ページの先頭です

ここから本文です

新たに指定・登録された文化財

このページを印刷する

ページID:158438

最終更新日:2025年10月14日

国、愛知県、名古屋市に新たに指定・登録された文化財を紹介します。

令和7年度に指定・登録された文化財

建中寺本堂

  • 種別  重要文化財
  • 指定年月日  令和7年8月27日
  • 所在地  名古屋市東区
  • 所有者  宗教法人建中寺


旧名古屋城下の東端に境内を構える浄土宗寺院で、徳興山(とっこうざん)と号する尾張徳川家の菩提寺。 藩祖義直の菩提を弔うため、慶安4年(1651)に2代光友(みつとも)が開創した。本堂は、天明5年(1785)に大曽根を焼いた大火後の再建で、尾張藩の作事により天明6年(1786)8月に上棟、同7年(1787)5月に供養が行われた。前身本堂に倣った平面は浄土宗寺院本堂に典型的な形式で、内陣(ないじん)(注1)と位牌間まわりを明確に画す凸形平面の結界(注2)、面取角柱の多用などに古式を示す。装飾など一部は増上寺寛永度本堂を参考とし、銅板巻の妻飾は当時の尾張藩作事方に特徴的な仕様である。本山寺院と比肩する破格の規模を持ち、尾張徳川家菩提寺に相応しく、内陣まわりを巧みな彫刻欄間や極彩色で荘厳した壮麗な大型仏堂である。


注1:仏堂や社殿において、本尊や神体を祀る神聖な場所

注2:内陣と外陣(げじん)を区別するために設けられる仕切り

建中寺本堂写真

建中寺本堂の写真

建中寺徳川家御霊屋(本殿・合間 ・経殿 、唐門、透塀)

  • 種別  重要文化財
  • 指定年月日  令和7年8月27日
  • 所在地  名古屋市東区
  • 所有者  宗教法人建中寺


旧名古屋城下の東端に境内を構える尾張徳川家の菩提寺。藩祖義直(源敬公(げんけいこう))の菩提を弔うため開創され、源敬公は当初本堂に祀られた。境内には、以降、代々藩主と夫人の御霊屋が新築された。当建物は本堂に代わり新たに設けられた源敬公の御霊屋で、寛政10年(1798)の建築。明治以降は建中寺に残る唯一の御霊屋となり、尾張徳川家代々の祖霊を合祀。社殿は本殿と合間、経殿からなり、正面に唐門(注1)を配し、透塀が周囲を取り囲んでいる。内外の絢爛な極彩色は保存状態が良く、意匠性に富む。入母屋(いりもや)造(注2)妻入(つまいり)(注3)で内部を上下段に分けた本殿、吹放しの合間、読経を行う経殿を複合した社殿とそれらを囲う唐門と透塀(注4)からなる構成は、建中寺特有の御霊屋の形式を堅持しており、歴史的に重要である。


注1:唐破風(からはふ)造(合掌部が丸く沿った山形をなす曲線状の破風)の門

注2:母屋を切妻(きりづま)造(本をなかばひらいて伏せた形の屋根)とし、その四方に庇をふきおろして一つの屋根としたもの

注3:屋根の側面(妻)を正面として、そこから建物に入る構造のこと

注4:内部が透けて見える塀のこと

建中寺徳川家御霊屋写真

建中寺徳川家御霊屋の写真

板絵著色杉戸絵 鶴図・芍薬図

  • 種別  市指定有形文化財(絵画)
  • 指定年月日  令和7年8月12日
  • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
  • 所有者  宗教法人相應寺
  • 員数  2枚4面 


