存在を避けて通るわけにはいきません。名古屋市の観光客・宿泊客動向調査によると、熱田神宮は、年間680万人以上の人(参拝客、観光客)が訪れる、名古屋市内でダントツの集客施設です。そして熱田の町は、古くから熱田神宮とともに栄えてきました。

 

 平成25年(2013年)、熱田神宮は創祀1900年を迎え、様々な記念行事を行いました。しかしながらその年は、伊勢神宮が20年に一度の式年遷宮、出雲大社が60年に一度の本殿遷座祭が行われたことから、世の中の注目がそちらのほうへ集まってしまったようで、残念ながら、熱田神宮のほうはあまりニュースになりませんでした。名古屋の人でも知らない人が多かったのではないでしょうか。100年に一度の記念すべき年だっただけに、しっかり情報発信できていなかったことは、惜しいことをしたと思わざるを得ません。

断夫山古墳の写真

断夫山古墳

熱田神宮の写真

熱田神宮

 熱田には、遺跡、古墳など古代からの歴史と文化があり、熱田神宮の門前町、東海道一の規模を誇る宿場町、そして名古屋の台所としての市場を有する湊町として栄えてきました。また、都々逸発祥の地などの芸能文化、伝統あるまつり、うなぎ(ひつまぶし)、菓子、お茶などの食文化、ヤマトタケル、源頼朝、織田信長、徳川家康など歴史上の人物のエピソードなど魅力要素ともいえる地域資源が豊富にあります。

 また明治以降は、近代産業が立地、そして現在は、名古屋国際会議場、中央卸売市場、白鳥庭園などの大規模施設も立地するなど、新しい魅力要素も多々あるなか、あつた餃子を始め新たな名物の開発、堀川まつり、あったか!あつた魅力発見市、手羽先サミットなどのイベント、大学発の魅力発信(プロジェクト758)といった新しい動きも生まれつつあります。

 このように数多くの魅力要素があるにもかかわらず、外部の人だけでなく、熱田区民にもよく知られていないのは、統一したコンセプトで、まとまった情報発信がなされていないからではないか。そこで、有効だと考えたのが、熱田という地域そのものをブランド化し、イメージを高めるようなブランド戦略です。

 では、熱田をそのようにブランド化することが可能か。この点について、魅力要素の多さでは問題ないと思いますが、もうひとつ、熱田の独自性という点に着目してみたいと思います。

江戸時代の絵地図に描かれた名古屋と熱田の画像

江戸時代の絵地図に描かれた名古屋と熱田

 ここに一枚の絵地図があります。江戸から長崎までの街道が26mにわたり描かれたもので、19世紀の作とされています。これによると、名古屋城を中心とする城下町と熱田神宮・宮宿を中心とする熱田は独立した存在、別物のように描かれています。そしてこの両者は、本町通という一本のメインストリートで結ばれています。

 もちろん名古屋の城下町ができる以前から、熱田は門前町として、陸海の物流の中心として栄えていたわけですが、江戸時代になって、尾張藩は、宮宿に熱田奉行、熱田船奉行、白鳥には材木奉行を置いて熱田の統治に力を注いでいます。

 明治時代になって、熱田は熱田村、熱田町として独立していたのですが、明治40年に熱田町が名古屋市に編入され、翌年には南区の一部となりました。その際、熱田町議会がこぞって反対していたということ、そして、編入後の町名には、「熱田○○町」というように、頭にすべて「熱田」とつけたことも熱田の人々の独立心の強さ、意地の表れではなかったでしょうか。このことは、以前このコーナーでご紹介しましたので、そちらをご覧いただきたいと思います。(「区長の部屋」2014年10月)

 

 このように、地域に独自性、独立性があることが、ブランド化には重要な要件となります。つまり「他と区別できる」ということです。この点でも、熱田はブランド化の可能性が十分あると思われます。

 

 では、現在の熱田のブランド力はどうか。残念ながら政令指定都市の区のレベルで評価したものがありませんので、ここでは名古屋のブランド力についての調査結果を参考にお示しします。

認知度ランキング(ブランド研究所「地域ブランド調査2014」より)の画像

認知度ランキング(ブランド研究所「地域ブランド調査2014」より)

魅力度ランキング(ブランド研究所「地域ブランド調査2014」より)の画像

魅力度ランキング(ブランド研究所「地域ブランド調査2014」より)

 毎年、ブランド総合研究所という機関が行っている「地域ブランド調査2014」によると、全国1000の市町村を対象としたアンケート調査において、「認知度ランキング」では、名古屋市は2位となっています。「情報接触度ランキング」でも5位と、全国的に高い評価を受けています。一方で、総合的なブランド力を示す指標と思われる「魅力度ランキング」では、28位と低くなっています。また、その都市を訪れてみたいという「観光意欲度ランキング」では、50位とさらに下位にあります。

 

 要するに名古屋市は、知名度は高いが、都市としての魅力はイマイチで、訪れてみたいという気にさせないところということです。参考までに県のレベルで「観光意欲度ランキング」をみると、愛知県は47都道府県中、32位となっています。

 この結果は、愛知県も、名古屋市も観光政策に大きな課題があることを示しています。特に広域行政を所管する愛知県には頑張ってもらわなければなりません。

 

 2027年には、リニア中央新幹線が東京・名古屋間で開業します。それまでに、名古屋が国内外から「訪れてみたい」、「住んでみたい」と思われるように、都市としての魅力、ブランド力をより一層高める必要があります。そのためにも、先ずは、その一翼を担う熱田が先陣を切ってブランド戦略に取り組みたいと考えています。

 

 熱田ブランド戦略の取り組みは、緒についたばかりです。今年度は、名古屋学院大学のマーケティングの専門家、濵満久先生、佐伯靖雄先生のゼミと協働でアンケート調査の分析など、調査・検討を行うと同時に、魅力要素となる地域資源を発掘し、洗い出す、いわゆる「たな卸し」を行ってまいりました。

 その成果も踏まえて、2月26日木曜日に熱田区文化小劇場において「熱田ブランド戦略・キックオフシンポジウム」を開催いたしますので、ご関心ある方は是非ご参加いただきたいと思います。

シンポジウムのチラシ(表面)の画像

シンポジウムのチラシ

シンポジウムのチラシ(裏面)の画像

シンポジウムのチラシ

 この取り組みは、行政だけでできるものではありません。大学、企業、地域住民、NPO団体など幅広い層の参画が必要となります。

 2年後の平成29年に熱田区は区制80周年を迎えます。この時期をひとつの目途として、次のステップに向けてこの取り組みをさらに進めてまいりたいと考えています。

 

 

 

 平成27年2月3日     熱田区長  宮木哲也

平成27年1月

 明けましておめでとうございます。

 区民の皆様におかれましては、健やかに新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。

 熱田区では、「地域の魅力を活かした、にぎわいまちづくり」を積極的に推進していますが、その一環の事業として昨年11月23日に、「まちじゅうがイベント」と銘打って「あったか!あつた魅力発見市」を開催しました。このイベントは、平成23年11月に「熱田大討論会」としてスタートしたもので、その後、平成24年度には区役所南側の空地を利用したイベント。そして、平成25年度からは、区内各所のイベント、特別公開された寺院などをシャトルバスなどで結び、面的な広がりをもった形式に変えて行っています。

 今年度は、宮の渡し公園、白鳥庭園、日比野の大名古屋食品卸センター、金山駅南口広場の4箇所で、それぞれ特色あるマルシェ(市場)を開催すると同時に、寺院、古墳の特別公開を行うなど、さらに区内に広がるようなイベントとした結果、のべ2万人という大変多くの人に参加していただきました。

「あったか!あつた魅力発見市2014」のチラシの画像

「あったか!あつた魅力発見市」のチラシ

多くの方に利用いただいた無料シャトルバスの画像

好評だったシャトルバス

 その中の宮の渡し公園で行われた「宮の浜市」を企画・運営して大成功に導いたのが、区内の老舗の若手を中心に昨年結成された「あつた宮宿会」です。

 今回は、鈴木淑久会長始め5名のメンバーの方々に集まっていただき、新年に相応しい明るく楽しい雰囲気で対談をさせていただきました。以降、その概要を「区長の部屋」の新年号として搭載させていただきます。

 

「あつた宮宿会」の皆さんとの新春対談

出席者

あつた宮宿会

  • 会長:鈴木 淑久(あつた蓬莱軒)
  • 副会長兼親睦委員長:新谷 滋規(きよめ餅総本家)
  • 歴史文化委員長:花井 芳太朗(亀屋芳広)
  • 朝市準備委員長:田中 良知(妙香園)
  • 歴史文化委員:大矢 晃敬(大矢蒲鉾商店)

熱田区長:宮木 哲也 

対談に出席していただいた「あつた宮宿会」の皆さんの画像

対談に出席していただいた「あつた宮宿会」の皆さん。

左から、田中さん、新谷さん、鈴木さん、私(区長)、花井さん、大矢さん

区長:昨年は、老舗の若手の皆さんが中心となって、「熱田のまちを盛り上げよう」と「あつた宮宿会」(以降「宮宿会」)を結成されました。メンバーには若い世代の方が多く、区役所としても大変心強く思っています。

 昨年10月のキックオフシンポジウムや、11月の「あったかあつた魅力発見市」の「宮の浜市」などの情報発信もあって、外の方からも「熱田のまちは元気」だと言われることが多くなってきました。今年は、さらに飛躍の年にしていただきたいという思いから、年初にあたって皆さんとの対談の機会を持たせていただきました。

 では、まず宮宿会の代表、鈴木会長に、昨年1年がどんな年だったか、宮宿会の雰囲気や、会が目指す姿などを教えていただければと思います。

鈴木:キックオフシンポは昨年10月ですが、メンバーが集いだした頃からなんだかんだで1年。みんなで話合って過ごした1年でした。活動しているうちに、もっといろいろできるんじゃないかと感じることもありました。やっている中で気付きも増えました。最初は、とにかく盛り上がりが基本でした。

 しかし「宮の浜市」で、市に近所のお母さん、お父さんが寄ってくれるのを見ると、あのような集まりで顔を合わせるだけで、孤独な方につながりができるのじゃないかという新しい発想・想いも出てきました。

区長:発足後から宮宿会のメンバーは増えているのですか。

鈴木:はい。多方面の分野にわたり増えています。お互いが専門家なので、足りない部分を補い合ってイベントができたのかなと思っています。

昨年11月23日の「宮の浜市」の様子

多くの方で賑わった「宮の浜市」

区長:宮の浜市(朝市準備委員会)の委員長の田中さん、昨年はいかがでしたか。

田中:はい。色々な方に助けられ、そのことで熱田の力が余計に分かった1年だったと思います。また、今回の宮の浜市は大成功でしたが、そこから見えてきた課題も多い。継続性を考えると、予算・運営面、場所などを今後どのようにしていくか。その課題が分かった大変意義がある1年だったと思います。

区長:会の結束を固める役割を担ってこられたという新谷さんはいかがでしたでしょうか。

新谷:はい。会の親睦を深める親睦会を企画してきました。親睦の中で知らない一面が見えたりし、それを通してさらに団結できればと考えていました。

区長:宮の浜市では各社のコラボ企画もありましたが、そのような関係の中で生まれたのですか。

新谷:はい。そのような中で話が出るので、もっともっと親睦を深め熱田の力を引き出していきたいです。

区長:花井さんは歴史文化委員長として、10月のキックオフシンポジウムでも発表されていましたが、そうとう勉強されたのではないでしょうか。

花井:はい。勉強は教えてもらいながらもありますし、歴史文化委員だけでの個別勉強会も開催したりしました。学んでいるうちに、書籍などにはない、熱田の言い伝えなども知ることができ、区民として大変ありがたいと思いました。

 もともと歴史は好きですし、お店でもそれを活かした商品も販売しています。

昨年10月20日に開催された「キックオフシンポジウム」の様子

昨年10月の「あつた宮宿会 キックオフシンポジム」の様子

区長:大矢さんは、途中入会されていますが、会の雰囲気はいかがですか。敷居が高かったことはありませんか。

大矢:やはり老舗の方や大学の先生が委員ということをお聞きして、緊張しておりましたが、「熱田を盛り上げよう」という共通認識のもと、垣根なく意見が出し合える雰囲気があったので、自分としては入りやすかったです。

 またその中で、自分自身がどのような役割ができるのだろうと、模索しながら自分自身でも考えたりしました。

区長:ありがとうございます。では次に、皆さんにとっての熱田、個人的な思いや本業とのかかわり、今後の活動などについてお聞きしたいと思います。

 まずは、熱田をどう思っているのか。私も区長就任以来、熱田のことを勉強しました。本当に魅力が多い良いところだと思っています。皆さんは熱田で生まれ、今後も熱田で暮らしていくということで、思いは大変強いものだと思います。

鈴木:はい。10年以上違うところに住んでしたが、熱田はやはり「故郷」という気持ちがあります。愛着もあり、誇りもあります。しかし、京都にも勝る魅力があるのに、それが注目されていないのが残念です。

 同業の方と話をする機会では、熱田のことを負けじと自慢してしまいます。もっと皆さんに熱田の魅力を知ってもらいたいです。

区長:本業のお店には全国からお客さんがいらっしゃっていますが、駐車場の車のナンバーを見ても本当に全国からですよね。

鈴木:ありがたいことに全国からお客さんに来てもらっていますが、私は、これは、店ではなく土地が呼んでいるのだと思います。あの辺りは「宮の宿」として昔から全国の方が集まる場でした。もし馬にナンバープレートがついていたら、京都や大阪、摂津など全国からやってきた馬でいっぱいだったと思います。これは熱田の雰囲気・土地が呼んでくれているのだと思います。

対談の様子1

区長:熱田神宮といえば新谷さんの本業のお餅も有名ですが。

新谷:もともと熱田神宮内にあったお茶屋さんから名前をいただいていることもあり、熱田神宮には大変愛着があります。僕自身は、熱田に住むようになり、魅力が発信しきれていないのが感じられ、もっと発信して皆さんが来て、楽しめる街になれば良いと思います。「もったいないところが多々あるな」という気持ちをひしひしと感じています。

 もっともっと良い街になる。「伸びしろ」も多い街だとも思います。

田中:私は本日のメンバーで唯一生まれてから一度も熱田以外の地域に住んだことがないのです。熱田神宮と宮の宿という2大観光資源がありますが、区民は、愛着があっても誇りがないのかなと思う部分があります。

 我々のシンポジウムなどでも、会場に来られる方のお顔は何度か見たことがあり、ひょっととしたら、すでに魅力を知っているリピーターの方が多いのかなとも思います。もっと幅広い方に来てほしいという気持ちが強いです。旅行雑誌や情報誌などでは、熱田神宮より先に「みそかつ」。これでは、まだまだだと思います。もっといろいろな方法で街をPRしていきたいと思います。他の人に熱田を自慢する、そのような人増やしたいと思います。

花井:私は5年前に熱田に戻ってきました。先日、白鳥小学校で、和菓子の話をさせていた際、その中で熱田のことも話してほしいというオーダーがありました。お話をさせていただいた時に思ったのですが、われわれ地元衆がPRすることも大切ですし、他地域から来た若い方へのPRも大切だと思いました。子どもを通じての発信も有効だと思います。

対談の様子2

大矢:私は北海道や滋賀などに住んでおり、しばらく熱田から離れていたのですが、そういったところでも、熱田のお菓子をお土産に持っていくと「すごくおいしい」と言われました。熱田の魅力はいっぱい有ると思います。

 幼稚園の前に店舗があるのですが、お母さん方と話をしていると、旦那さんは熱田出身だが、自分は他地域から来たという方も多く、熱田にこんなものがあるんだっていう話もよく聞きます。少し話をするだけでも大変驚かれます。

絵本など、子どもさんにも地元を知ってもらえるツールをつくったりとか、保護者の方へもPRするため「ママ友会」などがある喫茶店なども巻き込むなど新しいツールを考えたいと思います。

区長:喫茶店出張出前講座など、いいですね。では最後に、これからの抱負についてお聞きします。

鈴木:人が集まることもしたいし、街としての要望をまとめられるようにもなりたいと思います。例えば、信号の設置や観光として必要な要望など。熱田生まれじゃない人にも魅力を知ってもらうツールも考えたいと思います。宮宿会を通して次世代が盛り上がることになれば大変うれしいです。このような、にぎわいが店や地域に還元されていくと思います。会のメンバーだけでも、うなぎを食べ、和菓子を食べて、カマボコ食べて、抹茶を飲むなど、熱田を楽しめる方法が提供できますし、それを広げていきたいと思います。

 また、お店に来られる方のためにも、名古屋市観光施策や会のPRなどのチラシを置いていきたいなと思います。

新谷:会としては浜市を定番化していきたいです。ほかにもブランドとしてみんなで協力して新名物を作るのも面白いと思います。ゆくゆくは熱田の老舗でお店を1店つくるのも面白いと思います。この1店で熱田のブランドが満喫できるというがあるといいですね。そんななかで熱田の魅力を全国に発信してきたいです。

田中:今回の浜市が大成功といえども、利益と設営費などを考えると同じやり方で継続を考えると難しい面もあります。多少は無理する時期だと思うので、まずは熱田神宮や地域の方から認められて、これいいねっていう会にするべきだと思います。我々が中心ではなく、地域の方が主役なので、その方たちに認められるようになりたいです。地域があって商売もできる。ぜひ予算面も含めぜひ区役所にも協力賜りたいです。

あつた宮宿会の定例会の様子

月に1度行われるあつた宮宿会の全体会議の様子

区長:まだ会はスタートしたばかりなので、大きくなくても継続することが大切だと思います。また、宮宿会を支える外部の力も大切だと思います。

花井:会を通じてできることは、そこまで大きくないと思います。小さな成功を積み重ねていくことが信頼をつくることになりますので、もっと気軽に来られるイベントを企画し、20から30人規模で頻度を高くした方がいいと思います。われわれは地域に支えられて商いをしている企業なので、地域のまちづくりに参画というとおこがましいが、協力していきたいと考えています。

