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瑞穂区史跡散策路-やさしいにほんご-

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このページを印刷する最終更新日:2023年3月8日

ページID:158133

瑞穂区史跡散策路(みずほくしせきさんさくろ)

このページは、瑞穂区史跡散策路にのっている史跡の説明を、やさしい日本語で書いています。

史跡めぐりをされる人へのおねがい

史跡は自然や昔の人がのこしてくれた大切なものです。

マナーをまもってあるきましょう。

  • 史跡をよごしたり、きずつけたりしないように注意(ちゅうい)しましょう。
  • 寺社(じしゃ)などの史跡には、入ってはいけない場所もあります。許可(きょか)なく入ることのないようにしましょう。
  • ごみは持ち帰りましょう。
  • バイクや車を停めるときは、交通ルールを守りましょう。
また、住んでいる人や周りにいる人へのめいわくにならないようにしましょう。

塩付街道(しおづけかいどう)と桜(さくら)のみち

 瑞穂区役所をスタートして東へ進むと、古い大きな松が見えます。ほそい通り道の町の景色(けしき)から、昔(むかし)塩付街道があったことがわかります。村上おどり山古墳あとを見て、山崎川のとても雰囲気(ふんいき)のよい桜並木(さくらなみき)の道へ。鼎小橋(かなえこはし)から見る川の水面(みなも)が太陽の光ですばらしく見えます。家がたくさんある静かな景色の中に歴史のある善進寺(ぜんしんじ)、正及神社(しょうきゅうじんじゃ)が見えてきます。やがて、東山荘(とうざんそう)の萓葺(かやぶき)の門を通ると、日本らしく美しい建物(たてもの)と庭園(ていえん)があります。ここでは自然を感じてみましょう。

 つぎに、一度山崎川の道から、静かな町を歩き、東栄八幡社(とうえいはちまんしゃ)と馬頭観音(ばとうかんのん)を見たら、やがて名古屋市博物館(なごやしはくぶつかん)に着きます。展示から、ふるさとの歴史を学び、たくさんの美術品(びじゅつひん)を見てふるさとの文化にふれます。

「塩付街道と桜のみち」には、歴史があり自然があり四季の香りがあります。

塩付街道(しおつけかいどう)

  塩付街道の名前は、塩を馬の背(せ)に乗せて、山地(さんち・海がない場所)の国ぐにへ運んでいるあいだに自然にできたといわれています。

 江戸時代の中ごろまで星崎7ケ村(ほしざきななかそん)の前浜(まえはま)でたくさん塩を作っていました。

今の南区戸部町(とべちょう)から東区出来町(できまち)までの道で、瑞穂区内の汐路町(しおじちょう)の道にある松は、昔の街道の雰囲気を伝えています。

村上神社(むらかみじんじゃ)

 昔はおどり山古墳(高さ3.6メートル、直径40メートルの円墳(えんふん))でしたが、今は神社境内地(じんじゃけいだいち)としてまわりが削(けず)りとられています。この古墳の北では、須恵器(すえき)が見つかったため、このあたりは古墳時代の集落地跡(しゅうらくちあと)であったといわれています。

善進寺(ぜんしんじ)

  明治2年(1869年)、現在の千葉県市川市(いちかわし)中山日蓮宗大本山法華経寺(なかやまにちれんしゅうだいほんざんほけきょうじ)内にあった「善進坊(ぜんしんぼう)」をここに移(うつ)し寺号(じごう)善進寺と名前を変えました。本尊(ほんぞん)は一塔両尊四菩薩二士四天王(いっとうりょうそんしぼさつにししてんのう)。本堂(ほんどう)北の中庭に、切支丹燈籠(きりしたんとうろう)が保存されています。

正及神社(しょうきゅうじんじゃ)

