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名古屋市秀吉清正記念館 常設展示室

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このページを印刷する最終更新日:2024年4月1日

ページID:13736

ページの概要:織田信長の登場から、豊臣秀吉による天下統一、そして豊臣家の滅亡までを紹介しています。

常設展示室

常設展示室の写真

 豊臣秀吉は天文6年(1537)に、秀吉清正記念館が建つ尾張中村(現・名古屋市中村区)で生まれました。当時は、室町幕府が弱体化し各地の戦国大名が実力で領土を支配する、戦乱の時代でした。秀吉は、織田信長の統一事業を継承して国内を統一し、近世社会の形成に大きな役割を果たしました。この秀吉の下で、加藤清正ら多くの尾張出身の武将たちが活躍しました。

 常設展では、尾張中村で生まれた2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正の事績を紹介しています。秀吉が信長に仕えたころから、天下統一への道、秀吉死後の関ヶ原の戦い、大坂の陣での豊臣氏滅亡までを、実物資料や複製により展示しています。

ただいまの見どころ

常設展 162期

3月27日(日曜日)から5月26日(日曜日)

四国焼山大合戦之図

清正の四国の焼山城での奮闘したという伝説を描いた絵

明治17年(1884)
歌川豊宣(1859-1886)
清正が四国土佐の焼山城で敵を奇襲したという伝説を描いた浮世絵。

日吉丸出世の鑑

秀吉の『太閤記』での逸話をすごろくにした絵

江戸時代後期
秀吉の立身出世を『太閤記』での逸話をすごろくとして配置した玩具絵。

織田信長家臣の酒井家文書の一部を展示します!

4月16日(月曜日)から5月6日(月・振替休日)

織田信長朱印状

信長が坂井利貞に知行を与えることを書いた文書

永禄10年(1567)11月付
坂井文助(利貞)宛
信長が坂井利貞に知行を与えたもの。信長が朱印「天下布武」を使用した最初期の文書。

織田信長朱印状

信長が坂井利貞らに尾張国中の道の修復などを命じた文書

天正2年(1574)閏11月25日付
笹岡八右衛門尉、坂井文助(利貞)宛
信長が尾張国中の道を1年に3度修復し、橋や用水の管理も厳重に行うよう、坂井利貞らに指示した文書。

豊臣秀吉朱印状

秀吉が坂井利貞に鷹の餌となる鳥を捕獲し、進上するよう命じた文書

文禄5年(1596)9月15日付
河野藤左衛門、坂井文介(利貞)宛
尾張国中を秀吉の鷹場とし、鷹の餌となる鳥を網などで捕獲し進上するよう、坂井利貞らに命じた文書。

◆◆ただいまの展示目録◆◆

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常設展の展示構成

常設展示室では、定期的に展示替えを行っています。ここで紹介した資料は展示されていない場合もありますので、ご了承ください。詳しくは、「ただいまの展示中の資料」でご確認ください。

テーマ1.信長と秀吉

 尾張の戦国大名、織田信長はしだいに勢力をのばし、永禄11年(1568)に室町将軍・足利義昭を助けて、京(今の京都)に入りました。秀吉は信長に仕え、長浜城主(現・滋賀県)、次に姫路城主(現・兵庫県)に取り立てられ、力をつけていきます。信長は元亀4年(1573)に室町幕府を滅ぼしますが、天正10年(1582)、本能寺で明智光秀に討たれ、天下統一を目の前にして倒れました。ここでは信長が天下統一を志した時代を紹介します。

本能寺の変を描いた浮世絵。

本能寺焼討之図
明治 楊斎延一画
天正10年(1582)に起きた、本能寺の変の様子を描いた浮世絵。

テーマ2.秀吉の天下統一

 信長の死後、秀吉は他の家臣たちをおさえ、後継者となりました。ここでは「天下統一」、「検地と刀狩り」、「対外政策」の3つの小テーマに分け、秀吉の天下統一への道のりと、政治手法を紹介します。

2の1.天下統一

 秀吉は天正10年(1582)、山崎の戦いで明智光秀を、翌年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を倒し、信長の後継者として、天下統一を進めていきました。秀吉が政治の中心を置いたのは、大坂城(現・大阪市)でした。天正13年(1585)に関白(天皇を助けて政治を行う職)となり、豊臣姓を名乗ります。天正18年(1590)に小田原(現・神奈川県)の北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を成し遂げました。

豊臣秀吉の肖像画。

豊臣秀吉画像
江戸時代前期 近江木下家資料
秀吉清正記念館蔵 名古屋市指定文化財

豊臣秀吉所用の兜。

馬藺後立兜(ばりんうしろだてかぶと)
複製 原資料:桃山時代 大阪城天守閣蔵
豊臣秀吉が所用し、九州攻めの際、西村重就にほうびとして与えた兜。

熱田の裁断橋にあった擬宝珠。

裁断橋擬宝珠(さいだんばしぎぼし)
江戸時代前期 元和8年(1622)
名古屋市博物館蔵 名古屋市指定文化財
小田原攻めの最中に病死した堀尾金助の三十三回忌にあたって、母が心情を刻んだもの。