大矢:今年の抱負は、学んだことを継続できる形をつくりたい。歴史に新しいものを付加して歴史をつくるということを続けていきたいと思います。5年、10年後を見ると、後輩が頑張れる場所も作ってあげることが大切だと思います。これから10年。熱田っ子ではないですが、新しい若手を発掘し成長してもらえるようにしたいです。

区長:昨年、「熱田ブランド戦略」というものを動かし始めるにあたり、発信・発掘両方が必要だと思いました。まだ熱田の魅力が発掘されていない部分もあると思います。たとえば昨年11月のあつた魅力発見市の際に、戦後初めてご本尊を公開したという寺院もありました。このような機会があって良かった、とも言っていただきました。そのような魅力の発掘や発信をトータルでできるステージを作りたいという思いがあり、熱田ブランド戦略の検討を始めました。

 これまで大学の先生や学生などとの調査・検討が中心でしたが、これからは地域の方や企業にも参加していただきたい。宮宿会の皆さんには、その中核として活躍していただければと期待しています。よろしくお願いします。本日はありがとうございました。

 

対談を終えて

 今回5人の宮宿会メンバーの皆さんとお話をして感じたのは、それぞれが個性豊かな方々ですが、共通するのは、自ら生まれ育った熱田のまちへの愛情というか誇りといったものを持っておられることです。

 彼らには、熱田生涯学習センターの今年度の後期講座「熱田ブランド再発見ー食を中心としてー」の講師も務めていただいています。それぞれの持ち味を活かした講義は、受講生からも好評のようです。

 宮宿会のような、30代から40代という若い世代がまちの活性化に取り組むという例は、珍しい貴重なことだと思います。是非、これからじっくり時間をかけて着実に活動の幅と、共鳴できる人の輪を広げていってもらいたいと期待しています。

 

 

平成27年1月1日   熱田区長  宮木哲也

 

平成26年11月

堀川・・・熱田のまちの分断要素か魅力要素か

 

 名古屋市の地図を眺めていると、名古屋城から港へ南北に流れる堀川が、行政区の境界線となっている部分がほとんどで、区の真ん中を流れているのは、熱田区だけだということに気づきます。

 しかも、面積的には、堀川の東側3学区で4.0平方キロ、西側4学区で4.1平方キロと、熱田区をちょうど二分しています。

 熱田のまちづくりを考える際に、この堀川を交通、交流の分断要素となっていることは否めませんが、熱田の歴史文化、自然環境を語る上で欠かせない魅力要素と捉えることが重要になってまいります。

 個人的には、かつて納屋橋周辺の再開発を中心としたまちづくりに携わったとき、堀川の再生を目指した「マイタウン・マイリバー整備事業」にも関わっていたことから、堀川に関してはずっと関心を持ち続けてきました。

 そこで今回は、熱田のまちづくりと堀川の関わりをテーマに取り上げることとしました。

 

 去る、9月20日(土曜日)に「あつた堀川一斉清掃と子ども乗船体験」というイベントを開催しました。これは、クリーン堀川の「堀川一斉大そうじ」に呼応して、上流の黒川地区、納屋橋地区と同日に行っているもので、今年で15回目となります。

 今回は、天候にも恵まれ、日比野中学校の生徒さんたち176名を含む総勢367名が参加して、宮の渡し公園を中心とした川辺と白鳥公園の清掃を行いました。
堀川一斉清掃の写真

堀川一斉清掃の様子

一斉清掃で集まったごみの山の画像

一斉清掃で集まったごみの山

 熱田の一斉清掃の特徴は、参加人数が多いこと、特に小中学生やボランティアの若い人の参加が多いことです。そして、清掃の後に、川に関する環境学習と、堀川を遊覧する船に親子で乗ることができることです。

 清掃活動は、堀川の御陵橋から新堀川の浮島橋までの約1.5kmの間を7つのグループに分かれて、川辺のごみを拾い集め、それとは別のグループで小船を使って水面に浮かぶごみを掬い取る作業を行いました。

 その結果、集まったごみを集積したところ、全部で45リットルのゴミ袋で105袋にもなりました。これには、参加した子どもたちも驚きの表情をみせていました。終わった後のアンケートでも「ごみがいっぱい。タバコの吸殻がいっぱいだったから驚いた」という感想が多く寄せられました。大人としては、まことに恥ずかしいことです。

 その後の環境学習は、海上保安庁の職員と熱田区まちづくり協議会堀川にぎわいづくり専門委員会の皆さんから、子どもたちに川の環境を大切にすることのお話と、水質実験などを披露していただきました。こういう活動は、この11月に開催されたESDユネスコ国際会議の「持続可能な開発のための教育」というテーマにピッタリの内容だと思います。

堀川乗船体験(エンゼル・ハープ号)の写真

堀川乗船体験(エンゼル・ハープ号)

堀川乗船体験の様子の画像

堀川乗船体験の様子

 そして、清掃、学習の後は、子どもたちが楽しみにしていた乗船体験です。宮の渡しの船着場から、親子連れを中心に106名がエンゼル・ハープ号に乗船し、約1時間のクルーズを体験しました。コースは堀川を南下して名古屋港へ出て、名港トリトンの手前で引き返すというもので、川側から自分たちの町を眺めるという、普段は見ることができない風景を楽しみました。

 熱田から港にかけての右岸には、小さな造船所がいくつかあり、そこにレジャーボートなどが繋留されています。堀川が河川であると同時に港の一部であることが理解できたのではないかと思います。

 船を下りるときに、お母さんと子どもさんが「また、来たいね。」といってくれました。この企画は是非続けていきたいと思います。

 

 このイベントの実働部隊として中心的役割を担っていただいているのが、「NPO法人堀川まちネット」の皆さんです。

 先日、この団体の拠点である「宮の駅交流サロン」にお邪魔して、理事長の川口正秀さんからいろいろお話を伺いました。

 堀川まちネットは、1985年発刊のミニコミ紙「あつたっ子」のグループから発展してきた団体で、地域の歴史・文化の伝承、環境保全、青少年の健全育成、河川環境と人間のあるべき姿の実現を目的として様々な活動を行っています。その主なものは、堀川まつり、堀川の清掃活動、七里の渡しの復活、宮の駅交流サロンの運営などです。

堀川まちネットの川口理事長(左)と熱田区長(右)の写真

堀川まちネットの川口理事長(左)と熱田区長(右)

 川口さんが、活動に関わり始めたのは、世界デザイン博覧会が開催された1989年頃で、「これまでの25年間は失敗の積み重ねでした。」と語っておられるように、ここまでくるには、大変なご苦労があったものと推察されます。

 かつて熱田まつりで行われていた「まきわら船」が、1975年に廃止され、陸に上がったことで途絶えていた伝統を復活させようと、1990年から「熱田天王祭」として、南区豊田本町のまきわら神輿を台船の上に載せて開始したということです。当初は小さなイベントでしたが、途中で名称を「堀川まつり」と変え、まきわらも大きくなり、今や観客が4000人という多くの人が参加する地域イベント育ってきました。

堀川まつりで復活したまきわら船の写真

堀川まつりで復活したまきわら船

堀川まつりで復活した大山の画像

堀川まつりで復活した大山

 その中で、川口さんたちがさらに夢を広げているのが、かつて南新宮社祭で曳き回されていた「大山」の復活です。これは、昨年7月の「区長の部屋」でもご紹介しましたが、総高さ23メートルもある巨大な山車で、尾張名所図会にも描かれています。

 堀川まつり20周年の2009年から地域の皆さんなどに協力いただいて始まった現代の「大山」は、鋼管で組み立てたものですが、いずれはオリジナルに近い木造での復元を目指したいとのことです。

 

 一方でこの団体は、春秋の一斉大そうじ以外に毎月、宮の渡し公園周辺の堀川の清掃活動を行うとともに、護岸に葦原を整備して水質浄化に取り組むなど地道な活動も続けておられます。この活動は、地域の企業や多くのボランティアに支えられて続いているそうです。大変頭が下がる思いです。「都市を流れる川は、その都市の顔である」とも言われます。このような市民による清掃、水質浄化への取り組みがもっと広がっていけば、堀川にかつての清流が蘇り、市民の誇りとなるのも夢ではないと思います。

宮の駅サロンの写真

宮の駅サロン

 さてここで、「宮の駅サロン」についてもご紹介もさせていださきます。この建物は、宮宿を代表する老舗の料亭のひとつ魚半の別邸として建てられたもので、大正時代の洋館と昭和初期の和館からなります。周辺のほとんどが戦災で焼けてしまった町の中で残った貴重な歴史的建築物です。この建物を所有者から借り受けて、昨年秋、この団体の活動拠点とすべく少しずつ修繕をしながら使い始めたそうです。

 宮の渡しにも近いことから、現在は、洋館には喫茶と「まちかど観光案内所」のコーナーを設け、レンタサイクルの貸し出しも行っています。広くはありませんがとてもアットホームな雰囲気で、熱田の観光や歴史の資料を手にしながらゆったりとくつろげる空間です。

 また、和館のほうでは、地域の歴史・文化を学ぶ講座「宮塾」も定期的に開催されているとのことです。ここを「サロン」と命名したのは、地域の人だけでなく、遠方からこの地を訪れた人たちとも、幅広く交流できる場所としたいという意図があってのことだと思います。

 

 最後に、熱田区のまちづくりに堀川をどう活かしていくのか、そのキーワードは「歴史」と「環境」だと考えます。

 先ず、歴史に関しては、堀川が名古屋城と城下町の建設のために掘削された運河であるという、堀川そのものが歴史資産であるということを認識し、後世に伝えていかなければならないと思います。

 そして、熱田で重要なのは、木曽から切り出した木材の集積地として江戸時代からこの地にあった白鳥貯木場の存在です。

 ここに木材が集積したことが、明治以降の名古屋の産業に発展に大きく影響したといわれています。

 現在は、白鳥公園の中に残った太夫堀という名前の池に、かつての貯木場の名残がありますが、隣接する中部森林管理局の名古屋事務所には、白鳥貯木場の歴史や、木曽から切り出した木材がどのように堀川までたどり着いたかを分かりやすく説明した展示スペースが併設されています。地域の皆さんには、是非一度ご覧いただきたいと思います。

 

 

堀川と川岸のプロムナードの画像

堀川と川岸のプロムナード

 

 環境に関しては、上流部に比べると川幅が広く、ゆったりとした水面があり、両側に、白鳥公園、断夫山古墳を含む熱田神宮公園、白鳥庭園、大瀬子公園、宮の渡し公園があって、それを川沿いのプロムナードがつないでいます。正に「水と緑の回廊」です。あまり広くは知られていませんが、春の桜、秋の紅葉が水面に映る風景は、新たな名所と呼ぶに相応しいものと思います。都心近くでこのような自然環境を享受できることを、もっとアピールすべきではないかと考えています。

 

 冒頭でも述べたとおり、区の真ん中に堀川を抱えるという特徴を熱田の魅力要素のひとつとして捉え、もっと市民、区民の皆さんが堀川を身近に感じ、親しんでいただけるようにしていきたいと考えています。

 

 

 

 平成26年11月20日  熱田区長  宮木哲也

平成26年10月

熱田区役所今昔物語・・・熱田区政の歴史と区役所庁舎について

 

 

 現在の熱田区役所の庁舎は、平成13年10月に完成。今年で13年目の建物です。これまで熱田の役場、区役所の庁舎は、区内で何度も移転を繰り返してきました。

 今回は、熱田に関する地方行政制度の変遷と庁舎の移転の足跡を、古い資料と地図を照らし合わせながら辿ってみました。

 現行の熱田区政は昭和12年10月にスタートしたものですが、それ以前の行政がどうなっていたのか、その時の庁舎はどこにあったのか、どんな建物だったのかについて判っている範囲で述べさせていただきます。

 

 古くから熱田神宮の門前町、港町として栄えてきた熱田は、独立性が高く、また東西の交通の要衝でもあったことから、江戸時代の尾張藩においては「熱田奉行所」、「熱田船奉行所」を設置してこの地を統治していました。

 

 明治時代になると、明治4年の廃藩置県により、尾張藩は名古屋県となり、翌5年には尾張・三河を所管する愛知県と改称されました。この際、熱田は名古屋と合わせて、六つの大区のうちの第一大区となりました。

 明治時代の地方行政制度は、短期間で大きな変更があり、そのつど自治体の組み合わせが変わり、役所の場所も移動するので大変分かりづらいのですが、ここは少し我慢してお付き合いいただきたいと思います。

 

 明治11年に、郡区町村編成法の成立により、大小区政が廃止となり、熱田は熱田村として愛知郡管内となり、ここで一旦名古屋とは離れることになりました。当時の愛知郡役場は、熱田神宮の南門のすぐ南の市場町に位置し、熱田が愛知郡の中心だったことが分かります。(位置図1)

 明治22年には市制町村制が布かれたことから、名古屋区は名古屋市と改称され、熱田村は熱田町となりました。その当時の熱田町役場は、市場町の愛知郡役場から少し南に下ったところにあったことが、古い地図で読み取れます。(位置図2)

 この庁舎はその後、熱田神宮(八剱宮)のすぐ西側の中瀬町へ移転しましたが、それがいつのことかは手持ちの文献では分かりません。明治36年の地図は、この地に存在したことが示されています。なお、この場所は、現在ほとんどが国道19号線の道路内にあると考えられます。(位置図3)
役場、区役所の所在地の変遷(位置図)の画像

役場、区役所の所在地の変遷(位置図)

1   市場町 (愛知郡役場)  明治13年から大正7年

2   市場町 (熱田町役場)  明治22年から ?

3   中瀬町 (熱田町役場→市役所出張所→南区役所) ? から大正10年

4   森後町 (南区役所→熱田区役所) 大正10年から昭和19年

5   旧森後国民学校  昭和19年から昭和20年

6   旧白鳥国民学校  昭和20年から昭和22年

7   玉の井町     昭和22年から昭和34年

8   旗屋二丁目    昭和34年から平成13年

9   神宮三丁目 (現熱田区役所庁舎)  平成13年から

 

  その後、熱田にとって大きな転換期は、名古屋市への編入です。明治38年ごろから名古屋市側に熱田町の合併問題が台頭し、当時の深野愛知県知事と加藤名古屋市長の間で一定の合意がなされました。一方、熱田町側では、合併に反対する意見が多く、「1800年余という古い歴史を持つ熱田が、わずか300年余の歴史しか持たない名古屋へ編入されることは、甚だ納得できない。むしろ名古屋こそ熱田に編入されるべきものである。・・・」という反対論が喧しかったという話が伝えられるほど、すんなりとはいかなかったようです。しかし、熱田町議会で何度も協議会を開催し、結果的には時代の流れの中で合併を認めざるを得ないことになり、明治40年6月1日をもって、熱田町は名古屋市に編入されることとなりました。これで維新当初名古屋に加わり、明治11年に分離して以来29年ぶりに名古屋と熱田は一体化したわけです。

 

 この合併は、名古屋市にとって非常に大きな意味をもっていました。日本有数の大都市となるべく、市域を拡大していくなかで、この合併には当時、愛知県が進めていた築港事業が絡んでいたことが、その後の動きでよく分かります。熱田町編入直後の7月には、臨海部の千年、熱田前新田などを編入。10月には「熱田港」を「名古屋港」と改称し、築港によって生じた埋立地をすべて市域に編入しました。これにより、名古屋は名実ともに臨海部を有する大都市となったわけです。

 

 編入に際し、中瀬町の旧熱田町役場は、市役所出張所となりましたが、翌41年の4区制が実施されたことに伴い、熱田は南区の一部となり、この庁舎が南区役所となりました。この時、熱田という名前は消えたわけですが、名古屋の南部地域一帯の行政の中心は、依然として熱田にあったと言えます。

 余談ですが、新たな区制施行に伴い、町名も改められたのですが、熱田の町は、「大字神戸」を「熱田神戸町」というように、すべての町名に「熱田」の文字が冠としてつけられました。これは、伝統ある熱田を存続せしめたいとの旧町民の切なる願いを、合併の条件に盛り込んだことによるものです。このことは、いかに熱田の人たちが自らの地域に誇りを持っていたかの証でもあります。
森後町の庁舎の画像(大正10年建築、南区役所から昭和12年に熱田区役所となる)

森後町の庁舎(大正10年建築、南区役所から昭和12年に熱田区役所となる)

 大正10年4月、南区役所は、中瀬町から新築なった森後町の庁舎に移転しました。ここは、当時、鉄道省の熱田駅前、市電の熱田駅前という交通至便の地で、現在は、愛知県名古屋南部県税事務所が建っている場所です。(位置図4)

 建物は、木造2階建て、瓦葺で、角地を利用して角に正面玄関を設けたシンメトリーの平面形とし、外観は鉄筋コンクリート造に似せた表現になっています。当時の官庁建築は、権威の象徴という意味も込めてこのようなデザインのものが好まれました。

 

 その後、名古屋市は、更なる拡張を続けます。同年8月には、隣接する16町村を合併し、南区には新たに呼続町、笠寺町が編入されました。このような市域の拡大に伴い、新たに合併した旧町村からは、「編入後、これを適当に区分し、新たに区を設けること」という条件がつけられていたことから、増区の問題が燻り続けました。

 そのため、昭和12年に、下之一色町、庄内町などを編入するに至り、議会での紆余曲折を経て、同年10月1日をもってこれまでの4区制から6区増の10区制へ移行しました。ここで、現行の熱田区が誕生し、熱田の名前が明治40年の編入以来30年ぶりに復活しました。

 

