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名古屋市秀吉清正記念館 常設展示室

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このページを印刷する最終更新日:2018年7月16日

ページの概要:常設展では、織田信長の登場から豊臣秀吉による天下統一と豊臣家の滅亡までを、館蔵資料により展示替えしながら紹介しています。

常設展示室

常設展示室の写真

 豊臣秀吉は天文6年(1537)に、この尾張中村(現名古屋市中村区)で生まれました。当時は、室町幕府が弱体化し各地の戦国大名が実力で領土を支配する、戦乱の時代でした。秀吉は、彼が仕えた織田信長の統一事業を継承して、国内を統一し、新しい近世社会の形成に大きな役割を果たしました。この秀吉の下で、加藤清正ら多くの尾張出身の武将たちが活躍しました。
 常設展では、尾張中村で生まれた2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正の事績を紹介しています。秀吉が織田信長に仕えたころから、天下統一への道のり、秀吉死後の関ヶ原の戦い、大坂の陣での豊臣氏滅亡までを、実物資料、複製、模型などを用いて、展示しています。

 

ただいまの見どころ 

第128期 平成30年7月18日(水曜日)から9月24日(月曜日・祝日)
今期に限り展示されている資料もあります。ぜひご覧ください。

「秀吉の幼年時代図」の写真

「秀吉の幼年時代 ー秀吉と清正の絵物語」  昭和 林雲鳳筆 
  

本作品は、当館の前身「豊清二公顕彰館」の開館を記念し、当地の著名な大和絵画家が秀吉・清正の伝記を描いた全30作のシリーズの内の一枚。
大和絵画家として知られた林雲鳳が、自分より大きな少年を組み伏せる少年秀吉を描いている。
秀吉の着物には「申」(さる)の字が散らされている。

「名古屋城築城図」の写真

「名古屋城築城 ―秀吉と清正の絵物語」
  昭和 林雲鳳筆

家康の9男徳川義直の本城は清洲であったが、慶長15年(1610)、家康は名古屋の地への移転を決定した。
城の石垣を積み上げる普請工事は、義直ではなく、天下の大名に分担させた。これを天下普請という。
実際には、豊臣家ゆかりの西国大名20家が普請を命じられ、多大な出費を強いられた。
中でも清正は、大小天守の石垣普請という大工事の担当となった。
石垣用の石は熱田まで船で運ばれ、そこから陸路で城まで運ばれた。清正は、毛氈で包んだ巨石に乗り、着飾った小姓とともに扇をかざして音頭をとったという。

詳しくは、下記リンクから展示目録をダウンロードしてください。

ただいまの常設展

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常設展の展示構成

常設展示室では、定期的に展示替を行っています。ホームページでご紹介した作品が展示されていない場合もございますので、ご了承くださいますようお願いいたします。詳しくはただいまの常設展示目録でご確認ください。

テーマ1.信長と秀吉

 尾張の戦国大名、織田信長はしだいに勢力をのばし、1568年(永禄11)に室町将軍・足利義昭を助けて、京(今の京都)に入りました。秀吉は信長に仕え、長浜城主(現・滋賀県)、次に姫路城主(現・兵庫県)に取り立てられ、力をつけていきます。信長は1573年(元亀4)に室町幕府を滅ぼしますが、1582年(天正10)、本能寺で明智光秀に討たれ、天下統一を目の前にして倒れました。ここでは信長が天下統一を志した時代を紹介します。

本能寺焼討之図の写真

「本能寺焼討之図」 秀吉清正記念館蔵  明治 楊齋延一画  大判三枚続
 本能寺の変を描く浮世絵。右端が織田信長、中央が明智光秀配下の安田作兵衛、左端が森蘭丸。

火縄銃の写真

「火縄銃」
  江戸時代 国友重光作 秀吉清正記念館蔵

テーマ2.秀吉の天下統一

 信長の死後、秀吉は他の家臣たちをおさえ、後継者となりました。ここでは「天下統一」、「検地と刀狩り」、「対外政策」の3つの小テーマに分け、秀吉の天下統一への道のりと、政治手法を紹介します。

2の1.天下統一

 秀吉は1582年(天正10)、山崎の戦いで明智光秀を、翌年、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を倒し、信長の後継者として、天下統一を進めていきました。秀吉が政治の中心を置いたのは、大坂城(現・大阪市)でした。1585年(天正13)に関白(天皇を助けて政治を行う職)となり、豊臣姓を名乗ります。1590年(天正18)に小田原(現・神奈川県)の北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を成し遂げました。