 享保(きょうほう)元年(1716年)に建(た)てられ、約300年の正しい歴史のある神社です。祭神は東照大権現(とうしょうだいごんげん)徳川家康公(とくがわいえやすこう)です。日光山東照宮(にっこうさんとうしょうぐう)の御分霊(ごぶんれい)を勧請鎮斉(かんじょういはひ)されたもので、明治初めに村社(そんしゃ)に列せられました。昭和32年(1957年)には、社格(しゃかく)を九等級元郷社格(きゅうとうきゅうもとごうしゃかく)に昇格(しょうかく)しました。瑞穂区内の17社のうち社格第3位で、家康公を主祭神(しゅさいしん)とする名古屋市内の神社のうちでは、東照宮(とうしょうぐう)中区丸の内に次ぐ神社です。

東山荘(とうざんそう)

 大正(たいしょう)初年(1912年)から10数年かけて建てられました。別荘(べっそう)を持っていた、綿布商(めんぷしょう) 伊東信一(いとうしんいち)さんが亡(な)くなった1936年に名古屋市に寄付(きふ)されました。東山荘は伊東家の山荘という意味で名前をつけられました。1939年からは市民に開放(かいほう)されました。1943年から市長公舎(しちょうこうしゃ)となりました。1968年4月からまた市民の公園として開放され、東山壮をたのしむことができるようになりました。萱葺(かやぶき)の門を通ると、美しい数寄屋風書院造り(すうきやふうしょいんづくり)の建物と木々が、見事な風景を作っています。

 庭園は自然回遊式(しぜんかいゆうしき)の庭園であり、入口前庭(いりぐちぜんてい)、書院の庭(しょいんのにわ)、仰西庵露地(ぎょうせいあんろじ)、東丘庵露地(とうきゅうあんろじ)の4庭が楽しめます。

 庭園の見学は無料です。2013年6月21日に国の登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい)に登録されました。

東栄八幡社(とうえいはちまんしゃ)

 祭神に応神天皇(おうじんてんのう)がまつられた神社です。「尾張徇行記(おわりじゅんこうき)」に、熱田社家(あつたしゃけ)栗田宮部太夫支配(くりたみやべだゆう)とあり、そのときの神社の大きさは、一反十二歩(いったんじゅうにほ・約1030平方メートル)ありました。

馬頭観音(ばとうかんのん)

 普通は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(観音(かんのん)さま)は慈悲(じひ)のお顔をしています。しかし、頭(あたま)の上に馬(うま)の頭をいただいている馬頭観音(ばとうかんのん)は、これだけ怒った顔をしているという特徴(とくちょう)がある。江戸時代から馬の運送(うんそう)がはじまり、馬の守り仏(まもりぼとけ)として馬頭観音が道のふちにたてられた。人々が困ったことにあった時に来て、助けてくれるという信仰があるといわれています。

名古屋市博物館(なごやしはくぶつかん)

 名古屋市の人口が200万人を超えた記念に1977年10月に開館した総合歴史(そうごうれきし)博物館です。尾張地方(おわりちほう)の旧石器時代(きゅうせっきじだい)から現代(げんだい)までの歴史をテーマごとに分け、実物(じつぶつ)・複製資料(ふくせいしりょう)などでできた常設展示室(じょうせつてんじしつ)があります。日本国内や外国のすぐれた文化財の展覧会(てんらんかい)を開き、時代別(じだいべつ)・分野別(ぶんやべつ)などの展覧会を開いています。また、市民の文化活動(ぶんかかつどう)の発表(はっぴょう)の場として使用できるギャラリーもあります。尾張地方を中心とする歴史・文化の調査研究や保存・公開、教育普及の場として大切な場所です。