 この時の庁舎は、旧来の森後町の南区役所庁舎の1階を熱田区役所とし、2階を南区役所とするという、変則的なものでした。これは、新たな南区役所の庁舎が「区役所建築受納に関して問題が起こり、当分の間、熱田区役所に同居の形となっていた。」(南区70年史より)ためであり、昭和17年2月には呼続町に建設した新庁舎に移転して、この一時的な同居は解消しています。

 

 戦中戦後、区役所の庁舎は目まぐるしく移転を繰り返さざるを得ない状況にありました。

 先ず、昭和19年、軍の命令によってこれまでの森後町の庁舎を日本通運に売却し、廃校となっていた森後国民学校の校舎を仮庁舎として移転しました。(位置図5)

 戦争末期の昭和20年3月12日の大空襲でその仮庁舎は全焼し、その後は、当時の数少ない鉄筋コンクリートの建物ということで焼け残った白鳥国民学校へ移転しました。(位置図6)

 なお、かつての森後町の旧庁舎も、この日の空襲で焼失してしまいました。

玉の井町の庁舎(昭和22年建築)の画像

玉の井町の庁舎(昭和22年建築)

 戦後、区民有志による「熱田区役所復興委員会」が組織され、区民の寄付と市費により、玉の井町に木造2階建ての区役所庁舎が建設され、昭和22年12月に移転しました。(位置図7)

 この庁舎は、戦後の資材難の時期に建設されたため、10年後には老朽化が進み、また、職員の増加にも対応できなくなったことから、すぐに新たな庁舎が必要となりました。そこで、本格的な区役所庁舎を建設すべく市議会の議決を経て、昭和34年9月18日に旗屋二丁目の地に、鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階の庁舎が完成しました。(位置図8)

旗屋二丁目の庁舎(昭和34年建築)の画像

旗屋二丁目の庁舎(昭和34年建築)

 この建物は、柱、梁を表に見せ、各階に庇をまわして水平を強調する外観の、当時の庁舎建築でよく使われたモダニズム風のデザインが採用されています。これは、かつてのような権威の象徴ではなく、市民に開かれた機能的なデザインともいえます。

 竣工式の9月26日は、偶然にも、この地を襲った未曾有の災害「伊勢湾台風」が襲来し、新庁舎は開庁早々に災害対策と避難者を収容する施設となったというエピソードがあります。

 この旗屋の庁舎には当初、清掃事業所と水道業務所が入居していましたが、それぞれ、神戸町、一番三丁目へと転出しました。それでも昭和60年代には手狭となり、老朽化の問題も顕在化してきたため、建替えの要求が強まってきました。

 

 その後、やや時間がかかりましたが、平成13年に現在の区役所庁舎が完成。10月1日から新庁舎での業務が開始されました。(位置図9)

 この新庁舎の敷地は、明治29年に移転開業した鉄道局の東海道線熱田駅に隣接して、鉄道貨物の集積地として使われていた土地です。その後、一時期ですが、水運を利用するために精進川から開削した運河が、この敷地の西側にありました。区役所の建物はその船溜りとなっていた部分に半分くらいかかっています。この運河は、明治30年に開削され、昭和6年に埋め立てられるという、インフラとしては、非常に短命のものでした。区役所西側の商店街の裏側と接する部分にその面影をみることができます。

 

 大型貨物の取り扱いが他所に移ったあとも、熱田駅はしばらく小規模貨物の拠点として機能してきましたが、国鉄民営化後この土地は、国鉄清算事業団の管理地となり、ほとんど何も使われない状態で放置されていました。

 このような、大規模未利用地は、名古屋市のまちづくりにおいて市街地整備上の大きな課題となってまいりました。

 そこで名古屋市は、平成3年に「区役所等の建設と商業・業務・住宅等の整備を図る市街地整備事業」を提案し、翌4年に同事業団から名古屋市土地開発公社が約1.5hの土地を先行取得し、事業化を図りました。

 しかしながら、経済社会状況の変化や地元地権者の同意取得の困難さから、敷地全体の開発が思うように進まず、区役所部分だけでも早期整備が必要との判断から、敷地の北側半分の0.8hだけを同公社から名古屋市が取得し、現在の区役所庁舎を建設するに至りました。

建設中の現区役所庁舎の画像

建設中の現区役所庁舎

竣工時の現区役所庁舎の外観の画像

竣工時の現区役所庁舎の外観

 現庁舎は、地上7階、地下2階で、白鳥2丁目から移転した保健所を含み、熱田神宮の東南の一角から移転した熱田図書館、そして新たに整備された熱田文化小劇場からなる複合施設です。また、6階部分には区の福祉の拠点となる在宅サービスセンター(熱田区社会福祉協議会)が同居しています。

 

 この庁舎の最大の特徴は、このように区の行政にかかる様々な機能が集積していることです。

 昨今の複雑化、多様化する行政ニーズに対して、行政組織間の敷居を低くして連携協力し、柔軟な対応が求められています。その点この庁舎では、少子・高齢化の進展に伴って求められる保健、福祉、生涯学習等の連携や、災害時の防災拠点として区内各公所と連携できる体制の強化など、区民サービスの拠点として、この複合施設ならではの力を発揮できるものと思っています。もちろん、この施設の強みを活かすためには、個々の職員が人と人のつながりを大切にして、協力して事にあたるという意識がなければならないことは、言うまでもありません。

 

 ここまで、明治以降の熱田の行政と庁舎の歴史について、その足跡を辿ってきました。冒頭の位置図をご覧いただくと、それらの庁舎は、熱田神宮の周辺に隣接して建てられてきたことが分かります。

 行政の役割・業務とそれに対応する組織は、明治以降、時代によって変化してまいりました。古い庁舎の写真を見ながら、その中で我々の先輩たちがどんな仕事に取り組んでいたのか興味のあるところですが、本稿ではそこまで至りませんでした。

 熱田区は、3年後の平成29年に、昭和12年の区制施行から80周年を迎えますが、熱田村、熱田町の時代から数えると、130年以上の歴史があります。この伝統を踏まえて熱田区役所は、地域の歴史・文化を大切にし、区民サービスの拠点として、これからの社会情勢に柔軟に対応できる、区民に開かれた区役所でありたいと思っています。

 

 

 

平成26年10月3日  熱田区長  宮木哲也

平成26年8月

夏の風物詩「怪談」考・・・「宮の怪談・千一夜紹介」より

 

 

蒸し暑い日本の夏。古くから「怪談話」で涼を求めるという習慣がありますが、本当に怖い話を聴くと涼しくなるのでしょうか。実は、これは科学的に根拠があるらしいのです。先日、あるテレビ番組でそれを証明する実験をやっていました。怪談を聴く前と後で、被験者の、身体の表面温度の変化を測定したところ、平均で3℃下がるという結果がでました。

これは、人間は、恐怖で緊張すると毛細血管が収縮し、血液が流れにくくなり、その結果体表面の温度が下がって涼しく感じる、というメカニズムによるものだということです。昔からの言伝えは正しかったということですね。

ところで余談ですが、「ギャグが滑って寒くなる」とよく言いますが、これは証明されていないようです。

幽霊や妖怪、怪奇現象に関する物語は、古くは神話の世界から地方の民話伝説などにも数多く集録されています。文学作品としては「今昔物語」「雨月物語」などが有名です。また、歌舞伎や講談、落語の題材としても取り上げられることが多く、「牡丹灯籠」、「お菊の皿」など様々な演目が現代に伝えられています。

 

今年、熱田区では、「街道つながり事業」の一環で「宮の怪談・千一夜紹介」というタイトルで、街道や熱田の歴史にスポットを当てた怪談講座などを紹介しました。

名古屋市博物館企画展「幽霊・妖怪図大全集」の入り口

名古屋市博物館で開催された企画展「幽霊・妖怪図大全集」の入り口

先ずひとつ目は、名古屋市博物館で開催された「幽霊・妖怪画大全集」で、区としては、チラシ等のPRで連携しました。

この企画展は、まるごと福岡市博物館が所蔵するコレクションによるもので、「博物館がお化け屋敷になる!?」というキャッチで、幽霊、妖怪を描いた作品が160点ほど、ところ狭しと展示されました。

ちょうど、「妖怪ウォッチ」の人気で子供たちの間では妖怪ブームが巻き起こっていることもあって、親子連れの来館者も多かったようです。

最初の展示室に入ると、そこには女の幽霊の掛け軸がずらりと並んでいて、どれもこちらを睨んでいる、異様な雰囲気です。誰がこんな絵を好んで飾ったのでしょうか。

中には日本画の大家の作品もいくつかあって、伝・円山応挙作、谷文晁作というものもあります。伝というのは、本当かどうかは分からないものだそうです。

芝居、歌舞伎などに幽霊が登場する場面の錦絵に続き、最後は、日本各地に伝えられた妖怪たち。人、動物に近い妖怪だけでなく、身近な道具などが変化した妖怪などが描かれたもの。「ゲゲゲの鬼太郎」でお馴染みの妖怪も、漫画ではなくリアルなタッチで描かれています。

印象的だったのは、江戸時代の天才絵師、伊藤若冲による妖怪図です。これまで見てきた若冲の作品とは全く異なる、現代のアーティストが描くデザイン画とかイラストといった風の作品で、どことなくユーモラスな雰囲気の絵です。

もう一つ発見したのは、熱田に関わる幽霊を題材としたもの。歌川国貞による「東海道五十三対」のシリーズのひとつ「宮乃驛反魂塚」という絵です。

熱田の宮宿に、藤という女がいて、奥州遠征から帰らない夫を嘆き悲しみ死んでしまう。ようやく夫が帰ってきたが妻はいない。そこで東岸居士という名僧に願い、「反魂の法」を行ってもらうと、煙の中に妻の姿が現れた。という話です。この話は、地元熱田ではあまり知られていないのではないかと思います。

 

さて、二つ目の企画は、7月8日に熱田生涯学習センターで行われた「人はなぜ怪談を語るのか ー 心の安全弁としての語らい ー」というタイトルの講演会。講師は、熱田区にある想念寺の住職、渡辺観永さんです。

明治時代に、柳田國男が編纂した「遠野物語」や小泉八雲による「怪談」などを例に、何故そういう話が人の口を介して伝えられてきたのかについて語っていただきました。

特に興味深かったのは、遠野物語に収められている、東北の大津波にかかわる話です。

遠野は、岩手県の内陸部の盆地の小さな町で、そこに数多くの奇怪で不思議な話が伝承されてきました。中でも有名なのが座敷童子(ザシキワラシ)や河童の話です。その他、妖怪、天狗、死者にまつわる話など119編で構成されたのが遠野物語です。

その遠野から東へ20kmほど行って、太平洋にでたところが三陸海岸の大槌町や釜石市といったところです。

明治29年、三陸沖に発生した巨大地震による大津波で沿岸部は壊滅状態。死者・行方不明者は2万人を超えるという大きな被害をうけました。このことは、作家の吉村昭氏の「三陸海岸大津波」という本にも詳しく書かれています。

 その大惨事からしばらくたって、津波で死んだはずの妻が、かつて恋人だった男と一緒に現れたという話が遠野物語に載っています。

熱田生涯学習センターにおける渡辺住職の講演の様子の画像

熱田生涯学習センターにおける渡辺住職の講演の様子

渡辺住職によると、今回の東日本大震災の後、現地でボランティアとして被災者の心のケアにあたっていた宗教団体の人たちの話として、震災の半年後頃から、そういう「死んだはずの人が現れた」といった話がちらちらと聞かれるようになったとのことです。

 これは、怪談というよりは怪奇譚というものだと思いますが、このような悲惨な自然災害や大事故、または戦争などのあとにはよく聞かれる話だそうです。渡辺住職の解釈は、人が忘れられない、あるいは忘れてはいけない悲しい出来事が怪談、怪異譚という形で後世に語り継がれてきたのではないか。それは先人の知恵だったのではないかということです。

 

 さて、三つ目の催しは、8月2日に白鳥庭園で行われた「新感覚日本文化講演会 SEIUTEI ー 怪談の夕べ ー 」です。

会場となったのは、池に囲まれた茶室「清羽亭 立礼席」。薄暗くなり始めた頃に会場へ通され、一服のお茶をいただきました。そして、この会が始まる前に、前述の渡辺住職による施餓鬼供養が行われました。これは、集まった聴衆に悪い霊がとり憑くことがないようにという、主催者の配慮だそうです。

 一本の蝋燭の明かりが燈る中で、朗読家の紫堂恵さんによる朗読と、あいち妖怪保存会代表の島田尚幸さんとの対談が行われました。

 内容は、折口信夫、泉鏡花の作品の朗読と、そこに見られる死生観についての対談。そして、神話の世界に遡り、古事記のイザナキが妹のイザナミを追って黄泉の世界へ行き、逃げ帰ってきた場面の朗読などのほか、熱田に関係するところでは、ヤマトタケルのこと、裁断橋のことなど大変多岐にわたりました。

 霊を呼び込むような話ではなく、幽霊が何故現れるのか、人は何故それを見てしまうのかなど哲学的・思想的な内容で、大変興味深いものでした。
白鳥庭園の茶室「清羽亭」の画像

白鳥庭園の茶室「清羽亭」

「怪談の夕べ」の様子

白鳥庭園で行われた「怪談の夕べ」の様子

怪談で有名なものは、ほとんど関東のほうにあるようですが、調べてみたところ、名古屋にもいくつか怖い話が伝承されている場所があります。市内では、東区の尼ヶ坂とか、古戦場のある桶狭間といったところは有名なところです。具体的な建物の名前もいくつかあげることができますが、ここでは触れないでおきます。

熱田区は歴史が古いところで、そういう話はたくさんありそうなのですが、幸か不幸かあまり聞いたことはありません。でも、東海道随一の宿場町「宮宿」には、東西から多くの旅人が集まり、暑い夏にはそれぞれの地方の怪談話が花を咲かせていたのではないかと想像できます。

 

 今回の一連の企画を通して感じたのは、怪談とか妖怪の話は、科学では解明できない人の心の深い部分に関わるもので、これらは古くから語り継がれた伝統的な文化の一分野を形成できるものだということです。

 そして、一番心に残ったのは、「忘れられない、忘れてはいけない出来事を、さも何もなかったことのように忘れ去ってしまうことが、一番怖い話です。」という渡辺住職の言葉でした。

 

 

 

平成26年8月19日  熱田区長  宮木哲也

平成26年7月

 交流を通して伝える地域の歴史の大切さ・・・裁断橋の物語が取り持つ縁

 

 

 去る6月13日、丹羽郡大口町の堀尾跡公園で行われた、「大口南小学校・白鳥小学校の姉妹校交歓会」に出席しました。

 この行事は、熱田区の白鳥学区内にかつて架けられていた裁断橋の物語が縁で、1966年(昭和41年)に始まった2校の交流事業で、今回で49回目という長い歴史があります。両校の5年生を中心に、PTA,地元関係者も加わり、一年ごとに双方を行き来して、交流を深めているもので、今回は大口町が開催地ということで、名古屋から白鳥小学校の児童、関係者がバスを仕立てて訪問しました。今回参加した児童の中には、お父さん、お母さんも子供の頃参加したという人もあるほど、それぞれの地域に根付いた伝統的な行事となっています。

 今回は、両校の児童200人ほどに教員、PTA、来賓合わせて出席者が250人を超える大きな規模のイベントです。最初に行われた式典では、大口町の鈴木町長さんと私からのあいさつの後、毎年恒例の両校の児童による「裁断橋擬宝珠銘文」の暗唱が行われました。これが、息が合ってピッタリと揃っていることには、ちょっと感動を覚えます。

 そして式典の後は、両校の5年生が混成のグループに分かれて、昼食をはさんで公園散策するなど、相互の友好を深めました。

 

大口南小学校と白鳥小学校の交歓会の様子の画像

大口南小学校と白鳥小学校の交歓会の様子

 さて、そもそも何故大口町の小学校との交流が行われているか説明を要しますが、そのためには、先ず裁断橋と堀尾金助の母の物語について語らなければなりません。

 裁断橋は、かつて熱田神宮の東側を流れていた精進川に架けられていた橋で、位置としては、現在の熱田区伝馬町二丁目の旧東海道の筋にありました。1509年の「熱田講式」に裁断橋の名称が初めてみられ、1528年から31年の「熱田亨禄古図」には裁断橋を人馬が渡る情景が絵図に描かれています。江戸時代には、東海道随一の宿場町、宮の宿の東のはずれにあって、東海道を行き交う旅人が、必ず渡った重要な橋です。当時の賑やかな様子は、尾張名所図会にも描かれています。

古地図に記された裁断橋の位置(熱田歴史資料室蔵)

古地図に記された裁断橋の位置(名古屋史要 熱田区地図(熱田歴史資料室蔵))

古地図に記された裁断橋の位置(熱田歴史資料室蔵)

古地図に記された裁断橋の位置(名古屋史要 熱田区地図(熱田歴史資料室蔵))

尾張名所図会の「姥堂・裁断橋」(名古屋都市センター提供)の画像

尾張名所図会の「姥堂・裁断橋」(名古屋都市センター提供)

 堀尾金助は、戦国時代に活躍し、最終的には出雲隠岐24万石を所領とする松江城主となる武将、堀尾吉晴の一族で、吉晴の年の離れた従弟とされていますが、吉晴の長男だったという説もあって出自が定かではない人物です。

 

 堀尾吉晴は、若き日の木下籐吉郎に仕え、数々の戦功があり、中でも明智光秀との山崎合戦では秀吉軍の先鋒として天王山で殊勲をたてるなどの論功により、若狭高浜城主に封じられ、その後、近江坂本2万石、佐和山4万石と順調に出世し、天正18年(1590年)の北条氏政の小田原城攻めでは、山中城を陥し、同年、浜松12万石の城主に封じられ、秀吉直系の有力大名となりました。

 秀吉没後は、徳川家康を助け、1600年の関が原の合戦後は、出雲隠岐2カ国24万石の領主となり、松江城を築城しました。

 