 本杉戸絵は、表現様式から 17 世紀狩野派の作として評価され、令和 6 年度に名古屋市指定文化財となった杉戸絵(芙蓉図・花卉図・菊図)と一連の作と考えられる。欠失箇所が見られるものの、障壁画は、一面一面の作品としての価値のみならず、建築に付随する絵画総体として史料的意味をもつ。杉戸絵は障壁画の中でも特に経年劣化を免れず保存が難しい絵画作品であるが、近年、日本絵画史研究において、選択された画題や建築内での配置、大規模な画事に際して狩野派内でどのような分担がなされたかなどを総合的に検討しようとする研究に進展があり(木下京子「フィラデルフィア美術館所蔵「花鳥人物図杉戸」と城郭御殿杉戸絵の画題に関する一考察」『待兼山論叢芸術篇』50 号 2016 年、松本直子「二条城二の丸御殿の内部装飾の全体構想について——廊下杉戸絵を中心に——」『鹿島美術財団年報』36 号 2018 年、石川県立歴史博物館編『御殿の美』2023 年ほか)、伝来過程において、仮に建物の移築・再建等で杉戸絵に入れ替わりなどが生じていたとしても、作品が保存されていれば、当初の状況を復元的に考察できる可能性があることが示されている。本杉戸絵は、尾張徳川家に深く関わる寺院に伝来しており、尾張藩および尾張徳川家と狩野派の画事との関連を示す史料として、後世に残すべき作品である。

享元絵巻

  • 種別  市指定有形文化財(絵画)
  • 指定年月日  令和7年8月12日
  • 所在地  中区本丸1番1号
  • 所有者  名古屋市
  • 員数  1巻


 本作品には、社寺や遊郭などが具体的に描き込まれており、徳川宗春治世の名古屋城下の様子を知る上で欠かせない絵画史料である。展覧会にも度々出陳され(名古屋市博物館「名古屋 400 年のあゆみ」展、2010 年・徳川美術館「徳川宗春」展、2014 年ほか)、他に類例のない重要作品として認識・評価されている。名古屋市博物館では、ウェブサイト上で場面を詳細に熟覧できる画像も公開されており、既に市民にも広く親しまれている。都市の景観を描くという点では、洛中洛外図の系譜、また、桜や紅葉などの四季のモチーフが描き込まれているという点では、四季の移ろいの中に場面を展開させるやまと絵の表現方法が継承されている例と見ることができ、絵画史上も意義のある作品である。名古屋の文化史と深く関わる作品として後世に伝えるべき文化財であり、指定にふさわしい。

酒井家文書

  • 種別  市指定有形文化財(古文書)
  • 指定年月日  令和7年8月12日
  • 所在地  瑞穂区瑞穂通1丁目27番地の1
  • 所有者  名古屋市
  • 員数  58点


 今回文化財指定を検討している酒井家文書 58 点は、初代利貞が拝領した文書を中心とした、室町時代後期から江戸時代中期 にわたる家伝文書である。すでに酒井利隆編集『坂井遺芳』(1937 年)、酒井利彦編集『新修坂井遺芳』(1999 年)などで、広く学界に紹介され、学術的な価値が認められてきた著名な史料群である。その大きな特徴は、歴代の尾張の支配者からの発給文書を まとまって伝えている点である。信長発給文書は 6 通、秀吉発給文書は 8 通あり、うち永禄 10年(1567)11 月付の信長朱印状は、「天下布武」印の最初の使用例のひとつである。また、街道や堤防の整備指示といった土木事業関連文書は他に類例のないもので、織豊政権の具体的なインフラ整備施策の実態を知ることができる。今後の厳密な科学的分析をまつべき部分はあるかもしれないが、これまでのところ、信長・秀吉・家康など、著名な歴史的人物により発給された文書原本を含むとみることに特段の異論はない。従来は、名古屋市域外在住者の所蔵史料であるという理由により、名古屋市指定文化財とはなっていなかったが、名古屋市に寄贈され、そうした行政的な支障が消滅した現段階において、指定の障害となるような学術的な理由は見出しがたい。名古屋市博物館編集『豊臣秀吉文書集 一~八』(吉川弘文館)の発刊など、名古屋市は織田・豊臣期の歴史史料の研究拠点としての役割を果たすことがいっそう強く期待されている。酒井家文書の名古屋市への寄贈および文化財指定は、名古屋市の学術的な存在感をさらに高めるであろう。

