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杉原千畝顕彰事業

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ページID:115426

最終更新日:2022年1月21日

 「命のビザ」で知られる杉原千畝氏は日本の外交官です。第二次世界大戦中に千畝氏は迫害から逃れようとするユダヤ系難民に2,000通を超えるビザを発給し、多くのユダヤ人を救いました。

 名古屋市では、千畝氏の第二次世界大戦中の功績と名古屋とのゆかりを後世にわたり市民に伝えていくことで、市民の誇り、心の財産とするとともに、他人への思いやり命の重みなど人格形成期にある若い世代の育成をはかることを目的として、顕彰事業に取り組んでいます。

杉原千畝 人道の道

千畝氏は少年期の約10年間を名古屋で過ごしました。

千畝氏の功績をたたえ、当時の居住地付近から出身校である旧制愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)を結ぶ全長約4.5キロメートルを、「杉原千畝 人道の道」と名付けました。

「杉原千畝 人道の道」ルートマップのファイルはテキスト情報のない画像データです。

内容を確認されたい場合は総務局 総合調整部 総合調整室(電話番号 052-972-2223)までお問合せください。

杉原千畝 人道の道
葉場公園の銘板


千畝氏にゆかりのあるスポット(6か所)に銘板を設置しており、各銘板にはそれぞれの設置場所にまつわる千畝氏のエピソードが掲載されています。
(画像は葉場公園のもの)

「杉原千畝 人道の道」ルートマップについて

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杉原千畝氏について

外交官になるまで〔1900(明治33)年から1923(大正12)年まで〕

 1900(明治33)年、岐阜県で生まれた千畝氏は、父・好水氏の仕事の都合で、小学校低学年のときに名古屋市古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)に転入しました。

 1912(明治45年)、尋常小学校を卒業した千畝氏は、愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)に進学し、1917(大正6)年に卒業しました。

 その後、早稲田大学に入学しましたが、1919(大正8)年に外務省留学試験に合格し、ロシア語を学ぶ留学生として、ロシア人が多く暮らす中国東北部ハルビンに向かいました。

外交官時代(1)ビザ発給まで〔1924(大正13)年から1939(昭和14)年まで〕

 1924(大正13)年、千畝氏は外務書記生に任命され、1925(大正14)年からハルビンの日本総領事館で働き始めました。満州国外交部へ移籍したのち、日本外務省に復帰し、1937(昭和12)年に在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、1939(昭和14)年にリトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理となりました。

 そのころ、ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大していました。国外脱出を図るユダヤ系避難民は、一時避難をしていたリトアニアから、ナチスの脅威が及ばない安全な地域への逃亡を目指していました。

外交官時代(2)ビザ発給〔1940(昭和15)年〕

 1940(昭和15)年7月18日の早朝、ポーランドからリトアニアに逃亡してきたユダヤ系避難民が、ソ連によるリトアニア併合の動きから早急に国外への脱出の必要を感じ、日本領事館に通過ビザを求めて大勢殺到しました。緊迫した中、千畝氏は外務省と連絡をとりましたが、外務省からの命令は「発給要件を満たさぬ者へのビザの発給はならぬ」というものでした。しかし千畝氏はユダヤ系避難民に対し、ビザ発給を行いました。

 晩年、千畝氏はこう述べています。「苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している」

これまでの本市の取り組み

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