 金助は18歳の年に、小田原攻めで尾張の堀尾一族の一員として吉晴の軍勢に加わり、母に見送られて出陣しましたが、戦地で病に斃れ、帰らぬ人となりました。

 思わぬ訃報に接した母は、嘆き悲しみ、「功名もなく若くして死んでいった息子の不運と、母としての哀惜の情を、せめて多くの人に記憶してもらいたい」と考え、老朽化していた裁断橋を架け替えることとし、金助の死後一年後に、その事業を完成させました。

 しかしその後年を経て、金助の名も母のことも旅人の話題になることもなくなり、世の中から忘れ去られる淋しさに耐え切れず、金助の三十三回忌に合わせて再度の架け替えをすることとし、その際、擬宝珠に事の由を刻み込むこととしました。

 これが、堀尾金助と裁断橋の物語のあらましです。この話は、学校図書(株)が昭和55年に発刊した小学校5年生の国語の教科書に「悲願の橋」という題名で収載され、愛知県内の小学校で授業に使われていますので、ご存知の方も多いのではないかと思います。
裁断橋の擬宝珠の下の石柱(堀尾跡公園内)の画像

裁断橋の擬宝珠の下の石柱(堀尾跡公園内)

 また、2度目の架け替えの際に擬宝珠に刻まれた銘文のうち、ひらがなで記された「てんしやう十八ねん二月十八日にをだはらへの御ちんほりをきん助と申十八になりたる・・・」で始まる文章は、日本女性三名文のひとつに数えられる有名なものです。

 前述の交歓会の式典の中で両校の児童が声を揃えて暗唱したのは、この文章です。

 そして、この文章が刻まれた擬宝珠の実物は、名古屋市博物館に所蔵され、常設展示室で観る事ができます。来館の機会があれば是非、400年前の実物をご覧いただきたいと思います。

 

移転する前に撮影された裁断橋の擬宝珠の画像(名古屋都市センター提供)

移転する前に撮影された裁断橋の擬宝珠(名古屋都市センター提供)

 堀尾吉晴は、金助の菩提を弔うために京都の妙心寺に春光院を建立しました。そこには、吉晴夫妻と金助の木像が安置されています。このことも金助が吉晴の長男であったという説に結びついていると思われます。しかしながら、小田原攻めの頃は、吉晴は佐和山城主であり、そこから出陣しているのに、金助が母に見送られて尾張の大口から出陣したというのも辻褄があいません。そこで、金助は16歳のとき吉晴の養子になったという説もささやかれています。歴史の面白いところはこういうところで、どこかで新たな信頼性の高い資料が発見されれば、白黒はっきりするかもしれませんので、詮索はここまでにしておきます。

 

 さて、裁断橋はその後どうなったのかですが、明治37年(1904年)の最後の架け替えまでの間、何度か架け替え、修復が行われています。そして、大正15年(1926年)新堀川の開削に合わせて精進川が埋め立てられた際、橋は取り壊され、同所に擬宝珠だけが残されました。

 その後、戦災により焼失した姥堂の再建に合わせて、その敷地内に規模を3分の1にして裁断橋は復元されました。

 しかし現在は、その姥堂も鉄筋コンクリート造のビルに建て替えられ、裁断橋の歴史を物語るものは、玄関の前に、さらに小さい橋があるだけです。

 

現在の姥堂と裁断橋の画像

現在の姥堂と裁断橋

 今回、大口町を訪れるにあたって楽しみにしていたのは、堀尾跡公園に復元された裁断橋をみることができるということです。

 これは、大口町が「慈愛と歴史をみつめる舞台づくり事業」として平成8年に完成させた公園事業の一環として、尾張名所図会を参考に復元した裁断橋を五条川に架けたもので、長さ25m、幅5mで実際に人が渡ることができる橋です。そして、4つの擬宝珠には、名古屋市が保存しているすべての擬宝珠が復元されています。また、橋の正面には、姥堂を模した木造の門も建設されています。

 現地で実際に見て渡った裁断橋は、全体のデザインから細部の造作にいたるまで、想像以上にすばらしく、川の景観に上手く馴染んでいる様は、あたかも昔からずっとここに存在していたかのようです。

 この、橋の周辺、五条川の両側には、立派な桜並木があって、お花見の名所として春は町民の憩いの場所となるそうです。
五条川に架かる復元された裁断橋の画像

五条川に架かる復元された裁断橋

姥堂を模した門の画像

姥堂を模した門

 堀尾跡公園に隣接する大口町歴史民俗資料館には、堀尾一族に関する資料が数多く展示されています。また、堀尾史蹟顕彰会という組織があり、供養祭や講演会を開催するなどの活動に加えて、堀尾吉晴の縁により、松江市との交流事業も行っているそうです。お聞きしたところによると、この会は会員数が千人ほどという大組織です。

 このことから、大口町の皆さんにとって、町の歴史のなかで堀尾一族の存在がいかに重要であるか、そして町民が郷土の誇りとして大切にしているかがよく分かります。そして、小学生の頃に裁断橋を通じた交流事業に参加することが、郷土の歴史の大切さを学ぶ、よいきっかけになっていると感じます。

 

 

 来年は、記念すべき50回目の交歓会が熱田の白鳥小学校で行われることになります。是非、この交流事業を今後もずっと続けていただきたいと思います。

 

 

 

  平成26年7月18日  熱田区長  宮木哲也

 

平成26年6月

熱田にアニメキャラが溢れる日が来る?・・・プロジェクト758の始動

 

 

突然ですが、プロジェクト758をご存知ですか。“758”は「ナゴヤ」ではなく、「ナナゴーハチ」といいます。

これは、「学生視点による地域の史跡・施設、名物などの魅力を、プロのイラストレーターやプロの声優の力を借りてアニメキャラクターを制作、ハイレベルで見える化し、新しいメディアを通じて幅広く情報発信する。」事業です。

以前この「区長の部屋」でもご紹介した、名古屋学院大学と名古屋市の地域連携事業「地(知)の拠点整備事業」の企画の一つとして、商学部の伊藤昭浩先生のゼミ生を中心に取り組んでいるもので、大学教育と地域、行政(現時点では熱田区)とが連携した全く新しいタイプの地域活性化策です。

 

具体的には、先ず学生が地域の魅力を調査し、彼らのアイディアで、それをイメージしたキャラクターの素案を作成。インターネット放送を通じで視聴者参加によりキャラクターの原案を完成させる。さらにその原案をプロのイラストレーターが最終的に本格的なレベルのものに作り上げる。そして、そのキャラクター1体ずつにプロの声優を配してそれぞれに特徴的な「声」をあてることで、一気に動画に対応できるレベルまでもって行くという一連のプロセスをたどります。

 

去る4月30日にこのプロジェクトが、本格始動しました。先ず、事前に制作されていた3体のキャラクターの正式公表と、インターネットで配信されるニコニコ生放送によるプロジェクト758の紹介と、学生・視聴者参加による4体目のキャラクター制作が行われました。

第一弾として先行して制作されたキャラクターは、白鳥古墳をモチーフとした「陵(みささぎ)やまと」、白鳥庭園の「白鳥しおり」、名古屋国際会議場の「白鳥ユリ」の3体で、いずれも熱田区内の魅力スポットです。それぞれ特徴があって、可愛い女の子たちです。

陵(みささぎ)やまと(白鳥古墳)の画像

陵(みささぎ)やまと(白鳥古墳)

白鳥しおり(白鳥庭園)の画像

白鳥しおり(白鳥庭園)

白鳥ユリ(名古屋国際会議場)の画像

白鳥ユリ(名古屋国際会議場)

これら3体については、ティザー動画といって、「4月30日に何かが始まる」といった予告的なものが、1週間ほど前から動画サイトにアップされていて、一部のアニメファンの間で話題になっていました。その間、動画再生回数の数字が数百、数千と、どんどん増えていくことは、驚きでした。

 

生放送は、教室にカメラ、照明などの機材持ち込みスタジオ風にセットして、すべて学生の手作りで行われました。そして当日のメインゲストは声優の洲崎綾さん。テレビや映画のアニメで活躍されている方です。

この日がプロジェクト始動の初日ということで、名古屋学院大学の木船学長に次いで、地元自治体を代表して私から激励のご挨拶をさせていただきました。さらに私は、ゲストの洲崎さんに、その場で「ひつまぶし」を食べていただき、その食べ方を説明しつつ、他の名古屋名物の紹介もさせていただきました。なぜ、「ひつまぶし」かと申しますと、4体目のキャラクターのテーマが熱田名物の「ひつまぶし」だったからです。

 

その後、洲崎さんを中心に十名ほどの学生とのやり取りや、視聴者からのコメントなどを反映させて、「ひつまぶし」のキャラクター「莱(あかざ)まひつ」の原案が出来上がりました。莱(あかざ)は、蓬莱からとったそうで、命名にも苦労の跡と若者の感性が感じられます。

4月30日のニコニコ生放送の様子の画像

4月30日のニコニコ生放送の様子

莱(あかざ)まひつのラフスケッチの画像

莱(あかざ)まひつ のラフスケッチ

莱(あかざ)まひつの完成画の画像

莱(あかざ)まひつの完成画

この日の生放送は、視聴者が約12,500人、寄せられたコメントが20,000件もありました。先行のティザー動画以外には特にPRもせず、マスコミにも取り上げられていなかったにもかかわらず、これだけ大きな反響があったのは、やはり動画サイトの威力ということでしょうか。

 

5月30日には、第3回の生放送に出演する声優の長縄まりあさんと名古屋学院大学の伊藤先生始め、このプロジェクトに携わる学生さんと一緒に河村市長を表敬訪問しました。長縄さんは、「陵やまと」を担当する声優で、まだ18歳の新人声優です。彼女の特徴ある声に河村市長は、ちょっと驚かれたようですが、「とにかく、名古屋を面白れー街にしてちょうよ!」と励ましの言葉をいただきました。

河村市長を表敬訪問した時の写真

河村市長を表敬訪問

このプロジェクトでは、今後さらに熱田の地域資源をテーマとしたキャラクターを制作し、今年度中に12体まで増やす予定で、伊藤先生によると、最終的には48体を目指すそうです。そうなると、熱田の街にアニメキャラが溢れるのでは、と想像してしまいます。また、これらのキャラクターを主人公とした動画や、名古屋・熱田を紹介する4コマ漫画などを作り、ネットで公開するなど、複数のチャンネルで情報発信することになっています

さらに、キャラクターだけでなく、区内の地域資源を、最近話題の高画質映像の4Kを活用して映像アーカイブの発信も行っていく予定です。

 

このようなアニメキャラクターを活用した地域振興の先行例としては、知多半島の各市町ごとにご当地キャラクターを制作し、声優も起用している「知多娘。」が有名です。これは、NPO法人「エンドゴール」が2009年にニートの就職支援事業のPRキャラクターを作ったことに端を発し、今では国内だけでなく広くアジアにも情報発信しています。

また、愛知県は、アニメやコスプレなどのポップカルチャーをリニモ沿線の活性化に活かそうという目的で「愛知ぽぷかる聖地化計画」を2010年から進めています。これも地元の大学との連携によるという点でプロジェクト758と共通点があります。

 

プロジェクト758は、始まったばかりで、これをどう活用していくのか、また、どこまで広がっていくのか、まだまだ未知数のところがありますが、これまで地域の歴史や文化にあまり縁がなかった若者が、このプロジェクトを通じて、自分たちで調査・研究し、議論を重ねながらひとつの形をつくりあげることに大きな意義があると思います。

また、情報発信という点でも、従来の紙ベースや、一般放送のマスメディアとは異なる次元の情報発信ツールの活用は、全国の若者をターゲットに、地域の魅力を一斉に伝え、関心を持ってもらうことができる、同時性、拡散性といったものに魅力を感じます。

 

このプロジェクトにより、名古屋・熱田の魅力を全国の若者に知ってもらうことはもちろん、いずれ「白鳥しおり」のファンが白鳥庭園を訪れたり、「陵やまと」のファンが古墳時代の熱田の歴史に興味を持って勉強したり、といった現象が起きることを期待しています。

 

 

※   プロジェクト758のホームページアドレス  www.p758.jp

 

 

 

平成26年6月25日  熱田区長  宮木哲也

平成26年5月

図会(ずえ)を活かしたまちづくり・・・名所図会は情報の宝庫(その2)

 

 前回(4月)は、3月19日開催のフォーラム「図会を活かしたまちづくり」の前半の山本祐子さんのお話を中心に尾張名所図会の特徴などについて述べましたが、今回はその続編です。     

 

 フォーラムの後半、都市計画家・建築家の尾関利勝さんの講演の内容を少し紹介します。

 先ず、まちづくりと歴史の関係について、「なぜ、今、まちづくりに歴史か」という問いに対し、「歴史は地域のアイデンティティであり、人々の誇りである。社会の成熟とともに地域の個性、独自性が求められるという時代背景のもと、地域独自の歴史が重要である」と、指摘されました。

 そこで尾関さんは、フォーラムのテーマでもある「尾張名所図会」が、江戸後期から明治初年の尾張の姿を伝える貴重な記録であることに着目し、そこに描かれた場所を、例えば「熱田と宮の渡し」、「堀川と日置橋」、「白壁・長久寺」といったコースを設定し、地図と図会を片手に、現在の風景と比較しながら6年間にわたり60回歩かれたそうです。

 テレビ番組でも、昔の絵や写真をもとに、現在のその場所を探し当てるというものがありますが、普段何気なく見ている風景が、昔はどうだったのか、それぞれに歴史があるということを感じるだけで、地域に誇りと愛着が湧いてくるのではないでしょうか。
尾張名所図会「熱田の浜の夕上り魚市」の画像(名古屋都市センター提供)

尾張名所図会「熱田の浜の夕上り魚市」(名古屋都市センター提供)

 尾関さんからは、これまでの体験を踏まえて、熱田の歴史を生かしたまちづくりについて3つの提言をいただきました。

 その一つ目が「熱田の歴史の物語化・・見える化」です。熱田の歴史物語を再構築して、誰にでも分かりやすく見せること。そのために熱田神宮を中心とした動線、ルートを再構築した「熱田巡りのみちづくり」を進めるというものです。

 二つ目は、「熱田の歴史絵本づくり」です。こどもからお年寄りまで、誰にでも楽しめる歴史絵本を、区民参加でつくってはどうか、という提案です。熱田独自のキャラクターを登場させても面白いのではないでしょうか。

 三つ目は、「熱田みち・まち・名所づくり」です。熱田は、東海道、佐屋街道などの街道が通る、交通の要衝でした。七里の渡しも、海路とはいえ街道の一部として多くの人やもの、情報が流通しました。そういう「みち」に着目した「街道巡り」がひとつ。また、熱田神宮周辺と、熱田区を東西南北4つのゾーンにわけて散策できる「界隈まち巡り」。そして、熱田の新たな名所を市民が選ぶ「熱田新八景」です。名所図会に描かれた、かつての名所、神社仏閣とも絡ませるのも一案です。

 街道については、熱田区としても以前から「街道つながり事業」として、街道宿場市や街道をテーマとする講演会なども行っています。

 

 今回のフォーラムの参加者は、区役所主催のその他の催しとは異なり、区外(市外を含む)の方が半数以上と、かなり広範囲から、熱心な歴史ファンに集まっていただいたようです。そして、アンケート結果によると、ほとんどの方に満足していただいたと言えます。「もっと時間をとってほしかった。」とか「こういうフォーラムをもっと開催して若い人たちにも熱田の良さを伝えてほしい」という意見もいただきました。

 熱田の魅力を、広く発信するという点では、このフォーラムはいい企画だったと自画自賛しています。

 

 さて、ではこれを熱田のまちづくりにどう生かしていくのか。

名所図会に描かれた場所が、現在の何処で、どんな状態に変化しているか。実際に現地に行ってみることから始めるといいと思います。

 ひとつの例として、去る3月23日に行われた「ぐるりんウォーキング」では、断夫山古墳がコースに組み込まれていて、普段は登れないところまで参加者が行くことができました。尾張名所図会には、ここから海を眺めている絵がありますが、今は、海岸線が遠くなったことと、古墳に木が生い茂っているため、海を見ることはできませんが、その場に立ってみて、江戸時代末期の人たちは、そういう風景を楽しんだという歴史的事実を想像することができました。

尾張名所図会「だん峯山より汐干を望む」の画像(名古屋都市センター提供)

尾張名所図会「だん峯山より汐干を望む」(名古屋都市センター提供)

 また、描かれた風俗がどのように伝えられてきたか。体験してみるのも面白いのではないでしょうか。これも尾張名所図会に、「藤団子(とうだんご)」を売る店が描かれています。藤団子は十団子ともいい、昔、熱田神宮の大宮司が尾張氏から藤原氏に改姓した祝いに作ったのが始まりとされています。それが後に熱田神宮参詣のお土産として売られるようになりました。赤、青、紫など色鮮やかに染められた藤団子は、魔除け災難除けのお守りとしても買い求められていました。

 先日、その藤団子を初めて食べる機会がありました。糸で結ばれた色とりどりの小粒の団子は、大変甘く、団子というよりは、やわらかめの砂糖菓子という感じで、抹茶に合うように思います。かつての名古屋名物のお菓子が、今はあまり知られていないのが残念です。

 尾張名所図会には、他にも様々な風俗・習慣などを見つけることができます。それらを調べて、体験してみるという企画も面白いでしょう。

尾張名所図会「藤団子」の画像

尾張名所図会「藤団子」

 さてここで、尾張名所図会に関して、名古屋市(いずれも住宅都市局所管)が取り組んでいる施策をご紹介します。

 ひとつは、図会に描かれた場所にその絵と解説の看板を設置する事業で、すでに2箇所に設置されています。一箇所は先ほどの断夫山古墳。もう一箇所は「夜寒の里」の絵で、旗屋小学校の北側道路に面して設置されています。これが増えることによって、市民の皆さんに地域の歴史に関心を持っていただく一助になるのではないか、また、今後区内各所に設置されると街歩きのコースにさらに魅力が加わるものと期待しております。