 なお、名古屋市に寄贈された酒井家文書には、新旧の『坂井遺芳』には含まれない兼松源兵衛書状など、信長・秀吉・家康文書よりもさらに希少というべき近世初頭の実務的な内容をもつ文書が含まれている。これらの文書を正確に読解するには、ひきつづきみよし市酒井家に所蔵されている史料との照合が必要不可欠である。すなわち名古屋市所蔵分の酒井家文書は、みよし市酒井家所蔵分の酒井家文書の一部であるという事実を強く念頭において、行政的な枠組みを越えた連携を強めるならば、なお一層、酒井家文書の学術的・文化的な価値は増すであろう。

梵鐘

  • 種別  市指定有形文化財(工芸)
  • 指定年月日  令和7年4月22日
  • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
  • 所有者  宗教法人相應寺
  • 大きさ  総高147.0センチメートル  身高112.8センチメートル 龍頭高34.2センチメートル 龍頭幅23.0センチメートル 口径82.8センチメートル 笠径55.7センチメートル 撞座径15.2センチメートル 撞座高(下縁から撞座中心27.0センチメートル)


 本梵鐘は、林羅山の銘により、寛永 20 年(1643)9 月 16 日、初代尾張藩主の徳川義直が相応寺創建に際して発願したもので、住持は眼譽上人、冶工は藤原政長(1623から1705 年)であったことが明らかな梵鐘である。徳川義直は、林羅山の私邸に孔子廟建立の資金援助を申し出たことがあり(『徳川実紀』寛永 9 年条)、その廟の扁額も義直自らが書いたものであった。相応寺の梵鐘も、寛永期における義直と羅山の関係を知る重要な資料といえるだろう。

冶工の藤原政長は、尾張徳川家の御鋳物師筆頭を代々つとめた水野太郎左衛門家の五代当主である。政長が鋳造した梵鐘は相応寺のほか、名古屋市大須の真福寺、七寺、犬山市の妙感寺、瀬戸市の万徳寺などに納められたが、戦時の供出や空襲などにより失われ、現在では相応寺の梵鐘が政長の唯一の遺品である。

 相応寺梵鐘は、発願者、作者、制作時期、制作目的が明らかな基準作例であり、近世鋳物史を語る上で重要作として位置づけられる。よって名古屋市指定文化財とすることがふさわしい。

銅擬宝珠 五条橋所用

  • 種別  市指定有形文化財(工芸)
  • 指定年月日  令和7年4月22日
  • 所在地  中区本丸1丁目1番地
  • 所有者  名古屋市
  • 大きさ  
  1. 銘「慶長七年壬刁」「五条橋」  高72.5センチメートル(宝珠の頂点から胴の底部まで。以下同) 胴底部径38.0センチメートル 宝珠最大径34.1センチメートル
  2. 銘「慶長七年壬刁」「五条橋」  高72.5センチメートル 胴底部最大径 39.0センチメートル(わずかに楕円形に変形。短手径37.7センチメートル) 宝珠最大径34.1センチメートル
  3. 銘「慶長七年壬刁」「五条橋」  高72.0センチメートル 胴底部径38.5センチメートル 宝珠最大径35.8センチメートル
  4. 銘「慶長年壬刁」(銘に「七」がない)「五条橋」  高72.5センチメートル 胴底部径37.0センチメートル 宝珠最大径33.8センチメートル
  5. 無銘  高71.7センチメートル 胴底部径39.5センチメートル 宝珠最大径36.5センチメートル
  6. 無銘  高72.0センチメートル 胴底部径39.2センチメートル 宝珠最大径36.8センチメートル


 擬宝珠6基は、名古屋城下を流れる堀川に架かる五条橋に据えられていたもので、うち在銘4基には、名古屋城築城以前の慶長7年(1602)の刻銘があり、もとは清須城南を流れる五条川に架かる五条橋の擬宝珠であったことが明らかである。城下町ごと名古屋へ移転した「清須越し」を証するほぼ唯一の有形遺品として貴重である。また水野太郎左衛門家に伝わる絵図・文献資料から、当地の鋳物師を統括した水野家二代太郎左衛門の作であることも確認できる。以上、擬宝珠4基は、制作時期、由緒、作者がわかる点で資料的な価値がきわめて高い。

 無銘 2 基は、江戸期の擬宝珠の構造・技法を継承すべく明治期に作られたものであり、近代工芸史の解明の上で欠かすことができない。戦前まで五条橋の景観を維持してきた意匠であり、近代名古屋の都市景観を語る資料として貴重である。よって名古屋市指定文化財とすることがふさわしい。