民間信仰(みんかんしんこう)のみち

 名古屋市大病院前(なごやしりつだいがくびょういんまえ)から西へ  歩いて10分程で  中山神明社(なかやましんめいしゃ)に着きます。樹齢(じゅれい)(木の年齢)100年を超えるという神木の大楠がむかえてくれます。ここから南の信正寺(しんしょうじ)へ。門の前にある“野仏阿弥陀・三観音(のぼとけあみだ・さんかんのん)”に  あいさつして、名古屋市立大学へ向かいます。構内の小高い丘が“八高古墳(はちこうこふん)”です。約10メートルの観音像がある金龍寺(きんりゅうじ)を見て、盛屋寺(せいおくじ)へ向かう。門前には“庚申塔(こうしんとう)”があり、今ものこる庚申信仰を知るうえで、とても大切な存在です。八劔社(はっけんしゃ)から曲がりくねった坂道を歩いて行くと“高田城跡(たかだじょうあと)”と伝えられる御劔小学校(みつるぎしょうがっこう)へ出でます。冨士八幡社(ふじはちまんしゃ)を通り、昔の形を残す“宮参り道(みやまいりみち)”を歩いて行くと“肴瓮石伝説(なげいしでんせつ)”の神之内八幡社(じんのうちはちまんしゃ)へ。十三仏(じゅうさんぶつ)、庚申塔のある観音堂から一之御前社(いちのごぜんしゃ)を通り“おできの神様”といわれている直来神社(なおらい)、“乳信仰(ちちしんこう)”で有名な海上寺(かいじょうじ)、そして眞好天神社(しんこうてんじんじゃ)に着きます。途中の庚申塔がある八幡社(はちまんしゃ)・白山社(はくさんしゃ)に立ち寄っても楽しめます。

中山神明社(なかやましんめいしゃ)

  寛文(かんぶん)7年(1667年)今は昭和区にある養林寺(ようりんじ)の住職(じゅうしょく)専誉上人(せんよじょうにん)が、養林寺の西200メートルにある高田村新田字藤塚(たかだむらしんでんあざふじつか)の古墳上に祠(ほこら)をたてたのが はじまりといわれます。1907年に県立第五中学校を建設(けんせつ)にすることになり、今ある場所へ移(うつ)りました。

信正寺(しんしょうじ)

 もともと養林寺の末寺(まつじ)で、昔は養林寺領(りょう)高田村新田を中心にした農民(のうみん)の信仰念所(しんこうねんしょ)として、百万遍念仏道場(ひゃくまんべんねんぶつ)でもありました。門の前には野仏阿弥陀・三観音があります。1868年から1912年ごろには、瑞穂小学校(みずほしょうがっこう)の分教場(ぶんきょうじょう)でした。

八高古墳(はちこうこふん)

 名古屋市立大学山の畑(やまのはた)キャンパス東南部にある前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、今は全長70メートルですが、元の形ではなくなっています。また、この北北東に直径30メートルの円墳があります。近くの高蔵高等学校内(たかくらこうこうこうない)には全長87メートルの前方後円墳がありました。しかし、今では何ものこっていません。この古墳の四方(しほう)にあった4基(き)の小円墳(しょうえんふん)も、今は瑞穂ヶ丘中学校(みずほがおかちゅうがっこう)の正門内(せいもんない)北側に長径11メートル、短径8メートルの小円墳がのこっているだけです。

盛屋寺(せいおくじ)

 天正(てんしょう)2年(1574年)に虎岩賢龍(こがんけんりゅう)大和尚(だいおしょう)により開創(かいそう)され、それ以来、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を本尊としています。薬師堂(やくしどう)・観音堂(かんのんどう)・鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)を築きあげ、日待(ひまち)、月待(つきまち)、庚申待(こうしんまち)などその時の信仰の寺として名前を残しています。また、門の前の左側には2体の青面金剛(しょうめんこんごう)の石像があります。

八劔社(はっけんしゃ)

 八劔社は丘の上に建っています。境内社(けいだいしゃ)に源太夫社(げんだゆうしゃ)、白山社(はくさんしゃ)、山上社(やまかみしゃ)があります。また、庚申像(こうしんぞう)を描(えが)いた掛軸(かけじく)が4幅(ふく・掛け軸の単位)あります。

高田城跡(たかだじょうあと)