 もうひとつの事業は、かつての熱田港の魚市場の賑わいが図会に描かれていますが、その場所にあった市場の建物の庇部分を解体保存して、モニュメントとして残そうという事業です。これは、今年度中に、大瀬子公園内に設置される予定です。

 今後は、尾関さんからいただいた提言などを参考にして、市民参加、区民参加で何ができるかを検討し、できることから実行に移してまいりたいと考えています。
旗屋小学校に設置された尾張名所図会「夜寒里古覧」の看板の画像

旗屋小学校に設置された尾張名所図会「夜寒里古覧」の看板

 最後になりますが、私が、ここまで尾張名所図会について勉強し、調べてみて興味をいだいたのが、尾張名所図会の大半の絵を描いた、小田切春江(しゅんこう)の存在です。彼は、尾張藩士であり、画法については高力種信(猿猴庵)に師事した画家でもあります。ライフワークともいえる尾張名所図会の他にも多くの作品を残しており、中には、天保4年(1833年)に熱田新田で起こった海獺(かいだつ)騒動を記録した珍しい絵もあります。これは、新田の堤が切れて海水が入ってきたときに一頭の海獺(アザラシだったらしい)が迷い込んだことから、大勢の見物人が押しかけて大騒ぎになったことの顛末を描いたものです。とても好奇心旺盛な人物だったことが類推できます。

 彼は、明治維新後も活躍し、県の依頼で各地の地図を作製したり、江戸時代の飢饉の実態を紹介した「凶荒図録」の監修なども行っています。

 尾張名所図会出版の一番の功労者であり、この地方の様々な風景、風俗を観察して克明に描いた小田切春江という人物について、もう少し掘り下げて調べてみようかと思っています。

 

 平成26年5月12日  熱田区長  宮木哲也

平成26年4月

図会(ずえ)を活かしたまちづくり・・・名所図会は情報の宝庫(その1)

 去る3月19日、熱田区役所講堂において、熱田の歴史文化を学び、まちづくりにつなぐためのフォーラム「図会を活かしたまちづくり」を開催しました。

 この会には、区内外から歴史まちづくりに関心のある約140名の市民の皆さんが参加され、講演を熱心に聴講されました。

 フォーラムは、2つのPR映像と2つの講演から構成されており、前半は、名古屋市博物館学芸員の山本祐子さんによる「『尾張名所図会』に見る熱田の風俗」、後半は、都市計画家・建築家の尾関利勝さんによる「まちづくりへの提言、熱田 歴史を生かすまちづくり」と題して、それぞれ興味深いお話を伺いました。

フォーラムの写真

フォーラムの様子

 「名所図会」というのは、江戸時代後期から明治にかけて各地で作られた、名所・旧跡を絵入りで紹介した書物で、その数は今日わかっているものだけで30近くあるといわれています。

 最初に出版されたのは、京都市中とその周辺を対象とした「都名所図会」(全6巻)です。安永9年(1780年)に出版されて以来非常によく売れたこともあってか、各地でもそれぞれの名所図会が作られるようになりました。

 代表的なのものとして、「江戸名所図会」(全20巻)、「久波奈名所図会」(全3巻)、「紀伊国名所図会」(全23巻)などがあります。中には編纂はされたものの出版されなかったものもあります。やはり出版元にとっては、売れる見込みがないものは商売にならないということでしょうか。

 「尾張名所図会」は、幸い出版元の努力もあって、前編7巻が天保15年(1844年)、後編6巻が明治13年(1880年)に出版に至っています。さらに、「尾張名所図会附録」として「小治田之真清水(おわりだのましみず)」5巻が昭和8年(1938年)に出版されています。編纂からすべての出版まで100年近くの歳月がかかっていることからも、その困難さが伝わってきます。

尾張名所図会の画像

尾張名所図会

 「名所図会」の「名所」とは、単なる有名なところでもなく、景色のいい「名勝」でもありません。歌に詠まれた由緒ある土地、歌枕である「名どころ」のことをさしています。ですから、絵の余白にはそれに関する歌や情景を説明する文章が添えられています。

 また、「図会(ずえ)」の「会」は、絵画の「絵」ではなく、「集める」という意味です。ただし、「図絵」というタイトルをつけたものも存在しますので混同、混乱が生じる場合があります。

 例えば、「尾張名所図絵」というものも出版されています。一文字違いで紛らわしいのですが、これは、明治23年(1890年)に出版された新しいタイプの名所案内の書物です。旧来の名所図会とは異なり、「図絵」の方は銅版印刷で一冊に収められており、「名所」の対象としているものは、洋風建築を始めとする大規模な建築物です。完成したばかりの名古屋停車場や、市役所などの庁舎、熱田区に関連するものとしては、熱田港海岸や尾張紡績株式会社の工場などの風景が搭載されています。近代の名古屋の政治・経済に関わるものとしては貴重な書物だと思いますので、これはまた別の機会に紹介したいと思います。

尾張名所図絵の画像

尾張名所図絵

 さて、本題の「尾張名所図会」についてですが、まず、山本さんの講演では、「尾張名所図会」の成立からお話をいただきました。

 この図会の文章は尾張藩士の岡田文園と枇杷島町の青物問屋の主人である野口梅居が執筆し、絵は尾張藩士の小田切春江らが描きました。熱田に関する部分は、前編第3巻、第4巻と「附録」の第2巻に纏められています。 

 それらの中から、熱田の風景を描いた数枚の絵について解説をしていただきました。そのひとつ、「源太夫社の初市」の絵では、行き交う人々の服装や、市で売られている品物など、絵の隅々まで当時の街の様子が詳細に描かれています。絵全体を眺めるだけでなく、一人ひとりの人物とその周辺というレベルに注目して観ると、そこに様々な情報が盛り込まれていることが分かります。

 「姥堂・裁断橋」の絵には、東海道に架かる橋を行き交う旅人や、僧侶、芸人のような姿も見られます。この橋の青銅の擬宝珠には、我が子を思う母の気持ちを歌った有名な碑文が彫られていました。その現物は、現在、名古屋市博物館に保管されています。

尾張名所図会「姥堂・裁断橋」の画像(名古屋都市センター提供)

尾張名所図会「姥堂・裁断橋」(名古屋都市センター提供)

 中でも興味深いのは、「旗屋町松飾」の絵です。「・・・熱田の町々に立る元三の門松は、他に異にして、松より竹の数多く、家毎に立つらねたるさま、あたかも竹林に入るがごとく・・・」という文章が添えられているように、家毎に山から切り出したままのような竹が飾られ、一点透視図の構図にずらりと並ぶ様は、正月の風景としては珍しく、壮観でもあります。このような地域独特の習慣はいつから始まり、いつまで続いたのでしょうか。
尾張名所図会「旗屋町松飾」の画像

尾張名所図会「旗屋町松飾」

 前回も書きましたが、熱田には、熱田百ヶ寺といわれるほど古くからお寺、神社が数多くありましたが、戦災により熱田神宮を始め多くの寺社建築が焼失し、かつての面影がなくなってしまいました。

しかし、幸いにも「尾張名所図会」の挿絵から、江戸時代の建築物、境内地の状況がはっきりと読み取ることができます。例えば、「熱田大宮全図」では、現在とは異なる「尾張造り」の社殿とその配置を見ることができます。

 また、このように当時の風景、風俗を現したものだけでなく、中には、「ヤマトタケルとミヤズヒメ」の物語の一場面や、「楊貴妃の古事」、「信長公出陣」など故事来歴や昔話、人物も対象としており、単なる名所案内にとどまらない面白味があります。

 さて、ここまで名所図会についての概略と、尾張名所図会の特徴などについて述べてきましたが、ずいぶん長くなってしまいましたので、後半の尾関さんの講演以降、それらをまちづくりにどう活かすか、については、次回の「区長の部屋」に続編として述べさせていただきたいと思います。

 

 平成26年4月10日  熱田区長  宮木哲也

平成26年3月

「熱田百ヶ寺」・・・熱田の歴史・文化は奥が深い

 金山駅の南東、徒歩5分ほどのところにビルに囲まれて、観聴寺というお寺があります。

 こちらの住職の坪井英璋さんは長年保護司として更生保護事業に携わってこられ、その功績が認められて昨年、藍綬褒章を受けられました。そのお祝いの会の席で、坪井さんご夫妻から、お寺に鉄地蔵という大変貴重な文化財があるというお話を伺ったことから、是非見せていただこうということで、先日お邪魔しました。

 観聴寺の歴史は古く、開かれたのは江戸初期の元和年間(1615年から24年)とされています。もとは断夫山古墳に隣接した旗屋町、現在の熱田神宮公園内にあったものが、昭和16年に同公園の建設に伴い現在地に移転を命じられ、移転完了後11ヶ月目の昭和20年3月に戦災により全焼してしまったとのことです。

観聴寺の写真

現在の観聴寺

 鉄地蔵(正式には鋳鉄地蔵菩薩立像)は、同じく旗屋にあった地蔵堂に祀られていた3体のうちの2体を受け継いだもので、古いほうの1体には室町時代の1531年に鋳造されたという銘が刻まれています。

 本堂に入ると正面に本尊の十一面観世音菩薩像(昭和63年復元)を挟んで並ぶ2体の鉄地蔵を見ることができます。ほぼ等身大なので、写真で見るより大きいという印象を受けます。特に向かって右側の像は、近くに寄ると、黒光りした像に鋳造時に型枠からはみ出てできた筋が見られ、素朴な手造り感といったものが感じられます。

 この鉄地蔵は「時は、戦国時代、兵火の中に明け暮れ、地獄のドン底に叩き込まれ喘いでいる民衆を救いたい大慈悲心から建てられた」と伝えられています。それが、昭和の大きな戦火を免れて残されているということに、何か因縁めいたものを感じざるを得ません。
鉄地蔵の写真

鉄地蔵

 また、ここ観聴寺の境内にはもうひとつ貴重な文化財があります。それは、月の信仰の表れとして室町時代から江戸時代にかけて作られた月待碑といわれるものです。門をくぐると右手に東屋風の覆堂の下に、高さ70cmほどの石碑が4基並んでいます。そのうち3基が月待碑で、それぞれに碑文が刻まれていますが、風化してよく読み取れません。

 お寺の資料によれば、1630年に建てられた碑には「今宵の一輪は清光を何処となしに満たさん」と刻まれ、これは、月の光が世界の隅々まで照らし、仰ぐ人々の心まで洗い清める光であることを表しているそうです。この月待碑は、民間の信仰の歴史を後世に伝える貴重なもので、全国的にも珍しく、中部地方には、ここの3基の他には1基あるだけです。

月待碑の写真

月待碑

 熱田区には、観聴寺のように古い歴史を有し、文化財的価値をもつ文物を所蔵する寺院が数多くあります。かつて「熱田百ヶ寺」と言われるほどに数が多く、古い記録(「熱田町旧誌」1699年)によると「寺院九十五寺、堂二十寺」とあります。また、歴史的にも古く、名古屋の城下町が出来るもっと以前の、平安、鎌倉、室町時代に創建されたという古いお寺も含まれています。現在カウントすると90ヶ寺を切っていますが、ひとつの地域としては大変高い密度で分布しているといえます。

 ただし、戦災によりその多くが建物や貴重な文物を焼失してしまい、現在はほとんどが戦後の再建によるもので、創建当時の面影が残っていないのがとても残念です。(尾張名所図会に江戸時代末期の風景が描かれている寺もいくつかあります。)

 これら区内に数多く存在する寺院を始め、神社、史跡など歴史・文化を市民に広く知っていただき、さらにそれらを街の魅力資源として情報発信するために、熱田区では「熱田ぐるりんウォーキング」という催しを、平成14年から行っています。

 これは、区内各種団体代表、公募委員などによって構成される「堀川にぎわいづくり専門委員会」が中心となって企画・運営を行っており、春の年中行事として定着してきて、毎年参加されるリピーターも多いと聞いております。

 

今年は、「断夫山古墳と蓬莱伝説の地を歩く」というテーマで、3月23日の日曜日に実施する予定です。企画内容も興味深いものですが、今回は新たに「スマホでまち歩き」と題して、コースを巡りながらスポットごとにスマホで写真を撮影してスタンプ画像をゲットし、スタンプを集めた方には、特製のクリアファイルを差し上げるスタンプラリーも同時に行いますので、若い人たちにも楽しんでいただける催しになると思っています。
熱田ぐるりんマップの写真

熱田ぐるりんマップ

 また、この催しの成果を形にしようということで、堀川にぎわいづくり専門委員会を中心に「熱田ぐるりんマップ」を平成22年に作成(24年改訂)しました。このマップには、熱田神宮を始め、数多くの熱田区内の神社仏閣、史跡を5つのコースに整理して、それぞれの見所を簡単に解説した文章が添えられています。マップというより、ガイドブックといってもいいかもしれません。

 ようやく春めいてきて、歩きやすい季節になってまいりました。桜にはまだ早いかもしれませんが、3月23日の「ぐるりんウォーキング」には私もマップ片手に歩いてみたいと思っています。熱田百ヶ寺のごく一部ではありますが、熱田の歴史・文化の魅力を発見できるいい機会であると期待をしています。皆さんご一緒しませんか。

 

 平成26年3月12日  熱田区長  宮木哲也

平成26年2月

大学と地域・・・・名古屋学院大学の「地(知)の拠点整備事業」への期待  

 去る1月11日、名古屋学院大学白鳥学舎で「地(知)の拠点整備事業」(以下、「COC事業」)キックオフ・フォーラムが開催され、私も出席してご挨拶をさせていただきました。

 このフォーラムでは、同大学の水野晶夫教授から「COC事業への取り組み」についての報告に続いて、テレビアナウンサーの高井一さんによる「地域の宝をまちづくりに生かす ―まちの現場を歩いて― 」と題する基調講演、そして、大学と地域の連携に関するパネルディスカッションが行われました。

 高井さんの講演では、TV番組の企画で東海地方の数多くの街を訪れ、自分の足で見て回り、現地の人から直接話を聞いた経験から、地域の宝とはどんなものか、どこにあるのか、について実例を示しながら語っていただきました。まちづくりに携わる者として、大変参考になる示唆に富んだお話が聞けたと思います。

 続くパネルディスカッションでは、地元行政の立場から、名古屋市の入倉憲二副市長、大学と連携してまちづくりに取り組んでいる地元組織の立場から、杉本義彦さん(四間道・那古野界隈まちづくり協議会)と伊藤紀子さん(日比野商店街振興組合)のお二方、大学政策に携わる文部科学省の松坂浩史さん、そして名古屋学院大学の木船久雄学長がパネリストとなり、同大の井澤知旦教授をコーディネーターとして、活発な議論が繰り広げられました。

 入倉副市長からは、名古屋市における大学連携によるまちづくりの取り組みの一例として、仮想の学生キャンパス「ナゴ校」の紹介と、行政としてCOC事業に期待することなどのコメントがありました。杉本さん、伊藤さんからは、それぞれの地域におけるまちづくりの取り組みの状況の説明があり、特に大学との連携のメリットを強調されました。

 松坂さんからは、COC事業の審査の過程でどういうところが評価されて名古屋学院大学が選定されたのか、そして今後何を期待しているかといった点について、補助する国の立場からコメントがありました。そして、木船学長からは、大学として地域の期待に応えるために、今後COC事業にどう取り組むか、いわゆる決意表明といった発言がありました。
テレビアナウンサー高井一さんの基調講演の様子

テレビアナウンサー 高井 一さんの基調講演

パネルディスカッションの様子

パネルディスカッション

 さて、「地(知)の拠点整備事業」(COC事業)とは何か、ここで簡単に説明をします。

 この事業は、国が自治体と連携し、全学的に地域を志向した教育・研究・地域貢献を進める大学を支援することで、課題解決に資する様々な人材や情報・技術が集まる、地域コミュニティの中核的存在としての大学の機能強化を図ることを目的としています。選定されると5年間にわたり国の補助が受けられます。(※ COCは、Center Of Communityの略)

 今年度(2013年度)は全国の大学等から319件の申請があり、選定されたのは52件。この東海3県では、名古屋学院大学の他に岐阜大学と中部大学と3校が選ばれただけという狭き門でした。
 私自身、文部科学省で行われた最終選考の面接審査に、地元自治体の立場で同席させていただいたので、選定の知らせを聞いたときは、本当に嬉しく思いました。

 選定された要因としては、これまですでに瀬戸市と名古屋市で地域連携によるまちづくりの実績があること、そのための地域連携センターという組織をすでに学内に設置していること、そして、地域連携に関する講座に全学生教員が参加できるようカリキュラムで担保していることなどがあげられます。

 このCOC事業で、同大学が取り組もうとしているテーマは、3つあります。

 ひとつは、地域の活力を牽引する「地域商業まちづくり」、2点目が、歴史を継承し観光を育む「歴史観光まちづくり」、そして3点目が、暮らしの基礎を底上げする「減災福祉まちづくり」です。いずれも、行政としても力をいれて取り組まなくてはならないテーマといえます。
名古屋学院大学白鳥学舎の画像

名古屋学院大学白鳥学舎

 同大学の地域連携の実績としては、先ず平成13年からスタートした、瀬戸市の銀座通り商店街のシャッター通りを賑わいのある商店街に甦らせた活性化プロジェクトがあげられます。学生が運営するまちづくりカフェ「マイルポスト」を中心としての「商学連携プロジェクト」は全国的にも高く評価されました。そしてこの手法は、平成19年の名古屋キャンパス開設後の名古屋市との連携協定に基づき、日比野商店街の活性化プロジェクトでも応用されています。