名古屋城銅鯱(旧江戸城銅鯱)

  • 種別  市指定有形文化財(工芸)
  • 指定年月日  令和7年4月22日
  • 所在地  中区本丸1丁目1番地
  • 所有者  名古屋市
  • 大きさ  
  1. 明暦3年銘 1基 奥行36.0センチメートル 幅75.0センチメートル 高171.0センチメートル 重量113.3キログラム
  2. 万治3年銘 1基 奥行54.0センチメートル 幅86.5センチメートル 高136.0センチメートル 重量232.0キログラム
  3. 万治3年銘 1基 奥行43.0センチメートル 幅71.0センチメートル 高139.0センチメートル 重量168.4キログラム
  4. 腰鰭(部分) 1点 奥行15.0センチメートル 幅 22.5センチメートル 高129.0センチメートル 重量119.0キログラム
  5. 尾鰭(部分) 1点 奥行16.0センチメートル  幅16.5センチメートル 高129.0センチメートル 重量114.5キログラム
  6. 明治43 年追刻銘 右半身半基 奥行15.5センチメートル 横85.0センチメートル 高122.0センチメートル 重量 152.1キログラム
  7. 無銘 左半身半基 奥行15.5センチメートル 横85.0センチメートル 高117.0センチメートル 重量52.9キログラム
  8. 明治43年追刻銘 右半身半基 奥行15.5センチメートル 横83.0センチメートル 高133.0センチメートル 重量54.5キログラム
  9. 明治43年追刻銘 1基 奥行46.0センチメートル 幅76.0センチメートル 高134.0センチメートル 重量136.1キログラム
  10. 明治43年追刻銘 1基 奥行43.0センチメートル 幅80.0センチメートル 高145.0センチメートル 重量128.5キログラム


 本銅鯱 10 点は、戦災による損傷はあるものの焼失を免れた貴重な遺品である。制作時刻銘と追刻銘によって、制作時期と作者が知られ、さらに東京城(宮城・旧江戸城)から名古屋離宮であった名古屋城へ移された時期も明らかである。旧江戸城の銅鯱は、ほかにも皇居東御苑に 1基、東京国立博物館に 2 基、靖國神社に 2 基が所蔵されるが、いずれも移管の経緯が明らかでない。それに対して、本銅鯱は移管の時期に加え、名古屋離宮であったがゆえに皇居からもたらされた由緒も明快である。よって本銅鯱は、離宮期という名古屋城の近代史を語る資料ともいえる。また銅鯱 10 点のうちには、幕府御用の鋳物師渡辺正俊・正次父子の遺品を含み、様々な技法・様式をみることができる。江戸時代の鋳物師が有した技術の変遷を知ることができる点で貴重である。以上、本銅鯱 10 点は資料的価値が高いことから、名古屋市指定文化財とするのがふさわしく、保存のうえ、後世に残していくことが望まれる。

一色まつり

  • 種別  市登録無形民俗文化財
  • 登録年月日  令和7年4月22日
  • おこなわれる時期  隔年開催 令和6年は9月22日開催
  • 場所  正色学区一帯、五反田学区一帯、大蟷螂地区の一部


 一色まつりは、中川区下之一色で行われる浅間神社の祭礼で、巻藁献灯、神楽屋形の巡行、道踊りがおこなわれる。もとは旧暦 6 月に行われていた天王社の祭礼行事であったが、同社は大正 7 年(1918)に浅間神社へ合祀されている。かつては下之一色に隣接する新川を中心に行事が行われており、昭和 30 年代までは津島祭りのような巻藁船が登場した。そのため川祭りとも呼ばれていた。

  現在の祭礼で陸上に設置される巻藁屋形は、川祭りに登場した巻藁船の上部であり、古い時代の山車形態を伝えるものである。また、神楽屋形は名古屋南西部の特色を示すものであり、道踊りも近隣地域との共通性が確認できる。このような地域的な特色が維持されながら現在も盛大に祭礼行事が開催されている上に、道踊りや神楽屋形の奉納には幅広い年代の住民が参加しており、今後も継承が期待される。