 旧高田村字城ノ内(きゅうたかだむらあざじょうのうち)にありました。御剱小学校(みつるぎしょうがっこう)がその場所といわれていて、「尾張志(おわりし)」に城域(じょういき)は東西59間(約108メートル)、南北28.5間(約52メートル)と書いてあります。「尾張徇行記(おわりじゅんこうき)」に村瀬浄心(むらせじょうしん)という人が住んでいたと書いてあります。御器所城主(ごきそじょうしゅ)に攻められ、城はなくなったと言われています。

冨士八幡社(ふじはちまんしゃ)

 鎌倉時代(かまくらじだい)に宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の分霊を、さらに冨士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)の分霊をそれぞれ勧請(かんしょう・神社の神霊を分けて新しい神社にも崇拝すること)して高田城の鬼門(きもん・北東のこと。鬼が来る方向と言われている)とされる所に神様をまつる建物を建てたのが始まりと言われています。その後、文政(ぶんせい)9年(1826年)に今の場所に合祀(ごうし・合わせてまつること)されたと言われています。

 大正の初めのころまでは夏祭りに男獅子(おとこじし)が奉納(ほうのう)されていました。

神之内八幡社(じんのうちはちまんしゃ)

 熱田天王祭(あつたてんのうさい)の宵祭り(よいまつり・夜の祭り)には熱田まで提灯(ちょうちん)を奉納(ほうのう)するしきたりがあったが、神之内八幡社に奉納して“提灯ヨ、バイバイヨ…"と帰ってもご利益(ごりやく)は同じという代参(だいさん)の役割があったといいます。境内には肴瓮石(なべいし)といわれる祈願石(きがんせき)がありますが、弘法大師(こうぼうたいし)が名前を付けたと言われていて、頭痛、歯痛、腰痛が治ると言われています。

一之御前社(いちのごぜんしゃ)

 祭神は大伴武日命(おおとものたけひのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)。拝殿(はいでん)の前に黒龍王(こくりゅうおう)・白竜姫大神(はくりゅうきたいじん)がまつられています。昔は、社(やしろ)の東に朝田池(あさだいけ)や清水(きよみず)のわき出る所があり、社の周りに住む人びとの龍神(りゅうじん)に対する感謝の思いから社があるといわれています。

直来神社(なおらいじんじゃ)

 木曽義仲(きそよしなか)は、義経軍(よしつねぐん)との宇治勢多(うじせた)の戦いを前に女たちを都(みやこ)から木曽へ逃げさせた。逃げる途中この辺りで「かつら姫」は、できものがもとで亡くなり、この地に埋葬(まいそう)されました。その後、姫の墓(はか)に植えられた桂(かつら)の根元にある小石で、できものをなでると治るという信仰が生まれ、おできの神様としてあがめられるようになったといわれています。

海上寺(かいじょうじ)

 昔は寺の西のあたりは潟(かた)が入り込んでいて、その海が見える高台(たかだい)の寺ということで「海上寺」と名付けられたといわれています。本堂内(ほんどうない)本尊の薬師如来(やくしにょらい)は、弘法大師が作ったと言われていて、昔から粟薬師(あわくすし)と呼ばれています。客殿内(きゃくでんない)本尊は乳花薬師如来(ちばなやくしにょらい)。母乳調整(ちょうせい)のために胸の形のぬいぐるみを奉納するというめずらしい信仰で、「ちばなやくし」の名で親(した)しまれています。

 大正8年(1919年)に建てられた「高田獅子連記念碑(たかだじしきねんひ)」は、嫁獅子(よめじし)の第2期黄金時代(おうごんじだい)を記念したものです。

眞好天神社(しんこうてんじんじゃ)

 天保年間(1830から1844年)には「おどり山」(今は村上神社)にまつっていたが、霊夢(れいむ・神仏のお告げがある不思議な夢)により明治2年(1869年)に今の場所にうつしたといわれています。