 名古屋市内では、衰退する商店街が多い中、日比野商店街は加盟商店数が増加しつつあり、賑わいを取り戻してきました。「マイルポスト」の名古屋での再オープンと「みつばちプロジェクト」を始め、様々な企画に同大学が関わっています。また、「ひびの小町」と命名された商店街の女性部には、女子学生も参加して商店街の活性化について語りあっているそうです。そういう取り組みが評価され、昨年末、日比野商店街は経済産業省の「がんばる商店街30選」に選ばれました。全国数多くある商店街のうちの30箇所ですから、これは大変名誉なことです。今後さらなる発展・飛躍を期待したいものです。
学生が運営するカフェ「マイルポスト(道標という意味)」の様子

学生が運営するカフェ「マイルポスト(道標という意味)」

 区役所との関係では、区内唯一の大学である名古屋学院大学とは、これまでも様々な分野で連携・協力をしてまいりました。区民が自主的なまちづくりを進めるための「まちづくり協議会」への参画や、その中で具体的活動を行う「あったかひとまちづくり専門委員会」では、同大学の地域連携センター長の家本博一教授に取りまとめ役を務めていただいています。

 最近の話題としては、昨年9月に実施した大規模な防災訓練では、同大学と協力してツイッターによる防災情報の受発信訓練を行ったり、11月に開催した「あったか・あつた魅力発見市」というイベントの企画にも参画していただきました。ここでは、スマートフォンを活用した歴史文化案内システムやセグウェイによる観光案内の実験など、大学ならではの先進的な取り組みを実施していただきました。

 区役所以外にも、白鳥庭園や国際会議場など区内の大規模施設の管理者とも連携・協力してイベントの企画・運営にも積極的に参加しています。

また、区民まつりをはじめ、防災訓練、地域の清掃活動など様々な分野で学生さんたちにボランティアとして参加、活躍していただいています。

 このように、熱田区のまちづくり、活性化に、名古屋学院大学はパートナーとして欠かせない存在となってきているといっても過言ではないでしょう。

 かつて、「学生街」という言葉がありました。「学生街の喫茶店」という歌も流行ったものですが、今はあまり使われなくなりました。大学がある街には、下宿屋や喫茶店、古本屋、マージャン屋、安い居酒屋などが集積していて、昼も夜も若者がうろうろしていて、なんとなく活気があるという雰囲気を醸し出していました。しかし、その頃は、大学は「象牙の塔」と呼ばれるように、大学や学生が地域へ貢献するとか地域社会と関わりをもつ、という発想は社会学などの一部の分野を除いて、あまりなかったように思います。

 昨今、文部科学省の旗振りもあって、全国の大学が自らの存立基盤である地域に目を向け、地域貢献、地域連携を重視するようになってまいりました。これは、地方自治体としては大変ありがたい状況だと思います。
名古屋学院大学木船久雄学長と

名古屋学院大学 木船久雄学長と(右)

行政の立場で大学になにを期待するか、ということが今回のキックオフ・フォーラムでも話題になりました。

 現在、名古屋市内には、大学・短大の学生が約9万9千人在籍しています。これは、政令指定都市の中(東京は含みません)で、京都に次ぐ2番目の数字です。大学の都心回帰により、今後もこの数字は増加する見込みです。意外ですが、名古屋は数の上では学生タウンともいえるのです。

都市の活性化という観点からは、名古屋が魅力ある活力ある都市であるためには、元気な若者が集まってくるようにしなければならない。一方、若者が集まるためには、都市そのものが魅力的でなければならないという「ニワトリと卵」の関係にあります。そのため名古屋市は、市内に集まる学生を貴重な人的資源として捉え、彼らが自由に活動できるステージを準備することが求められていると考えます。

 地域には防災、福祉、環境、まちづくりなど様々な課題が山積しています。それらを解決するために「知」の宝庫である大学が身近にあって、協力していただけるというのは、地元自治体としては大変心強く、ありがたいことだと思います。

 もちろん、大学の本来の使命は教育と研究でありますが、その成果を実践を通して地域で活かしていただくことも重要であろうかと思います。自治体としては、そのためのフィールドを提供し、地域・企業・大学を結びつけるコーディネーターの役割を担ってまいりたいと考えています。

 名古屋学院大学のCOC事業は、始まったばかりです。これまでの実績と地域とのつながりを活かして、これまで以上に大学の持つ「知」を地域へ還元していただくよう期待しています。

 

 平成26年2月3日  熱田区長  宮木哲也

平成26年1月

あけましておめでとうございます。

区民の皆さまにおかれましては、健やかに新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。

今年最初の「区長の部屋」は、先日、熱田区在住の講談師、古池鱗林(りんりん)さんをお招きして対談をさせていただきました。新年に相応しい明るく元気なゲストです。大変興味深いお話をたくさん伺うことができましたので、

その概要を掲載します。

宮木区長と古池鱗林さんの顔写真

講談師 古池鱗林さん(左)

 

宮木:鱗林さんは、昨年11月に開催された東海道シンポジウム宮宿大会では、MCとして活躍されましたが、その行事についての印象をお聞かせください。

古池:熱田に住んでいるのですが、このような催しがあるとは知りませんでした。この行事では色々な方とお知り合いになることができ、事前打ち合わせが全くできないなど、かなり過酷な現場でしたが、熱田の魅力を再確認できた催しでした。

宮木:私もシンポジウムのパネリストとして出席しましたが、大変勉強になりました。また、この大会を主催した実行委員会では、熱田の老舗の若い方が運営に参加して頑張られたと聞いています。熱田に関する催しに若い方が積極的に参加されたことは本当に良かったと思っています。

古池:そうですね。この行事は、東海道の宿を持つ自治体で持ち回りで行っているようなので、ぜひ、ほかの都市で開催される大会も見てみたいですね。

宮木:名古屋おもてなし武将隊の三英傑による演舞に、南山大学教授の安田文吉先生による講演そして鱗林さんの講談と盛りだくさんのプログラムで、楽しみながら熱田のことを他都市の人に知ってもらう良い企画だったと思います。
宮宿大会の様子

東海道シンポジウム宮宿大会の様子

宮木:さて、講談のことをお聞きしたいのですが、始められたきっかけはなんですか。

古池:私はもともと、ラジオ番組のレポーターをやっておりました。その後、「愛・地球博」のEXPOドームで司会などを担当させていただき、その際に行われた話芸イベントに感銘を受け、その凄さに圧倒されました。まず水谷ミミ(水谷風鱗)さんをご紹介いただき、そのつながりで現在の師匠(旭堂南鱗)を紹介いただきました。初めのうちは、週に3回ほど、大阪に通いましたね。そして3年目に師匠より「鱗」の字をもらい、古池鱗林となりました。

宮木:講談の魅力はどんなところにあるのでしょうか。

古池:やはりリズムの心地よさですかね。あと、教科書に出てくる人物が話の中にでてくる。話の中で輝いているのがいいですね。

「講談師、見てきたような嘘をつく」といいますが、すべてが史実に忠実というわけではないですが、そのような心で聞いていただけるとうれしいです。

宮木:歴史好きの方から「そこは違う」と指摘されたりはしないですか。

古池:たまにあります(笑)。勉強させてもらっています。

宮木:今は何話(席)くらいあるのですか。

古池:私は5席ですね。しかし、なんでも講談にできます。熱田ゆかりの話もおもしろいと思います。例えば裁断橋の話とか。

宮木:堀尾金助の母と裁断橋の話は、講談になりそうですね。裁断橋の縁で白鳥小学校は、大口町の小学校と姉妹校になっているのですが、先日その交流会に出席しました。子どもたちに聞いてもらうといいですね。

宮木:ちなみに講談は何分くらいのものが多いのですか。

古池:古典ものは20分くらい、私が話すオリジナルの名古屋物語は10分くらいですね。

宮木:すべて記憶するのですか。

古池:はい。師匠よりお教えいただく古典ものは、師匠から許しを得るまで、すべてそのまま記憶します。

宮木:すごい記憶力ですね。私は3分のあいさつ文も覚えられません(笑)

古池:記憶は大変ですが、それ以上に楽しいことが多いですね。

古池鱗林さんの画像

講談する古池鱗林さん

宮木:さて、昨年10月から11月に行われた「やっとかめ文化祭」でも鱗林さんはオープニングの司会を始め大活躍でした。大須演芸場の公演はチケットが完売になる反響だったと聞いていますが、ほかの公演はどうだったんですか。

古池:能楽堂の講演はかなり良い内容だったんですが、ちょっと高かったのか、空席がありましたね。

宮木:私はこの時期、毎週行事があったため、この文化祭には参加できなかったのですが、ほかにも講演会やまち歩きなどがあって、大変いい企画でしたよね。

古池:そうですね。やっとかめ文化祭は今回、狂言を全面に出しているのですが、この狂言の起源が、実は尾張ということは、私も今回はじめて知ったんです。3年つづける事業と聞いていますので、今後も関わっていきたいです。

宮木:まち歩きの企画には、区がお世話になっている方も案内人として協力されたそうです。

古池:はい。実は、私もまち歩き企画の中に、たびたび登場させてもらいオリジナル講談「堀川にシャチ有り」というのを披露させていただきました。これは数年前のニュースをもとに、堀川を北上したシャチの正体をおもしろおかしくつづったものです。

宮木:おもしろそうですね。ところで、芸どころ名古屋は、尾張藩主「徳川宗春」の時代に始まったと言われていますが。

古池:そうですね。名古屋は、東西双方の文化に触れる地理的条件からも芸に対する目が肥えているとも言われていますね。

宮木:熱田区には16区で唯一「芸能連盟」という団体がありまして、この団体の協力を得て、毎年、熱田文化小劇場で「芸能オンステージ」という催しを行っています。どんどん出場希望者が増えている催しで、芸どころ名古屋の中心は「芸どころ熱田」ではないかとも考えています。一説には、神宮の神様へ奉納する芸としてはるか昔から芸が発達したと言われているそうです。「どどいつ」も熱田が発祥ですしね。

対談の様子の画像

対談の様子

宮木:では、次に熱田の好きなところを教えてください。

古池:高齢の方が多い。つまり住みやすいということですね。ほかにも、熱田神宮やお菓子、うなぎや堀川など絶景のポイントもありますね。ただ、区民の方は意外に気づいていないと思います。ほどほどの都会感と田舎感がいいですね。あ、あと、六番町あたりにある通称「おもちゃデパート」。これも名所(笑)

宮木:それは、熱田生まれの人でないと分からないローカルな名所ですね(笑)。おもちゃ業界は最近、外資系の進出などがあって厳しい業界。頑張ってほしいです。

古池:あ、あと、怖い人が多い。

宮木:え?

古池:番長(番町)が多いって意味です(笑)

宮木:そういう意味ですか。さすが講談師。

宮木:鱗林さんはどのあたりにお住まいですか。

古池:昔は2番長(町)でしたが、今は出世して1番長(町)になりました(笑)

 

宮木:それでは、熱田の課題はどんなところでしょう。

古池:これはテンコ盛りですが、まず熱田の魅力に区民が気づいてない場合が多いことが一番残念ですね。

宮木:たしかに魅力の要素は多いですね。それを発見してもらおうと昨年11月に「あったか!あつた魅力発見市」を行いました。多くの方が参加いただき、宮の渡し公園ではコスプレイベントも行いました。

古池:若者が新しいことを企画することはいいことですね。

宮木:そうですね。まずは人を集めて、それを伝えてもらうのが大切ですね。

古池:はい。そうですね。

 

宮木:では、最後に今年の抱負をお聞かせください。

古池:「(新しいこと)やるなら、馬(今)でしょう!(笑)」は、冗談で、今まで通り色々なことをコツコツやっていきたいです。また名古屋をテーマにした講談もしていきたいです。講談師は全国で約70人くらいです。この地方では、私を入れて3人だけなので、頑張りたいです。

宮木:3人だけですか。意外に少ないのですね。ぜひ頑張ってください。ほかにもラジオなどでも活躍されていますよね。

古池:はい。ラジオは1番組、持たせていただいています。

宮木:私はいつもラジオで目覚めています。ラジオ放送にはお世話になっています。

古池:では逆に、区長の今年の抱負は。

宮木:やはり区民の安心・安全。アンケートでもタウンミーティングでもこれが一番求められていると思います。やはりこれには力を入れたいと思います。そして、最前線の市民サービスを十分に提供した上で、熱田の魅力を発見・創造し、発信していきたいと思っています。個人的には、「熱田ブランド戦略」といったものが作れたらいいな、と思っています。その際にはぜひ協力してください。

古池:もちろん。なんでもやりますよ!

宮木:期待しています。それでは、鱗林さん、今回はありがとうございました。今後もご活躍を期待しています

平成25年12月

「七里の渡し」乗船記・・・・宮宿から桑名宿へ  

 

 去る11月23日、住宅都市局主催の「七里の渡し体験乗船」に参加しました。航行中の船内で行った「熱田区街道つながり講演会」を熱田区役所が主催した関係での乗船です。

 当日は、午前中は桑名から宮の渡しへの1便、午後はその逆の1便が運行され、私は宮の渡しから出発する午後の便に乗船しました。

 この催しは、広域的な水上交通のネットワーク化による都市の魅力づくりの一環で、熱田と桑名を結ぶ七里の渡しの復活を目指して行われたものです。       

 七里の渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路であり、その距離が七里(27.5km)であったことから、そう名づけられたとされています。この海上ルートは、東海道の宿駅制度が設けられる以前、すでに鎌倉、室町時代から利用されており、古くから東西交通の重要な道でした。

 航路は、外回りと内回りの二通りあったと記録されています。満潮のときは、陸地に近い内回りのルートを、干潮のときは、陸地から遠い外周りのルートを使ったようで、その近いほうの内回りの航路の距離が七里でした。
尾張名所図会「七里渡船着 寝覚里」(名古屋都市センター提供)

宮宿の風景
尾張名所図会「七里渡船着 寝覚里」(名古屋都市センター提供)

東海道道中図(熱田歴史資料室蔵)

七里の渡し
東海道道中図(熱田歴史資料室蔵)

現在の七里の渡し跡(宮宿)の写真

現在の七里の渡し跡(宮宿)の様子

 では、当時どのくらいの時間がかかったか。天候や潮の流れにも左右されますが、順調にいって4時間ほどの船旅だったといわれています。

 現在は、その後の干拓事業や港湾のふ頭整備などにより陸地化が進んだため、当時の外回りのルートよりもさらに沖のほうを航行せざるを得ませんが、エンジン付の船なので、条件が良ければ約2時間半しかかかりません。

 伊勢湾岸道を使えば、車で1時間もかからない距離なので、2時間半という時間は、やはり長いというべきなのでしょうか・・。

 使われた船は、大名が乗る御座船とよばれる豪華なものから、一般庶民が乗る帆掛け舟までいくつかのグレードがあり、船賃は、一般の旅人が35文(17世紀末)を要しましたが、武士はただで乗れました。

 これは、幕府が定めた約360名の船役に対し、船賃をとって人を運ぶことを業とする特権を与えたことに対する見返りだったといわれています。

 また、この舟運を確保するために、船頭、水主の保護策として、1675年に船方新田が与えられました。

 このように七里の渡しは、東海道の重要な航路でしたが、悪天候のために渡航困難な場合とか、船旅を好まない人、船旅に弱い人たちのために、脇街道として位置づけられる佐屋街道を通るもうひとつのルートがありました。宮宿から陸路で佐屋宿へ歩き、そこから川舟で木曽川を三里下って桑名宿へ至るというルートです。こちらのほうは、婦人や子どもが多く通ったことから「姫街道」とも呼ばれています。

催しに使われた船の写真

この催しに使われた船

 解説が長くなってしまいましたが、ここからが当日の乗船記です。

 午後1時ちょうどに、宮の渡しの桟橋から出航した船は、堀川を下り、名古屋港へと向かいました。堀川の両岸には工場が立ち並び、特に熱田区から港区にかけての右岸には、小規模の造船所とそこに係留された船が見られます。

 堀川河口の水門を通り過ぎると、名古屋港に入ります。

 名古屋港はいうまでもなく、わが国の産業を支える国際貿易港ですが、もともとは熱田湊からスタートし、明治40年までは熱田港と呼ばれていました。

 左側に、最新鋭機ボーイング787の主翼をつくる工場がある大江ふ頭、右側に水族館があるガーデンふ頭を見ながら船は進み、出航から45分後に名港トリトンの下をくぐりました。この橋を下から見上げることができるのも船旅ならではです。

 右側には金城ふ頭に停泊中の巨大な自動車運搬船が見えます。ここから、わが国の主要輸出品の自動車が世界に運ばれています。
名古屋港の風景(自動車運搬船)写真

名古屋港の風景(自動車運搬船)

 次に右側に見えてくるのが、飛島ふ頭です。ここには名古屋港一のコンテナ物流の拠点があります。大型コンテナ船に対応して、水深16mと港内で最も深い大水深バースと超大型のガントリークレーンを20基以上備えています。ITを活用してコンテナを自動的に搬送するシステムを導入しているということですが、残念ながらこの日は休日のため稼動しているところは見ることができませんでした。

 ここから左側に見えるのが、名古屋港の入り口に横たわる巨大な人工の島、ポートアイランドです。これは、名古屋港内で発生する浚渫土砂の処分場として作られたもので、まだどこの自治体に帰属するか決まっていません。昨年、船で渡って視察しましたが、何もない広大な丘状の土地で、遠くから見るより高さがありました。将来、この土地をどう使うのか、その際のアクセスをどう整備するのか、大きな課題ですが、この地域の発展のために壮大な夢が描ける貴重な土地です。

 そのポートアイランドを挟むように高潮防波堤が東西に伸びています。これは、伊勢湾台風のあとに港と後背地を守るために造られたもので、延長約8kmの長大なコンクリート構造物です。建設から50年を経ているため、老朽化と地盤沈下の影響のため、大規模な改修が急務となっています。