 これらのことを総合的に判断し、一色まつりを無形民俗文化財として登録する。

港区南陽の神楽屋形行事

  • 種別  市登録無形民俗文化財
  • 登録年月日  令和7年4月22日
  • おこなわれる時期  10 月第1日曜日・第2日曜日
  • 場所  港区南陽学区(藤前、藤高、川原、小川、橘、茶屋、七島)


 港区南陽学区の7地区(藤前、藤高、川原、小川、橘、茶屋、七島)では、秋の氏神祭礼に「神楽」や「神楽屋形」と呼ばれる屋形を曳き出し、それぞれの地域内を巡行する。さらに遷宮祭などの特別な機会には、複数の地区が神楽屋形などの什物を持ち寄る「神楽寄せ」がおこなわれる。

 南陽学区の各地区で神楽屋形の行事が始まった時期は定かではないが、南陽地区は江戸時代の干拓事業によって陸地化した地域であり、江戸時代末に製作された神楽屋形もあることから、江戸時代に開始したと考えられる。昭和 34 年(1959)の伊勢湾台風の被害によって神楽屋形の行事も中断していたが、復興を願って行事が再開される過程で、1970~80 年代に修理、新調された神楽屋形もある。

 各地区で毎年秋に開催される行事及び不定期に開催される「神楽寄せ」は、名古屋南西部の地域的な特色が顕著にあらわれた祭礼行事と位置付けられる。さらに、周辺地域との自治的な付き合いのために、神楽屋形を再興、新造した例もあり、伝統ある民俗慣行が現在も受け継がれているといえる。近年は新型コロナウィルスの影響で中断した時期があったものの再開しており、今後も地域で継承されていくことが期待できる。

 これらのことを総合的に判断し、南陽学区をまとまりとして捉え、本行事を港区南陽の神楽屋形行事として無形民俗文化財に登録する。

港区西福田の神楽屋形行事

  • 種別  市登録無形民俗文化財
  • 登録年月日  令和7年4月22日
  • おこなわれる時期  4月春例祭、10月第1日曜秋例祭
  • 場所  新茶屋(茶屋後)地区


 港区新茶屋地区では、春と秋の祭礼で神明社境内に「神楽」や「神楽屋形」と呼ばれる屋形を出し、神楽太鼓を打ち叩く。年によっては神楽屋形を曳き出して町内を巡行する。江戸時代以来の農村地域で伝えられてきた祭礼行事で、五穀豊穣を願い、豊年祭りとして行われてきたという。

 新茶屋地区の神楽屋形は、文政 13 年(1830)に製造されたものである。旧南陽町の他地区で使用された神楽屋形と同様の年代であるため、神楽屋形行事の成立年代を確認するための資料としても位置付けられる。本体下部は、昭和 34 年(1959)の伊勢湾台風により破損したため修理されている。

 新茶屋地区で開催される春秋の祭礼行事以外にも、港区主催行事や南陽地区主催行事にも積極的に出演しており、幅広い世代が民俗芸能を習得し披露していることから、今後も地域で継承されていくことが期待できる。

 これらのことを総合的に判断し、港区西福田の神楽屋形行事を無形民俗文化財として登録する。

大森宮神楽

  • 種別  市登録無形民俗文化財
  • 登録年月日  令和7年4月22日
  • おこなわれる時期  10 月中旬の日曜日(大森八劔神社例大祭)、1月1日(大森八劔神社元旦祭)
  • 場所  大森学区、天子田学区、大森北学区、大森八劔神社


 大森宮神楽は、守山区大森地区で伝えられてきた民俗芸能である。もとは熱田神宮の神楽の流れをくむものであり、八劔神社で神楽の演奏をおこなう他、小さな神楽の屋形に締太鼓、桶太鼓を載せて「道行神楽」を演奏しながら地域を巡行する。

 大森の神楽の伝承は、名古屋市指定無形民俗文化財である大森天王祭や大森郷祭と同様に、旧東春日井郡の農村に特有なシマ(島・嶋)という組織によって伝えられたという特色があった。一方で時代の変化に応じて柔軟に伝承の組織や形態を変化させることで伝承を絶やさないようにした結果、現在まで活動が続けられている。現在では、大森地区内の3小学校の児童が参加しやすいように曲目を工夫し、3小学校での出前授業に参加するなど、幅広い世代が参加できるように取り組みをおこなっており、今後も地域で継承されていくことが期待できる。