ふるさと歴史のみち

 地下鉄堀田駅(ちかてつほりたえき)から西へ進むと、すぐに濱神明社(はましんめいしゃ)の前に出ます。多くの車が通る道で古い史跡と対面すると時代の移り変わりを感じます。東海道(とうかいどう)を山崎川(やまざきがわ)へ。この辺りは昔、船着場(ふなつきば)があった所です。その川の近くにある井戸田薬師(いどたやくし)への道標(みししるべ)にそって歩くと、藤原師長謫居跡(ふじたもろながたっきょあと)で師長(もろなが)が琵琶(びわ・東洋風の弦楽器)を弾き、歌を詠った(うたった)昔について思い浮(う)かびます。龍泉寺(りゅうせんじ)は源頼朝(みなもとのよりとも)に関係があるといわれる正しい歴史のある寺。そこから続く細い道は鎌倉街道(かまくらかいどう)と言われています。大木、古木が立ち並ぶ田光八幡社(たこうはちまんしゃ)にはとても大きい楠(くすのき)があります。民家の中の細い道を抜け、大喜寺(だいきじ)を通り、木がよく伸び育っている津賀田神社(つがたじんじゃ)の姿。そこから天聖寺(てんしょうじ)は近い距離です。門の前に立ち並ぶお地蔵様(おじぞうさま)の笑顔が疲れをいやしてくれます。

浜神明社(はましんめいしゃ)

 昔はこの辺りを呼続の浜(よびつぎのはま)といい、渡船場(とせんば・渡し船の発着する場所)がありました。土居の浜(どいのはま)には塩焼所(しおやきしょ)があり伊勢神宮(いせじんぐう)に塩を奉納していました。害虫を除き五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈るため天照大神(あまてらすおおかみ)をまつりました。明治41年(1908年)に津賀田神社に合祀(ごうし)されましたが、昭和15年(1940年)に今の場所にうつされました。境内には天正17年(1589年)の刻銘(こくめい・金属や石にきざまれた文字)がある市内でもっとも古い月待供養碑(つきまちくようひ)、神道(しんどう)関係の碑(いしぶみ)としてほとんどない斗帳寄進碑(とちょうきしんひ)(対のうちの一基は津賀田神社にある)、西行(せいこう)の和歌(わか)を愛した人が作ったという西行腰掛石(せいこうこしかけいし)があります。

東ノ宮神社(ひがしのみやじんじゃ)

  明治元年(1868年)、明治天皇(めいじてんのう)が東海道筋(とうかいどうすじ)を江戸へ行幸(ぎょうこう・天皇がいどうされること)されたとき、八丁縄手(はっちょなわて)(畷(なわて))で収穫作業(しゅうかくさぎょう)を見ていきました。それを記念して建てられた明治天皇覧穫之所(らんかくのところ)という碑が境内にあります。

藤原師長謫居跡(ふじわらもろながたっきょあと)

  治承(じしょう)3年(1179年)太政大臣(だじょうだいじん)藤原師長は、平清盛(たいらのきよもり)の政変(へんせい)によって尾張国井戸田(おわりこくいどた)の里へ異動(いどう)を命じられました。師長は琵琶(びわ)がとても上手でした。今様(いまよう・平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した歌)も上手で、この地に異動してきた1年ぐらいを、鳴海潟(なるみがた)を見ながら琵琶を弾くなどして自分をなぐさめた場所です。

龍泉寺・亀井水(りょうせんじ・きせいすい)

 行基(ぎょうき・日本の仏教僧)の開山(かいさん)とも言われていて、曹洞宗(そうとうしゅう)、熱田円通寺(あつたえんつうじ)の末寺。本尊薬師如来は聖徳太子(しょうとくたいし)が作ったと言われています。源頼朝生まれた場所であるという説があり、表門(おもてもん)のとなりにある亀井水は、頼朝が産湯(うぶゆ)の水に使ったといわれています。また境内には昭和58年(1983)まで残っていた大黒塚(おおぐろづか)の塚上(づかじょう)にあった大黒石(だいこくせき)(原始五輪塔(げんしごりんとう・古くからある5つの石を積み重ねたお墓)という説もある)という古石が保存されています。

長福寺・秋葉社(ちょうふくじ・あきばしゃ)