 高潮防波堤を越えると名古屋港の外に出ます。ここまで1時間20分かかりましたので、ちょうど行程の半分が堀川と名古屋港だったわけです。

 名古屋港を出て、しばらく進むと右側にナガシマスパーランドの観覧車やジェットコースターの構築物が見えてきます。そこを回り込むように揖斐川河口に入り、伊勢湾岸道の下をくぐると名四国道とその先に桑名の市街地が見えてきます。

 川を遡っていくと、左側にかつての桑名城の跡の九華公園の緑が見えます。その先の桑名側の七里の渡し跡を越えたところの桟橋がこの船旅の終点です。

歌川広重「保永堂版 東海道五十三次 桑名」(名古屋市博物館蔵)

七里の渡し(桑名宿)
歌川広重「保永堂版 東海道五十三次 桑名」(名古屋市博物館蔵)

現在の七里の渡し跡(桑名宿)の写真

現在の七里の渡し跡(桑名宿)の様子

 桑名は、桑名藩11万石の城下町であり、東海道42番目の宿場町として栄えてきた町です。江戸後期には、本陣2軒、旅籠120軒と、宮宿に次ぐ規模の宿場で、大変賑わったといわれています。木曽三川の河口部に位置し、人とモノが行き交う川と海の結節点という交通の要衝としても重要な町でした。

 七里の渡し跡は、入り江を囲むような形で公園として整備されていて、伊勢の一の鳥居が立てられています。これが、伊勢神宮の遷宮の後、宇治橋外側にあった鳥居を移築したものと聞けば、それだけでありがたく感じられるものです。

 今回の乗船体験には、多数の参加申し込みがあり、抽選で選ばれた一部の幸運な方しか参加できませんでした。遠くは、横浜や大阪から、この船旅だけのためにわざわざ来られた方もありました。

 この七里の渡しを昔のように船で航行できる機会はめったになく、東海道五十三次を走破しようと思えば、このような企画は非常に貴重なチャンスとなります。そういう潜在的なニーズは、近隣だけでなく全国に相当あるのではないでしょうか。

 当日は、晴天に恵まれ、波も無く快適なコンディションで、船中では専門家の解説や、はまぐりの試食など、長時間の船旅を飽きさせない工夫がありましたが、実際に水上交通として乗客を運ぶ事業を軌道に乗せるには、解決すべき課題がまだまだ多いと思われます。しかし、歴史的な資源を生かした地域の魅力づくりという観点では面白い取り組みであり、是非、継続、発展してほしいものです。そのためには、宮宿と桑名宿双方が連携して陸側の条件整備も行わなければならないと感じました。

 

 平成25年12月5日  熱田区長  宮木哲也

平成25年11月

東海道・宮宿(みやのしゅく)の賑わいと現在・・・司馬遼太郎が見たものは

 

 10月は、街道に関連した2つのイベントが開催されました。

ひとつは、10月13日に白鳥公園で開催された区民まつりの中心事業「にぎわい秋まつり」の会場に設けられた「街道宿場市」です。これは、熱田が東海道、佐屋街道、美濃街道をつなぐ交通の要衝として賑わったことから、区の「にぎわい・交流のあるまちづくり」の一環で行っているもので、「街道のつながり事業」の中のひとつの事業として位置づけています。

 今年は、東海道からは、地元熱田の宮宿、鳴海宿、桑名宿が、美濃街道からは垂井宿、そして堀川にゆかりのある木曽川上流地域からは、木曽広域連合、下呂市、中津川市の加子母が参加、それぞれの地域の魅力発信と特産品の販売のためのブース出展をしていただきました。

 当日は、天候に恵まれ、雲ひとつない晴天の中、例年以上に多くの来場者があり、桑名の焼きはまぐりや、下呂の飛騨牛ステーキ串、加子母のトマト、地元宮宿の「あつた餃子」など各地の特産品、食べ物を買い求める客の長い列が各ブースの前にできました。また、お隣の鳴海宿からは、ゆるキャラマスコットの「みどりっち」も応援に駆けつけてくれ、子どもたちに囲まれていました。

 このような催しを通じて、名古屋市民が歴史的に強いつながりがあった各街道の宿場町の存在を意識し、交流を行うことは、歴史・文化を生かした街づくりを進める上で大変意義のあることです。そのために熱田区としては、率先して街道の宿場町同士の交流に努めてまいりたいと考えています。
街道宿場市の写真

街道宿場市の様子

 もうひとつのイベントは、10月26日に熱田神宮文化殿で開催された「第26回東海道シンポジウム 宮宿大会」です。

 この催しは、東海道の宿場町でまちづくりの活動を行っている団体が、毎年宿場町を持ち回りで開催しているもので、ちょうど熱田神宮が創祀1900年の記念すべき年に、熱田の宮宿で26回目の大会を開催したものです。

 当日は、直前の台風の影響で、予定より若干参加者が減ったとのことですが、会場には、東は品川宿から西は大阪の守口宿まで、東海道の宿場町で活動している人たちと参加申し込みをした名古屋市民が、約260人集まりました。

 今大会の実行委員長を務められた草薙典龍さんの剣舞に始まり、熱田出身で南山大学教授の安田文吉先生の基調講演、名古屋おもてなし武将隊による演舞、トークセッション、最後にシンポジウム全体の司会者でもある熱田区在住の女流講談師、古池鱗林さんの講談で締めくくるといった盛りだくさんの内容で、遠来のお客様にも十分堪能していただけたと思います。

 私は、開会に当たってのご挨拶と、トークセッションのパネリストの役を務めさせていただきました。
東海道シンポジウム宮宿大会の写真

東海道シンポジウム宮宿大会の様子

 宮宿は、古くから熱田神宮の門前町として栄えてきましたが、江戸時代に東海道が整備されてからは、その41番目の宿、桑名宿と海路で結ぶ宿場町として、そして、尾張藩61万石の繁栄を支えた物流拠点としての港町、さらには、大きな魚市場を有する漁師町という4つの顔をもって発展してきました。

 宿場町としては、2つの本陣をもち、東浜御殿、西浜御殿などを中心に旅籠の数は約240軒と、東海道随一の賑わいを見せていたと記録されています。

 また、東西交通の要衝でもあったことから、尾張藩は「熱田奉行所」、「熱田船奉行所」などの行政機構を設け、熱田の支配と、人とモノの流れを監視していました。

 しかしながらそれほど繁栄したこの町も、戦災でほとんどが焼失し、その後の街路事業などにより、東海道も熱田神宮への参道も分断され、往時の面影がほとんど残っていないのが現実です。今は、宮の渡し公園に常夜灯が復元されているだけという残念な状況です。
尾張名所図会「七里渡船着 寝覚里」(名古屋都市センター提供)の写真

尾張名所図会「七里渡船着 寝覚里」(名古屋都市センター提供)

 さて、「街道」といえば、私にとって最初に思い浮かぶのは司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズです。これは、司馬氏本人が綿密な現地取材を行いながら25年間かけて著した全43巻にわたる大作ですが、その最後の43巻目が名古屋を中心とする地域を取り上げた「濃尾参州記」でした。

しかし、残念ながら、執筆中の1996年2月に司馬氏が急逝されたため、この巻は未完のまま刊行されました。ですから、この巻だけは文庫本で80ページくらいしかありません。
濃尾参州記の写真

濃尾参州記

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑を始め、数多くの戦国武将を輩出したこの地域が、「街道をゆく」シリーズの空白地帯になっていたのも不思議なのですが、美味しいものは最後までとっておいて味わうために残しておいたような気がします。そしてこの時、まさに満を持して取り組まれたということではないかと想像してしまいます。

 編集担当の記者の取材ノートによると、司馬氏がこう語っていたそうです「名古屋をポジティブに書こうと思うんだ。タモリとかな。いろいろ馬鹿にされて可哀想だろう。」と。そして、亡くなった後の書斎の机の周りの本棚には、すべて名古屋関係の書籍、資料が置かれていたということです。大変な熱の入れようだったようで、それだけに、司馬ファンの名古屋の者としては残念でなりません。

 

司馬氏は、遺作となったこの「濃尾参州記」で何を書こうとしていたのだろうか。

 現地取材のために名古屋を訪れた司馬氏は、桶狭間、有松へ向かう前に、熱田神宮から東海道を歩いて取材しています。その時の写真や、同行した画家の安野光雅氏が「宮の宿」のスケッチを残していることから、熱田の町、宮宿については、必ずかなりの記述があったはずで、この巻の大きな部分を占めたであろうと私は確信しています。

 堀尾金助と裁断橋、都都逸発祥の地、家康幽閉の地などなど、宮宿にはたくさんの物語があります。

このシンポジウムを契機に、司馬氏がポジティブに書こうとして見つけたかもしれない歴史の痕跡を探し求めて、古地図を手に宮宿界隈をじっくり歩いてみたいと思いました。

 

 平成25年11月6日  熱田区長  宮木哲也

平成25年10月

芸術の秋・・・あいちトリエンナーレに思う

 熱田区民まつり事業の区民美術展・区民書道展が、去る9月27日から29日の間、区役所講堂において開かれ、29日には、入選者への表彰式が行われました。

 今年の美術展には、87点、書道展には82点という多くの作品が寄せられ、いずれも力作揃いで審査員の先生方も優劣つけ難く、審査にご苦労されたとのことです。
 毎年恒例となっているこの美術展も今年で64回目、書道展は60回目と長い歴史を有しています。昭和20年代の戦後の復興が本格的に始まった頃、まだまだ日々の生活にゆとりなどない時代に、このふたつの展覧会が始められたということになります。人々の心を芸術で元気づけようとしたのでしょうか。あるいは、子どもたちに明るい未来を創造してもらおうという意図があったのか、当時の出展リストには、小中学生による作品も数多くみられます。
 最近の傾向としては、年配の方の出展が多いようですが、今後は、もう少し若い年齢層の方にも参加していただき、幅広い区民全体で盛り上げて、先人の思いを伝えていければいいな、と思っています。
区民美術展・区民書道展の写真

区民美術展・区民書道展

表彰式の写真

表彰式の様子

 さて芸術といえば、現在、第2回目となる「あいちトリエンナーレ2013」が、8月から10月までのほぼ3ヶ月弱の期間、名古屋市内の各所と岡崎市で開催されています。私も、愛知県美術館を始め、名古屋市美術館、納屋橋会場などを訪れ、多くの作品を鑑賞してきました。

 “トリエンナーレ”というのは、3年に一度開かれる国際芸術展のことで、ミラノ、横浜など世界の多くの都市でこのような催しが行われています。ちなみに、2年に一度のものを、“ビエンナーレ”といい、ベネチア・ビエンナーレが世界的にも最も有名な国際芸術祭といえます。よく話題になるベネチア国際映画祭もこのビエンナーレの一部門として始められたものです。

 さらに美術界で重要視されているのは、ドイツのカッセルという人口20万人にも満たない小都市で、5年に一度開催される「ドクメンタ」という催しです。これは、現代美術のオリンピックともいわれ、ここに出展できれば世界的な作家として認められるというほど権威のあるものです。
あいちトリエンナーレの写真1

あいちトリエンナーレ その1

あいちトリエンナーレの写真2

あいちトリエンナーレ その2

 国際芸術祭と称する催しは、国内でも多くの都市、地域で開催されています。中でも注目されているものとしては、「横浜トリエンナーレ」、新潟県の「大地の芸術祭・越後妻有(えちごつまり)アート・トリエンナーレ」などがあげられます。
 そして、最近では、「あいち」と同じ年に始まった「瀬戸内国際芸術祭」がよく話題になります。これもトリエンナーレなので、同様に今年第2回目が開催され、多くの美術ファンが訪れています。文字通り、瀬戸内海に浮かぶ島々を会場とする展覧会で、3年前の第一回は、直島、豊島、などの7島を舞台に行われました。私も直島の会場を訪れましたが、穏やかな海と素朴な島の風景の中に、現代美術の作品がうまく調和するように置かれていて、そのプロデュースの巧みさに驚かされました。また、来場者の中には、外国人の姿が数多くみられ、まさに「国際」というネーミングにふさわしい芸術祭だと感心しました。
直島の写真1

直島の風景 その1

直島の写真2

直島の風景 その2

 このように各地で行われている芸術祭は、地域における芸術・文化の振興という目的のほかに、国際交流、地域おこしのためのイベントという性格を帯びていることが多いわけですが、そのために、来場者数が当初目標に対して大幅に上回ったかどうかで成否を評価する傾向があります。

 もちろん主催者にとっては、来場者数がひとつの評価指標であることは否定しませんが、やはり、どれだけ質の高い作品を集め、どれだけ鑑賞者に感動を与えるかということが一番大切なことではないでしょうか。もちろん、それを数字などの客観指標で表現することは極めて難しいとは思いますが。

 例えば、感受性の高い子どもたちが、「3年前には、ここにこんな作品があったね。」と覚えていてくれる、心に残る作品がどれだけあったか、といったことが重要であると思います。

 

 「あいちトリエンナーレ」は、まだ2回目の開催ですが、何もないところにいきなり始まったわけではなく、それまでに名古屋を中心とするこの地域で行われてきた芸術に関する様々な取り組みがベースになっていると考えています。
 かつて「名古屋は、現代美術の先進地である。」といわれていた時代がありました。(長くなるので、このことについては、別の機会に述べさせてもらおうと思います。)戦後の短い期間ではありますが、現代美術の分野でこの街が輝いていた、そういう伝統があって、その流れの延長線上に現在の「あいちトリエンナーレ」が開催されているということを念頭に置くべきでしょう。

 この芸術祭は、そういう流れの中で、試行錯誤を繰り返しながらこれからも変化し、内容を充実させながら第3回、第4回と続いていくことと思います。それに伴い、面白みに欠けるといわれる名古屋が、身近にアートを楽しめる魅力的な街に変化していくことを期待しています。

 

 熱田区内にも、アートを活かすことができる、展覧会場にふさわしい場所、空間がいくつもあります。歴史的なものと現代的なもののコラボなども面白いのではないでしょうか。そこで個人的には、次回の「第3回あいちトリエンナーレ」では、新たに「熱田エリア」を会場のひとつに加えてもらえないか、と勝手に思ったりしています。

 

 平成25年10月4日  熱田区長  宮木哲也

平成25年9月

災害とソーシャルメディア・・・さらに区政情報発信のための媒体として

 去る9月1日に、熱田区総合防災訓練を実施しました。

 この日は、毎年、名古屋市内16区で一斉に訓練を行っていますが、今年度は熱田区と西区が、8年に1度の幹事区ということで、例年よりも訓練の規模が大きく、内容も盛りだくさんのものになりました。

 まずは、地震発生後、大津波警報の発令に基づき、130人の住民が3つのグループに分かれて、それぞれ指定された津波避難ビルに向かい、安全な場所までの経路を確認しました。それから大津波警報の解除に伴い、主会場である野立小学校へ移動して、避難所開設訓練を行い、その後、起震車体験を始め仮設トイレの組み立て訓練や応急手当、災害伝言ダイヤルなど、様々なブースで住民体験型の訓練を行っていただいた後、当日の見せ場でもある、自衛隊、消防、警察、消防団による救出救護・負傷者搬送などの訓練が行われました。

 訓練に参加された区民の皆様、関係機関の皆様、日曜日の早朝からの訓練参加、お疲れ様でした。大変充実した訓練になったと思っています。
野立小学校における総合防災訓練の写真

野立小学校で行った総合防災訓練

 この日の訓練では、新しい取り組みとして、名古屋学院大学の伊藤昭浩先生のゼミと共同で、ツイッターを利用した、防災情報の受発信訓練を初めて行いました。

 熱田区役所からは、ツイッターで地震発生、大津波警報発表の情報、その解除といった基本的な情報を発信しました。その情報を、避難住民の各グループに同行している学生がスマートフォンで受信して避難誘導の責任者に伝え、次の行動を促すとともに、避難途中の様子を、それぞれが写真とともにツイート、つまり「つぶやく」ことで広範囲に情報発信を行いました。

 さらに、主会場の野立小学校では、学生が各ブースを取材し、ここでも自主的に訓練に関する情報発信を行いました。

 

 さて、2011年3月に発生した東日本大震災では、地震直後、広範囲に停電が発生し、電話などの通信機能も使い物にならなくなり、避難情報が的確に伝達されず被害が拡大したといわれています。さらに、被害状況、安否情報、避難所情報など、既存のメディアの多くが機能しない状況にあって、一部の個人がツイッター、フェイスブック、ユーストリームなどのソーシャルメディアを活用して情報発信したことから、これらの新たなメディアが災害時の情報伝達に威力を発揮することが明らかになりました。

 あれから2年半、スマートフォンなどの普及により、多くの人がどこでもインターネット接続できる環境が整ってきたとともに、ツイッターやフェイスブックの利用者が急速に増加しています。そこで、今後の防災情報の受発信にはソーシャルメディアが欠かせないものになると確信して、今回の防災訓練で、試験的にツイッターを活用して防災情報を受発信する訓練を実施することになりました。
ツイッターで災害情報を確認している写真

ツイッターを活用して災害情報を受信

 災害などの非常時だけでなく、ソーシャルメディアの活用は、日常の区政情報の発信においても一定の効果を得ることができると考えています。いや、日常的に的確に受発信できるネットワークが構築されていなければ、災害時は役に立たないともいえますが。

 

 私は、4月に区長就任直後、区役所の区政情報の発信力が十分ではないと感じました。

 区役所から区民向けの情報発信媒体としては、全戸配布の「広報なごや」とその「熱田区版」があります。これが、現在の市の広報の基幹的な、いわゆる紙媒体ではありますが、発行が月に1度で、即時性に乏しく、紙面にも限りがあり、内容もかなり前から決まっていることをお知らせするだけになってしまっています。
 また、ホームページに関しては、名古屋市の公式ウエブサイトには、16区の公式ウエブサイトがあり、各区の区政情報、各種行事の案内などを掲載しています。熱田区では、行事の結果を「あつたかわら版」として掲載するなど、区民の皆様に見ていただくような工夫はしていますが、これも手続きなどに時間を要してタイムリーな情報発信となっていません。情報は「鮮度」が大切なのです。