 これらのことを総合的に判断し、大森宮神楽を無形民俗文化財として登録する。

志段味地区の提灯山行事

  • 種別  市登録無形民俗文化財
  • 登録年月日  令和7年4月22日
  • おこなわれる時期  10 月中旬
  • 場所  下志段味八幡神社境内


 守山区志段味地区(上志段味、中志段味、下志段味、吉根)では、旧暦6月や7月、盆や二十二夜、二十三夜の月待ちなどの際に、寺社の境内、お堂の前などに、提灯を山形に飾る「提灯山」を立てる行事が伝えられてきた。各地区で昭和 20 年(1945)以前に途絶えていたが、昭和期以降に復興してからは、特に夏の盆踊り行事と結びついて続けられてきた。

 下志段味地区では、平成 2 年(1990)に再興され、コロナ禍によって一時中断したが、令和 6 年に再開している。その際、八幡神社拝殿の改築による境内面積の減少や急激な人口増加に対応して、盆踊りと提灯山行事を分離して行事を継続することとなり、10 月 20 日に提灯山行事がおこなわれた。

 提灯山行事は志段味地区や春日井市などの地域でも伝えられていることから、名古屋北西部の地域的な特色を示すものといえる。

 これらのことを総合的に判断し、志段味地区の提灯山行事として無形民俗文化財に登録する。


令和6年度に指定・登録された文化財

有松・鳴海絞手括り技術

  • 種別  県登録民俗文化財(無形)
  • 登録年月日  令和7年2月12日
  • 所在地  緑区有松3405(愛知県絞工業組合)
  • 管理者  有松・鳴海絞手括り保存会

 

 名古屋市緑区の有松、鳴海地区では、江戸時代から絞製品の製造と販売が行われてきた。制作工程は、図案、型紙彫り、下絵刷り、括り、染色、糸抜き、仕上整理の順に進行 する。これらのうち最も中核的な工程の一つが、括り作業である。括り方は百数十種類あ るとも言われるが、特に古くから広範囲に行われた伝統的な手括り技術が、巻上絞(まきあげしぼり)、三浦絞(みうらしぼり)、鹿子絞(かのこしぼり)である。

下郷家住宅(千代倉本家)紅葉蔵・中蔵

  • 種別  国登録有形文化財(建造物)
  • 登録年月日  令和6年8月15日
  • 所在地  緑区鳴海町字相原町27 他
  • 所有者  株式会社千代倉
  • 大きさ  紅葉蔵 建築面積91平方メートル、中蔵 建築面積63平方メートル


 東海道鳴海宿中心部にある商家の家財蔵2棟。紅葉蔵は外壁は黒漆喰塗で腰は下見板張。二階は北面に神棚を備え太い地棟に登梁形式の小屋をみせる。中蔵は、東面下屋の南二間を紅葉蔵と一連のガラス戸を建て、北は吹放ちの土間。重厚な外観が紅葉蔵とともに商家の敷地景観を形成。

絹本著色玉照姫・ 藤原兼平中将画像

  • 種別  市指定有形文化財(絵画)
  • 指定年月日  令和6年8月8日
  • 所在地  南区笠寺町上新町76 番地
  • 所有者  宗教法人泉増院
  • 大きさ  (画面のみ)玉照姫画像 縦81.2センチメートル、横42.5センチメートル、藤原兼平中将画像 縦81.4センチメートル、横42.5センチメートル

  

 泉増院所蔵「玉照姫・藤原兼平中将画像」は、両幅ともに、裏面の「泉増院什物」「当院第八世良應法印 修幅之 正徳四年甲午二月廿八日」の墨書が示す通り、同院に伝来したことは明らかであり、また、制作年代が、正徳4(1714)年以前と判明することも貴重である。正徳4年に修理が行われたと理解できること、および、画風から推しても制作年代は17世紀前半に遡る可能性がある。江戸時代前期のやまと絵系人物図の遺例としても、また、地域の信仰、伝承を示す事例としても、指定文化財として後世に伝えるに相応しい作例である。