 今は建替えられた新しい建物ですが、始まりは奈良時代(ならじだい)といわれています。曹洞宗、熱田円通寺の末寺です。本尊は聖観世音菩薩で、となりに秋葉社もあります。

為麿塚(ためまろづか)

 長岡為麿(ながおかためまろ)をまつっています。長岡為麿は元禄期(げんろくき)(1688年から)熱田祠官(あつたしかん)といわれ、彼が老後職(しょく)をやめて閑居(かんきょ)したのがこの場所です。彼が言い始めた彼の一流(いちりゅう)の神道は、人びとの信仰を得てとてもはやったと言います。

秋月院(しゅうげついん)

 曹洞宗、熱田円通寺の末寺です。慶長(けいちょう)3年(1598年)熱田の地に建てられ昭和13年(1938年)今の場所にうつりました。本尊は愛敬薬師瑠璃光如来(あいぎょうやくしるりこうにょらい)で弘法大師が作ったと言われています。境内には慶弔年間に建てたとされる秋月院殿花顔桂秀大姉(しゅうげついんでんかがんけいしゅうたいし)の「へそのを」をまつったとされる碑があります。

田光八幡社(たこうはちまんしゃ)

 クスノキ、ムクノキが並んでいる静かな雰囲気をみせるこの神社は、仁徳天皇(にんとくてんのう)、応神天皇などをまつっています。境内の中でとくに大きな樹高 25メートル、幹回り7メートルのクスノキは別宮白竜大神(べつぐうはくりゅうおおかみ)のご神体(しんたい)となっており弘法大師が植えたと言われています。また境内には夫婦円満(ふうふえんまん)の木とされる、ムクノキとエノキの和合(わごう)の木もあります。

大喜寺(だいきじ)

 増益山(ぞうえきざん)と名前を付けた真言宗豊山派(しんごうんしゅうとよやまは)です。もとは高野山弥勒院(こうやさんみろくいん)の末寺で、建てられた時期はわからないが、本尊は大同(だいどう)年間(806から810年)に作られたと言われているので、奈良・平安時代までさかのぼります。本尊の大日如来(だいにちにょらい)は弘法大師が作った秘仏(ひぶつ・信仰上の理由で見ることのできない仏像)。境内に丁寧(ていねい)に置いてある大松石地蔵(おおまついしじぞう)は、もと鎌倉街道ぞいの寺山地蔵塚(てらやまじぞうづか)の大松下にあったと言われていて、平な花崗岩(かこうがん)の中央に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の座像(ざぞう・座った姿の仏像)を彫り光背(ほりこうはい)が彫ってあります。鎌倉時代の石仏としては名古屋市内でただひとつです。境内の右の築山(つきやま・人が作った山)には青面金剛像の庚申塔があり、左の築山には役行者(えんのぎょうじゃ)の行者堂(ぎょうしゃどう)があります。

白竜神社(はくりゅうじんじゃ)

 この場所より西北に田光ヶ池(たこうがいけ)がありました。昭和の初めごろに埋め立てられ、近くにあった天神山(てんじんやま)もくずされました。田光ヶ池を埋め立てるとき、いろいろな災いが起きました。被害にあった人をなぐさめるために瑞穂耕地整理組合(みずほこうちせいりくみあい)が建てました。

津賀田神社(つがたじんじゃ)

 古い木がたくさん生えている近寄りがたい雰囲気のこの社は、祭神は津賀田大神(つがたおおかみ)、天照大神をまつっています。若宮八幡(わかみやはちまん)あるいは井戸田八幡(いどたはちまん)ともよばれ、神社は古墳の上に建てたと言われています。この辺りは松の原が長くつづき長森ともよばれ「本国神名帳(ほんごくじんみょうちょう)」には従三位(じゅさんみ)津賀田天神とよばれたと書いてあります。龍泉寺から見つけられた社宝(しゃほう)の古写大般若経六百巻(こしゃだいはんにゃきょうろっぴゃくかん)は、戦災(せんさい)で十巻ほどを残し焼けてなくなりました。奥書(おくがき)によれば500から800年も昔のものであります。境内には濱神明社のものと対(つい)をなす斗帳寄進碑があります。