豊臣秀吉画像の写真

「豊臣秀吉画像」部分   秀吉清正記念館蔵
   江戸時代前期 名古屋市指定文化財 木下家史料

馬藺後立兜(ばりんうしろだてかぶと)の写真

「馬藺後立兜」(ばりんうしろだてかぶと)
  (複製 原資料 大阪城天守閣蔵)
  秀吉所用のかぶと。九州攻めの際、西村重就に与えた。

裁断橋擬宝珠(さいだんばしぎぼし)の写真

「裁断橋擬宝珠」(さいだんばしぎぼし)
    江戸時代前期 元和元年(1622) 名古屋市博物館蔵 名古屋市指定文化財
    小田原攻めの最中に病死した堀尾金助の母が、金助の三十三回忌にあたり悲しみを刻んだもの。

2の2.検地と刀狩

 秀吉の打ち出した政策で、特筆されるのは、ほぼ全国で検地と刀狩を行ったことです。検地は、全国の土地を測量し、石高(こくだか その土地で、米がどれだけとれるかの見こみ)を決めたものです。これをもとに年貢(ねんぐ)高を決め、安定した経済基盤づくりを目指しました。刀狩は、農民に武器の所有を禁止し、没収するものでした。それまで不明確だった、農民と武士の区別をはっきりさせました。

検地基準尺の写真

「検地基準尺」(複製 原資料 尚古集成館蔵)

2の3.対外政策

 秀吉の時代には、日本近海にポルトガルなどヨーロッパの船がやってくるようになりました。秀吉は貿易を奨励し、当初はキリスト教も受け入れていましたが、1587年(天正15)に突如、キリスト教の布教を禁止し、弾圧を始めます。明(みん、今の中国)を征服しようと、2度にわたり朝鮮に出兵しました。この戦いで朝鮮だけでなく、国内も重い負担に苦しむことになりました。この戦いは、秀吉の死によってようやく終わりました。

正清猛虎討取図の写真

「正清猛虎討取図」  秀吉清正記念館蔵 元治元年(1864) 月岡芳年画 大判三枚続
  秀吉の命で朝鮮に渡った清正が、野営地を襲う虎を槍で討ちとったという逸話を描く。

テーマ3.関ヶ原の戦い

 1598年(慶長3)、秀吉は幼い子ども、秀頼(1593-1615)を残して病死しました。リーダー不在の混乱の中から、実権を握ったのが徳川家康でした。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで、敵対する石田三成らを破り、1603年(慶長8)に江戸幕府を開きました。豊臣秀頼は1615年(慶長20)、大坂の陣で家康に攻められ、豊臣氏は滅亡します。
 ここでは、天下分け目の合戦となった、関ヶ原の戦い前後の時代を紹介します。

四戦図屏風の写真

「四戦図屏風」部分 昭和写 秀吉清正記念館蔵
 関ヶ原合戦などの陣立を描く。前田家に伝来した屏風の写し。

テーマ4.清正と尾張の武将

 加藤清正(1562-1611)は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、その親族に当たるといわれます。幼い時から秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで功績をあげ、「七本槍」に名を連ねました。その後は出世コースをひた走り、肥後熊本54万石の大名にまでなりました。多くの合戦での功績をあげただけでなく、築城名人としても有名です。また、熊本の城下町の整備や、農業の発展にも力を入れました。
 尾張からはこのほか、前田利家、柴田勝家、福島正則、丹羽長秀、蜂須賀(はちすか)正勝など、多くの武将が出ています。加藤清正をはじめ、各武将の動向を紹介します。

蛇目紋長烏帽子形兜(じゃのめもんながえぼしなりかぶと)の写真

「蛇目紋長烏帽子形兜」(じゃのめもんながえぼしなりかぶと)  加藤清正が朝鮮出兵のときにぶった兜(徳川美術館所蔵)を、昭和47年、当地の職人衆が忠実に模したもの。

テーマ5.太閤記の世界

 「足軽から天下人まで上りつめた」という秀吉のサクセスストーリーは、江戸時代の人々はあこがれと興味を抱かせました。1626年(寛永3)に秀吉の伝記本、小瀬甫庵(おぜほあん)著『太閤記(たいこうき)』が出版され、広く読まれました。この中ではかなりの脚色がなされ、秀吉は史実とはかけ離れたヒーローとして描かれます。その後も、秀吉をヒーロー化した読み物や芝居が多くつくられていきました。私たちがイメージする秀吉像は、史実にもとにしたものよりも、後世に読み物、芝居での創作された話によるものの方が、ずっと強いのが現実です。
 ここでは、伝記本や浮世絵などで伝説、ヒーロー化された秀吉像を紹介します。

豊臣秀吉譜の写真

「豊臣秀吉譜」 秀吉清正記念館蔵

ビデオコーナー

常設展示室のビデオコーナーでは、4本の番組から選んでご覧いただけます。

  1. 絵解き関ヶ原合戦(13分)
  2. 戦国の城(13分)
  3. 信長のルーツをさぐる(6分)
  4. 戦国那古野城(6分)

 

特別展示室

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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