千手観音菩薩立像

  • 種別  市指定有形文化財(彫刻)
  • 指定年月日  令和6年8月8日
  • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
  • 所有者  宗教法人相應寺
  • 大きさ  本体 像高 65.5センチメートル 手を含む 71.4センチメートル、台座 全高 28.8センチメートル、光背 全高 81.2センチメートル 幅最大 36.8センチメートル
     

     本像は像高65.5センチメートル(頭上に伸ばした両手を含めた像高71.4センチメートル)、木造の素地に盛り上げ文様を施した檀像風の千手観音菩薩立像である。

     本像の特徴は、1素地に赤みを入れ、檀像を意識した像である点、2素地の上から盛り上げによる大振りな文様を描く点、3顔は端正ながら、裙や腰布の折り返し部の襞を大きく反転させて賑やかにあらわす点などである。とくに3の衣縁の反転を強調するのは南北朝時代から室町時代の仏像にみられる特徴である。しかしながら、頭部の十面や頂上仏面の彫りを省略して簡素であること、また盛上げ文様が大振りであること、そして何より文様それ自体が南北朝時代まで遡り得ないことから、本像の制作年代は室町時代(15世紀頃)と推定される。ただし、本像の台座・光背は像本体よりも時代の下る江戸時代後期以降のものである。

     本像は、昭和9年に京都清水寺から賜った由緒が知られ、近代名古屋の歴史や信仰を考えるうえで重要な像といえる。

    相応寺本堂・総門・山門

    • 種別  市指定有形文化財(建造物)
    • 指定年月日  令和6年8月8日
    • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
    • 所有者  宗教法人相應寺
    • 建築面積 本堂 592.52平方メートル(桁行24.65メートル、梁間22.78メートル、付向拝23.19平方メートル)、総門  27.41平方メートル(桁行07.49メートル、梁間03.66メートル)、山門  43.76平方メートル(桁行08.93メートル、梁間04.90メートル)
     

     本堂内部にみられる意匠、精緻な彫刻からは寛永期の建築の特徴がよく読み取れる優れた遺構である。また、外観と内部で邸宅風と仏堂風の各要素が混在する点、結界を廻らす内部の空間構成など、当地における浄土宗本堂の発展を知る上で重要な遺構といえる。

     総門は、伽藍正面に構えるにふさわしい木太く、安定感のある三間一戸薬医門である。この門の建立時期の特徴をよく示す力強い絵様繰形が多数施されており、またほぼ同年代の建中寺総門(慶安5年(1652)、名古屋市指定文化財)とも似た特徴を多く有している。

     山門は、単層で規模もさほど大きくないが抑制のきいた適度な装飾が施されている。柱はすべて丸柱で正背面中央間を除き飛貫・頭貫を通し、頭貫の端部には木鼻を付ける。虹梁・その下の肘木・頭貫端部木鼻の絵様繰形や、唐破風の兎の毛通しの意匠・形状に総門や本堂との類似点が指摘できる。

     以上の3建物は、移築を経て伽藍配置も変えられてはいるが、建築形式については『尾張名所図会』に描かれた姿と大きく変わることなく現存しており、経年劣化はあるものの後補の改変も比較的少なく、特に意匠面で伝統的建造物の歴史性をよく伝えている。

    大高祭り

    • 種別  市登録無形民俗文化財
    • 登録年月日  令和6年8月8日
    • おこなわれる時期  大高町一帯
    • 場所  毎年10月第1土曜日・翌日曜日


     10月の第1土曜日・日曜日に開催される氷上姉子(ひかみあねご)神社の例祭であり、大高町一帯の町内が参加する。

     大人形の「ええ猩々(しょうじょう)」を先頭に8町内から全 18 輌の花車(だ し)と呼ばれる祭り車(松車と傘鉾車)が曳き出され、囃子の演奏と共に町内を練り歩き、大高町に点在する神社を廻って氷上姉子神社に宮入する。