天聖寺(てんしょうじ)

 曹洞宗、熱田円通寺の末寺で、円通寺十四世活水昇竜禅師(えんつうじじゅうよんせかっすいしょうりゅうぜんじ)が開きました。門の前には近くの道ばたにあった石仏が、寺の預かりになって並べられています。これらは明治終わりごろに宅地化(たくちか)といっしょに、だんだんと集められたものが多いです。

貝塚(かいづか)と城あとをしのぶみち

 瑞穂区の歴史は古く、縄文時代(じょうもんじだい)にさかのぼることができます。瑞穂古墳群一・二号墳(みずほこふんぐんいち・にごうこふん)、下内田貝塚(しもうちだかいづか)、大曲輪貝塚(おおぐるわかいづか)など縄文から古墳時代(こふんじだい)の遺跡(いせき)があります。特に「大曲輪貝塚」には人骨模型(じんこつもけい)が見つかったときそのままの形で展示されています。万葉集(まんようしゅう)に歌われた「あゆちの水」には奈良時代が、その北にある琵琶ヶ峯(びわがみね)の碑では平安時代の師長(もろなが)の恋物語(こいものがたり)がしのばれます。中根三城(なかねさんじょう)は戦国時代(せんごくじだい)に建てられたものです。東八幡社(ひがしはちまんしゃ)の祭事(さいじ)で奉納される「棒の手(ぼうのて)」は戦国時代に農民の自衛手段(じえいしゅだん)としてできたとも言われています。宝蔵寺(ほうぞうじ)に建っている宝篋印塔(ほうきょういんとう)は江戸時代終わりごろ作られたもので宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を入れているとはっきりと刻まれています。「貝塚と城あとをしのぶみち」は歴史の流れの道であり、昔から今への歴史の散歩が楽しむことができます。

瑞穂古墳群・瑞穂二号墳(みずほこふんぐん・みずほにごうふん)

 瑞穂古墳群のうち一号墳は豊岡小学校内(とよおかしょうがっこうない)にあり、二号墳は野球場南側(やきゅうじょうみなみがわ)にあります。二号墳は高さ5メートル、径30メートルほどの円墳で、ほとんど元の形を残して保存されています。墳頂(ふんちょう・古墳の頂上)には円筒埴輪(えんとうはにわ)を並べていたといいます。三号墳には、今は野球場が建っており何も残っていません。地元の人たちは3古墳をまとめて三ツ塚(みつづか)と呼んでいました。

下内田貝塚(しもうちだかいづか)

 山崎川が見える段丘(だんきゅう)の上にある貝塚で、山崎川の改修工事(かいしゅう)に先立ち掘りおこして調査されました。主に縄文時代終わりごろのもので土器(どき)のほか石器(せっき)・人骨(じんこつ)などが出てきています。

大曲輪貝塚(おおぐるわかいづか)

 昭和14年(1939年)6月に見つかり、昭和16年(1941年)に国の史跡に指定されました。昭和55年(1980年)瑞穂陸上競技場改築工事(みずほりくじょうきょうぎじょうかいちくこうじ)のとき、縄文時代の人骨がほとんど完全な形で見つけられた、実物は名古屋市博物館に展示されています。瑞穂陸上競技場西側には見つかったときの形のコピーが展示されています。

あゆちの水

 尾張の名水(めいすい)で、万葉集に詠(よ)まれた「小治田(おりはだ)の年魚道(あゆち)の水」はこの辺りにあったと言われています。直径1メートル、深さ3メートルほどの井戸で、長い間雨が降らなくい日が続いても水がかれなかったと言われ、多くの人びとが使っていました。戦後は長い間荒れたままになっていました。しかし、昭和52年(1977年)に地元のボランティアの協力により今の形になりました。

中根中ノ城あと(なかねなかのしろあと)