 昨年度のホームページのアクセス数では、人口が少ないとはいえ、残念ながら熱田区は16区中最低という有様でした。

 

 名古屋市の情報化の基本的な指針となる「名古屋市第2次情報化プラン」(平成24年3月策定)には「ソーシャルメディアなどを活用した市政情報の提供、市民意見の把握方法の検討」という施策項目が掲げられています。

 これを受けて、市長室広報課を始め、一部の局・区では試行的にツイッターやフェイスブックなどの運用を開始しました。

 そこで、熱田区においても情報発信のための新たな媒体を早急に導入する必要があると思い、区役所の若手職員を中心とする検討チームを設置し、議論を重ねてもらいました。その結果、区政情報を発信するには、ツイッターの活用がより効果があるということになり、防災訓練直前の8月23日から正式に運用を開始しました。

 余談ですが、私個人は2年半前からフェイスブックを利用してきましたが、今回、これに合わせてツイッターも始めました。

 

 さて、今後の展開ですが、ツイッターは即時性に優れていますが、140文字と発信できる情報量に限りがありますので、内容の詳細は広報なごやかホームページでご覧いただく、ということになります。このように、それぞれの媒体の役割を明確にして、トータルでより効果的な情報発信を目指してまいりたいと考えます。

 現時点(9月4日)でツイッターのフォロワー(熱田区のツイートを自動的に受信することができる人)は、まだ50人に満たない状況ですが、これから防災情報も含め、区民の皆様の役に立つ情報をどんどん発信して、この数を増やしていきたいと思います。そして、これまであまり区政に関心をもっていただけなかった若い世代にも、ツイッターを通じて区政をアピールできれば、より幅広い層が区政に参画していただけるのではないかと期待しております。

 

 平成25年9月4日  熱田区長  宮木哲也

 

※「名古屋市熱田区」の公式アカウントは、 @atsuta_nagoya

 です、是非フォローしてみてください。

平成25年8月

リニア中央新幹線がもたらすもの ・・・「熱田区一新会」総会にて

 去る7月30日に、熱田区一新会の総会が開かれました。

この会は、戦後間もない昭和26年に、「区民の気持ちをひとつに結集して、その意思をいろいろな公共事業に反映させていこう」と、区内の有力者・有識者がメンバーとなって結成されたもので、大変長い伝統のある会です。

 現在は、「熱田区の総合発展に寄与する事業等を実施するとともに、会員相互の親睦を図る」ことを目的に、法人、個人合わせて約180名が会員として参加されています。

 一新会という呼称は、発足当時、戦後社会の熱気と新進な気風を受けて一新しようという意味を込めてつけられたと言われています。

 この会のように、区内の企業と、各種団体の役員を始めとする区民の皆様そして大学、行政機関の代表が一同に会するということは珍しいのではないでしょうか。

 総会の冒頭、佐伯卓会長(東邦ガス株式会社会長)のごあいさつの中で、熱田という地は、熱田神宮を始めとする古い歴史だけでなく、明治以降は堀川、新堀川(旧精進川)の沿岸には、自社のガス事業を始め、日本車両、尾張紡績(後の東洋紡)など数多くの近代産業が立地した、産業集積地としての歴史があることを語られました。

 この他にも、国産自動車の第一号の「アツタ号」や、航空機を製造した愛知時計電機など、古くから日本を牽引する産業の芽がこの地に芽生えたという事実があります。なかなか興味深いテーマなので、もう少し突っ込んで勉強してみようかと思っています。

総会 佐伯会長のあいさつの写真

総会 佐伯会長のあいさつ

 総会のあとには、同じ会場で、共立総合研究所副社長の江口忍氏を講師としてお招きし、講演会を開催いたしました。テーマは「どうなる、リニア時代の名古屋と熱田区」と題して、14年後に開業するリニア中央新幹線が名古屋にもたらす影響、名古屋駅周辺と栄地区の力関係の変化、「リニア新時代」に名古屋が発展する道、などについて語られたあと、熱田区はどうなる?といった、一新会向け特別バージョンのお話をしていただきました。

 それによると熱田区は、1居住地としての評価が上がり、人口が増加する。2熱田神宮、宮の渡しなどの観光資源が再評価される。3名古屋市内では企業立地の最適地になる、という明るい未来が予想されるということでした。

 江口さんは、この地域を代表するエコノミストとして、多方面でご活躍されている方で、以前から仕事を通じてお付き合いさせていただいておりますが、どちらかというと辛めのコメントが多く、あまり楽観的な論評はされない方なので、熱田に対するこの好評価はお世辞半分でもうれしく感じました。

江口 忍 氏による講演風景の写真

江口 忍 氏による講演

 リニア中央新幹線は、東京(品川)と名古屋間が2027年、大阪まではさらに18年後の2045年に開業する計画となっています。東京・名古屋間は、最短40分、大阪までは67分で結ばれることで、日本の3大都市圏の関係が大きく変化することが予想される、壮大なプロジェクトです。

 リニア中央新幹線が名古屋大都市圏にもたらす効果としては、プラス・マイナス様々なものが想定されますが、常に話題になるのが「ストロー現象」です。

 これは、相対的に規模の大きな都市と小さな都市が、鉄道など利便性の高い交通手段で結ばれたとき、大きな都市のほうに「人、モノ、金」が吸い取られるというものです。江口さんの講演でも「大都市名古屋といえどもストロー現象は避けられない」と断言されていました。もちろん、その相手は東京です。

 東京と名古屋の関係では、もうすでに人口を始め様々な分野でそういう現象が進んでいるわけですが、リニア開業後は、それが加速度的に進むのではないかと危惧されています。

 さらに、18年後、大阪まで結ばれるとどうなるのか。東京・名古屋間の開業時以上に日本全体にインパクトが及ぶと想像できます。

 アメリカの経済学者、リチャード・フロリダ氏は、彼の著書「クリエイティブ都市論」の中で、現代の基本的な経済単位を、大都市を中心に経済的な繋がりが強い複数の都市が連坦した「メガ地域」と定義づけています。彼の分析によると世界には40のメガ地域が存在し、日本にはその中でも経済規模で5本の指に入るメガ地域が2つ、「東京広域圏」と「大阪=名古屋圏」とがあるとしています。すでに、大阪と名古屋はひとつの地域とみられているのです。

 リニア全通後は、その2つのメガ地域がひとつにまとまることになります。フロリダ氏は「世界初の統合された『スーパー・メガ地域』への道を歩み始めているのかもしれない」と予見しています。

 結果的にどういうことが起こるのか。名古屋に本社がある企業が東京に移ることはないとしても、東京本社の企業が、名古屋に支店を持つ必要性がなくなるかもしれません。産業・経済だけでなく、教育、文化、娯楽など様々な分野で、名古屋が東京と大阪の間に埋没してしまうのではないかと危惧されます。

 そうならないためには、名古屋でなければならないという「場所の優位性」をしっかり打ち出すことが大切です。また、名古屋と近隣の都市との連携を強めること、いわゆる広域連携も不可欠です。そのためには交通結節点を含む交通網の再整備も必要でしょう。

 そして、何よりも大切なのは、名古屋の歴史・文化に根ざした街づくり・人づくりであると思います。熱田は、そのための一翼を担うことができるのではないでしょうか。

 開業まであと14年もある、と考えるのか、14年しかないと考えるのか。私は後者だと思っています。残された時間は少ないのです。

 

  平成25年8月1日  熱田区長  宮木哲也

 

※熱田区一新会では会員を常時募集しておりますので、関心のある方は、事務局を務めております、熱田区役所総務課(電話052-683-9401)までお問い合わせください。

平成25年7月

 熱田まつり ・・・ 伝統、地域そして若者たち

 6月5日、恒例の熱田まつりが盛大に開催されました。実は、私にとってこのまつりは初めての体験です。当日は、境内で繰り広げられる奉納武道大会や奉納芸能の会、献灯まきわらの制作過程などを見せていただき、まつりの雰囲気を楽しませていただきました。

 この熱田まつりの歴史は古く、1000年近く前から現在まで、形を変えつつ受け継がれてきたものです。

 かつては、南新宮社祭(天王祭または大山祭ともいう)において、総高23メートルもある大山車を引き回し、町内を練り歩いたといいます。そのころのまつりの様子は、尾張名所図会に描かれていて、その規模の大きさと華麗さが伝わってきます。

 しかし、明治の中期から熱田の町にも電線が引かれるにつれて、この大山車を引くことができなくなり、それに代わるものとして明治39年から、堀川に献灯まきわら船を浮かべることになりました。5隻の船の提灯が堀川の水面に映る美しい写真も残っていますが、地元で長年このまつりをみてきた人によると、大変情緒があり、夜空に花火が打ち上げられるとさらに美しい風景だったそうです。しかしながら、このまきわら船も昭和50年には廃止されて丘に上がり、祭礼当日、熱田神宮の3つの門前に据えられる献灯まきわらとなって、現在に至っています。

南新宮祭 尾張名所図会 (熱田区歴史資料室所蔵)の写真


「南新宮祭 尾張名所図会 (熱田区歴史資料室所蔵)」

昭和24年の熱田まつりの写真


昭和24年の熱田まつりの様子
「提供:名古屋タイムズアーカイブス委員会」
※提灯の数の不足が戦後物資の不足を物語っています。

 熱田まつりのことを、尚武祭と呼ぶことがありますが、これも明治時代に始まったことで、当時の町の有力者が、奉賛の意味で、武を尚ぶ、尚武という名称をつけて「尚武会」なるものを組織して、いろいろな武術を奉納することを提唱し、このまつりに合わせて柔道、剣道、弓道、相撲など大会を開催したことに端を発するといわれています。現在も、この伝統が受け継がれているわけです。

 

 さて、献灯まきわらには、縦一列に月を表す12個、半円球状に日を表す365個の提灯が吊るされます。これには一年の健康と、繁栄を祈る意味があります。

 当日は、夕方から始まる5つの献灯まきわらの組み立てを、近くで見せていただきました。担当の学区の皆さんがそろって本殿にお参りして、提灯に灯をいただいて、それぞれの持ち場での組み立てが始まります。長い竿の先に吊るされた提灯の一つ一つに灯を点して、所定の位置に上から順番に一本ずつ差し込んで、丸い形にしていきますが、途中でロウソクの灯が消えてしまったものは、やり直しです。これは高所での難しい作業です。急に人出が増えだした薄暮の頃、ようやく完成しました。

 大変なのは、まつりが9時に終了したあと、その日のうちに撤収しなければならないことです。電気が消えたあとの暗い中の作業は、組み立て以上に危険が伴うと聞きました。このように、熱田まつりで最も絵になる風景の献灯まきわらが、地域の皆さんの献身的な努力に支えられていることは、あまり知られていないのではないでしょうか。

  • 組み立て中のまきわらの画像
  • 完成したまきわらの画像

 熱田まつりは6月5日だけですが、前日からの2日間の今年の人出は、約22万人だったと発表されました。正確には、4日が3万7千人、5日が18万7千人です。その多くは中高生から20代の若い人でした。

 普段は、鬱蒼とした木立の静寂の中で、参拝者が砂利を踏みしめる音だけが聞こえる境内が、この日だけは足の踏み場もないくらいの密度の雑踏となってしまいました。なぜ、これだけの若い人が集まるのか。確かに境内と外周道路の歩道には数多くの夜店が立ち並び、賑やかな雰囲気ではありますが、そういう「ハレ」の気分を味わうだけのためなのでしょうか。9時の消灯の後も、深夜まで多くの若者が名鉄神宮前駅の前の歩道などに滞留していたと聞きます。小さな町の鎮守の森で催される祭りとは、全く異質なものだと感じました。

 こんな状態で警備にあたった警察、消防などの関係者の皆さんのご苦労は大変だったと思います。ちいさなトラブルはあったにしても、今年の熱田まつりが概ね無事故で終了できたことは、そういう関係機関の皆さんの努力にも支えられていたわけです。

 

 これだけ多くの若者が集まってくることが、地元商店街を始め、地域にどんな影響を与えているのか、一度検証してみる必要があると思います。このまつりに対する地域の人の思い、集まってくる若者の思いなどを聴きながら、名古屋を代表するまつりのひとつとして市民が誇れるものとして、次の世代に引き継いでいってもらいたいと思います。

 すでに、来年のまつりに向けた準備が始まっています。

 

 平成25年7月1日  熱田区長  宮木哲也

平成25年6月

「そなえよつねに」・・・熱田区総合水防訓練を終えて

 去る5月26日の日曜日に今年度の総合水防訓練が白鳥小学校において開催されました。当日は、早朝から学区の住民の皆様始め、消防団、ボランティア、区内の企業、行政関係機関から、総勢380人近くの人に参加していただき、避難要領訓練や避難所開設・運営訓練、簡易水防工法訓練、そして消防団による土のう積みなどの訓練を、熱心に見て、聞いて、体験していただきました。

 参加していただいた皆様には、そこでの体験をご家族、近所の人にお話していただき、さらに多くの方に防災について関心を持っていただくことができますようお願いいたします。

総合水防訓練での非常持出品説明の写真
総合水防訓練での水没道避難要領訓練の写真

 さて熱田区は、中央部が半島状に南北方向に長い熱田台地(洪積台地)と、これを囲む東、西、南の沖積低地、さらに堀川南西部の新田地域からなり、過去には幾度となく水の被害を受けてきました。

 特に被害が大きかったのは、昭和34年9月の伊勢湾台風によるもので、名古屋市内では港区、南区が最も被害が甚大でしたが、熱田区内でも死者3名、建物の半壊2295戸、床上浸水9266戸という記録が残っています。

 堀川の堤防が3箇所で決壊したことから、区内の約85%の地域が浸水し、白鳥、船方、千年の各学区では最大浸水位が1メートルから2.5メートルにも上がったということです。さらには、白鳥貯木場に係留されていた大量の木材が流出したことにより被害が拡大したとも言われています。

 現在、宮の渡し公園の一角に、この災害を記憶に留め、後世に伝えるために、大きな看板と浸水位2.5メートルの高さを示したポールが設置されています。公園にお越しの際は、是非、近くに寄ってその高さを実感していただきたいと思います。
宮の渡し公園にある伊勢湾台風を伝える看板の写真
1:25,000デジタル標高地形図「名古屋」の写真

国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データを使用しています。(1:25,000デジタル標高地形図「名古屋」)

 熱田区では、「住みたくなるまち、訪れたいまち あったか熱田」をキャッチフレーズに、区役所が実施する主な取り組みを示す「平成25年度区政運営方針」を先ごろ公表いたしました。

 その中で4つの重点的な視点の第一番目に「安心・安全で快適なまち」を掲げ、地域の皆様、関係機関と協力して、津波避難ビルの指定、全避難所における避難所開設・運営訓練の実施、災害時の助け合いの仕組みづくりなど様々な防災に関する施策・事業に取り組むことにしています。

 実施の際は、広くお知らせしますので、区民の皆様、区内の事業所の皆様、是非とも積極的に参加していただきますようお願いいたします。

 「そなえよつねに」。これは世界各国のボーイスカウトの共通のモットーです。防災に関しても、自らが地域のリスク情報を把握し、常にそれを意識し、訓練を怠らないこと、そして有事の際には冷静にかつ積極的に行動を起こすこと。単純明解でしかも奥が深い言葉だと思って冒頭に掲げさせていただきました。自然災害は避けることができませんが、是非、この「そなえよつねに」の精神で、どんな災害でも被害を最小限にくい留めることができますよう願っております。

 

 平成25年6月1日   熱田区長  宮木 哲也

平成25年5月

区長の部屋へようこそ

 皆さん、こんにちは。4月1日付で熱田区長に就任いたしました、宮木哲也です。ホームページ上でのご挨拶が遅くなって申し訳ありません。これからは、できるだけこのページを活用して皆さんに名古屋市政、熱田区政に関する情報や、話題をお届けしたいと思います。

 簡単に私の経歴を申し上げますと、建築の技術職で採用され、消防局を皮切りに建築局、総務局、環境局、住宅都市局と様々な部局で、主に再開発などの街づくり、ごみ処理施設の建設・運営、名古屋市の将来ビジョンづくり、大都市制度と広域連携など多岐にわたる仕事に従事してまいりました。

 区役所に勤務するのは、これが初めてではありますが、これからは、今までの経験、人的ネットワークを生かして、熱田区の街づくりに全力を傾注してまいりたいと思っていますので、区民の皆様、どうかよろしくお願いいたします。

 さて、熱田区といえば、熱田神宮、宮の渡し、堀川など名古屋の歴史・文化を語る上で欠かせない区です。特に、1900年大祭を迎える熱田神宮界隈は京都より歴史の古い街です。

 また、それだけでなく、区内には繁華街、閑静な住宅街、大規模な集合住宅地、大小の工場が集積する地域など、多様な顔をもった街が混在しています。さらに、中央卸売市場、国際会議場、白鳥庭園などの大きな施設が存在感を発揮するなど、様々な魅力がコンパクトに詰まった区であると感じています。

 これから、区役所だけでなく区民の皆さん、大学、関係機関と協力しながら、そんな熱田のさらなる魅力を創造・発掘し、内外に情報発信し、名古屋市の都市魅力、イメージを向上させることにつなげてまいりたいと考えています。

 もちろん、区役所は市民サービスの最前線にあって、福祉、保健、安心・安全など区民の皆さんの生活に密接に関係していますので、公平・公正、かつ着実に職務を遂行し、安心して暮らしていただける街を目指すことはいうまでもありません。そういう基本に忠実に、さらなる高みを求めて、これまで以上に区民の皆様に信頼していただける区役所を目指してまいりたいと思います。

 

 平成25年5月1日   熱田区長  宮木 哲也

平成25年5月1日の宮木区長の写真

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熱田区役所 総務課 庶務係
電話番号: 052-683-9411
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