2の2.検地と刀狩

 秀吉の打ち出した政策で、特筆されるのは、ほぼ全国で検地と刀狩を行ったことです。検地は、全国の土地を測量し、石高(こくだか その土地で、米がどれだけとれるかの見こみ)を決めたものです。これをもとに年貢(ねんぐ)高を決め、安定した経済基盤づくりを目指しました。刀狩は、農民に武器の所有を禁止し、没収するものでした。それまで不明確だった、農民と武士の区別をはっきりさせました。

太閤検地で使われた基準尺。

検地基準尺
複製 原資料:桃山時代 尚古集成館蔵 重要文化財
太閤検地で、長さの基準である1尺(約30センチ)を定めるために使われた。石田三成の花押がある。

2の3.対外政策

 秀吉の時代には、日本近海にポルトガルなどヨーロッパの船がやってくるようになりました。秀吉は貿易を奨励し、当初はキリスト教も受け入れていましたが、天正15年(1587)に突如、キリスト教の布教を禁止し、弾圧を始めます。明(みん、今の中国)を征服しようと、2度にわたり朝鮮に出兵しました。この戦いで朝鮮だけでなく、国内も重い負担に苦しむことになりました。この戦いは、秀吉の死によってようやく終わりました。

加藤清正の虎狩りを描いた浮世絵。

正清猛虎討取図
江戸時代後期 元治元年(1864) 月岡芳年画
秀吉清正記念館蔵
秀吉の命で朝鮮半島に渡った加藤清正が、虎をで討ちとったという逸話を描いた浮世絵。

テーマ3.関ヶ原の戦い

 慶長3年(1598)、秀吉は幼い子ども、秀頼(1593-1615)を残して死去しました。リーダー不在の混乱の中から、実権を握ったのが徳川家康でした。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで、敵対する石田三成らを破り、慶長8年(1603)に江戸幕府を開きました。慶長20年(1615)、秀頼は大坂の陣で家康に攻められ、豊臣氏は滅亡します。ここでは、天下分け目となった、関ヶ原の戦い前後の時代を紹介します。

関ヶ原の戦いなどを描いた地図屏風。

四戦場図屏風(しせんじょうずびょうぶ) 右隻(部分)
模写 原資料:江戸時代前期 元禄13年(1700) 有沢永貞画 公益財団法人前田育徳会蔵
関ヶ原の戦いなどの経過を描いた地図屏風。加賀前田家に伝来した。

テーマ4.清正と尾張の武将

 加藤清正(1562-1611)は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、その親族に当たるといわれます。幼い時から秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで功績をあげ、「七本槍」に名を連ねました。その後は出世コースをひた走り、肥後熊本54万石の大名にまでなりました。多くの合戦での功績をあげただけでなく、築城名人としても有名です。また、熊本の城下町の整備や、農業の発展にも力を入れました。
 尾張からはこのほか、前田利家、柴田勝家、福島正則、丹羽長秀、蜂須賀(はちすか)正勝など、多くの武将が出ています。加藤清正をはじめ、各武将の動向を紹介します。

加藤清正の兜。

長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)
模造 原資料:徳川美術館蔵 桃山時代から江戸時代前期
加藤清正が朝鮮出兵のときにぶった兜。ユニークな形で、清正のトレードマークとなった。

テーマ5.太閤記の世界

 「足軽から天下人まで上りつめた」という秀吉のサクセスストーリーは、江戸時代の人々はあこがれと興味を抱かせました。寛永3年(1626)に秀吉の伝記本、小瀬甫庵(おぜほあん)著『太閤記(たいこうき)』が出版され、広く読まれました。この中ではかなりの脚色がなされ、秀吉は史実とはかけ離れたヒーローとして描かれます。その後も、秀吉をヒーロー化した読み物や芝居が多くつくられていきました。私たちがイメージする秀吉像は、史実にもとにしたものよりも、後世に読み物、芝居での創作された話によるものの方が、ずっと強いのが現実です。ここでは、伝記本や浮世絵などで伝説、ヒーロー化された秀吉像を紹介します。

林羅山が編さんした秀吉の伝記書。

豊臣秀吉譜
江戸時代前期 明暦4年(1658)
秀吉清正記念館蔵
江戸時代初期の朱子学者、林羅山が徳川幕府の命令によって編さんした、秀吉の伝記書。

A4版 三つ折りリーフレットとしてご活用ください。

常設展 解説リーフレット

ビデオコーナー

常設展示室のビデオコーナーでは、4本の番組から選んでご覧いただけます。

  1. 絵解き関ヶ原合戦(13分)
  2. 戦国の城(13分)
  3. 信長のルーツをさぐる(6分)
  4. 戦国那古野城(6分)

特別展示室

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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