 中根村(なかねむら)には中根北城(なかねきたのしろ)、中根中ノ城、中根南城(なかねみなみのしろ)の三つの城がありました。織田越中信照(おだえっちゅうのぶてる・織田信長の弟)の時代に建てられたといわれています。今は区画整理(くかくせいり)により昔あった姿を思い出させるものは何もありませんが、「尾張志」に、「中根村南の城の北の方一町(いっちょう・約1ヘクタール)ばかり字丸根(あざまるね)と呼ぶ地にあり、東西二十六間(約47メートル)、南北三十間(約55メートル)あり、城主は村上弥右衛門(むらかみやえもん)と府中(ふちゅう)にいえるごとし」と伝えられています。

東八幡社(ひがしはちまんしゃ)

 祭神は応神天皇です。中根村の鎮守(ちんじゅ・その土地や寺をまもる神や社のこと)として昔から人びとに大切にされています。本田遊無(ほんだゆうな)が開祖(かいそ)といわれている「見当流(けんとうりゅう)棒の手」が秋祭りのときに奉納されています。名古屋市の無形民俗文化財(むけいみんぞくぶんかざい)となっています。境内には、「見当流棒の手」の碑や神馬像(しんめぞう)が建っています。

観音寺(かんのんじ)

 浄土宗鎮西派(じょうどしゅうちんせいは)で、慶長(けいちょう)10年(1605年)開基万誉存公(かいそ ばんよぞんこう)が建てました。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)で、徳川源敬公(とくがわよしなおこう・尾張藩初代藩主)より拝領(はいりょう・貴人から物をもらうこと)したものです。観音堂には元和(げんな)8年(1622年)井戸の中から見つかったと言われる千手観音(せんじゅかんのん)が入っています。寺宝(じほう)として、円空(えんくう)が作ったと言われている善女竜王像(ぜんにょりゅうおう)があり、頭の上に龍が乗る、後背面(こうはいめん)に梵字(ぼんじ・神仏を一字で表す神聖な文字)がうすく残っています。中根南城の一部であり、昔は堀址(ほりあと・堀の土台)の跡が見られたといいます。寺の西側にある祭神が応神天皇の北条八幡社(ほうじょうはちまんしゃ)は、中根南城の鎮護神(ちんごしん)ともいわれています。

西八幡社(にしはちまんしゃ)

 祭神は応神天皇です。建てられた時期はわからないが文化(ぶんか)5年(1808年)7月本殿を立て直したときの棟札(むねふだ・建物を建てた記念に、梁などに取り付けた札)があります。中根の村が発展(はってん)し、東西(とうざい)に屋敷(やしき)が分かれ、西に氏神様八幡社(うじがみさまはちまんしゃ)を建てました。中根銅鐸(なかねどうたく)の複製(ふくせい)は、10月第3週の例祭(れいさい)と正月(しょうがつ)三が日に一般公開されています。

宝蔵寺(ほうぞうじ)

 曹洞宗です。天文(てんもん)12年(1534年)大安守公(おおやすもりこう)が建てました。昔は寺子屋(てらこや・庶民の子どもに読み書きを教える場所)があった所といわれています。境内には文政(ぶんせい)12年(1829年)に建てられた宝篋印塔があります。

中根銅鐸発見地(なかねどうたくはっけんち)

 明治3年(1870年)道をなおす工事中(こうじちゅう)に見つけられました。弥生時代(やよいじだい)のもので、銅鐸には袈裟襷文(けさだすきもん)の文様(もんよう・物の表面に装飾された図形)があります。横帯(よこおび)と縦帯(たておび)により6区画にわけられる、高さ81.4センチメートルの三遠式銅鐸(さんえんしきどうたく)の普通の形です。雷文(らいもん)があるのが特徴(とくちょう)であり、縦帯の線の模様がほとんどない形です。今は兵庫県(ひょうごけん)西宮市(にしのみやし)の辰馬考古資料館(たつうまこうこしりょうかん)が持っています。中根小学校(なかねしょうがっこう)と西八幡社にふくせいがあります。

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