    紙本淡彩相応院画像

    • 種別  市指定有形文化財(絵画)
    • 指定年月日  令和6年4月19日
    • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
    • 所有者  宗教法人相應寺
    • 大きさ  (画面のみ)縦91.8センチメートル、横32.8センチメートル

     

     相応寺(名古屋市千種区)に所蔵されている尾張藩祖徳川義直の生母相応院の画像である。義直の「尾陽国主」印が押されている。

     本像は、像主をよく知るものによる制作であり、像主の近くに居たものによる制作と考えられる。また、像主を描く画風は、義直作の他の絵画と共通するものである。

     押印された印は義直が記した絵画や書に用いられているものであり、この画像は、義直筆と考えられる。本市ではこれまで藩主の作品はほとんど指定されていないことから重要である。

    紙本淡彩相応院画像 賛有

    • 種別  市指定有形文化財(絵画)
    • 指定年月日  令和6年4月19日
    • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
    • 所有者  宗教法人相應寺
    • 大きさ  (画面のみ)縦72.5センチメートル、横28.2センチメートル 

     

     相応寺(名古屋市千種区)に所蔵されている尾張藩祖徳川義直の生母相応院の画像である。

     寺伝によれば画賛ともに義直自筆という。上部の賛文は義直作であることがわかっている。義直の印はない。

     また、制作時期については、桃山末から江戸初期の着衣の様相で描かれていることからお亀の方が尼となった元和2年(1616年)以降のものであり、義直の在世期(1600年から1650年まで)の後半期制作と推定されることも、義直と本画像との関係を示す。

     本画像は、前項「紙本淡彩相応院画像」を整え、理想化した姿が明快で鋭く伸びやかな線で描かれている。義直という名古屋の文化に大きくかかわる人物の作画・賛との伝承を持つことに意味がある。

    板絵著色杉戸絵 芙蓉図、花卉図、菊図

    • 種別  市指定有形文化財(絵画)
    • 指定年月日  令和6年4月19日
    • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
    • 所有者  宗教法人相應寺
    • 大きさ  (芙蓉図・花卉図)内法 各縦176.5センチメートル、横93.5センチメートル 
           (菊図)内法 縦173.5センチメートル、横127.5センチメートル

     

     相応寺(名古屋市千種区)に所蔵される杉戸である。本杉戸は、「芙蓉図」「花卉図」各2面が表裏になっており、「菊図」は1面のみである。

     現在は庫裡の間仕切りとして置かれているが、元来の相応寺のどこにあったのかは定かではない。現在地に移転する以前に存在した建物にあったものと思われる。現在は無くなった建物に杉戸を間仕切りとした広い廊下があったことを伝え、当初の相応寺の規模を偲ばせる。 

     また、杉戸絵の描法は絵画制作者の美意識・造形力を知らしめ、江戸前期に建立された相応寺の丁寧な造りを想像させる貴重な資料であり、その規模・荘厳のあり様の一部を現在に残す作例である点が重要である。

    絹本著色当麻曼荼羅図

    • 種別  市指定有形文化財(絵画)
    • 指定年月日  令和6年4月19日
    • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
    • 所有者  宗教法人相應寺
    • 大きさ  (画面のみ)縦354.4センチメートル、横329センチメートル
           (表装裂含む)縦487.5センチメートル、横397.5センチメートル

     

     裏面墨書から本図が相応院の菩提を弔うため、正保2年(1645年)3月に伝通院(注)から相応寺に寄進されたものであることがわかる。

     全般に江戸前期の様式と考えられ、裏面墨書の年号に近い年代に制作されたものと考えられる。

     本図は江戸前期の大型の当麻曼荼羅図であり、当時の相応寺の規模をうかがわせ、伝来も明快で伝通院と相応寺との関係を示す作品である。また、江戸前期の絵画の特質を伝える貴重な作品である。


    (注)伝通院…徳川家康の生母於大の方の菩提寺

    絹本著色釈迦涅槃図

    • 種別  市指定有形文化財(絵画)
    • 指定年月日  令和6年4月19日
    • 所在地  千種区城山町1丁目47番地
    • 所有者  宗教法人相應寺
    • 大きさ  (画面のみ)縦408.7センチメートル、横364.9センチメートル
           (表装裂含む)縦478.2センチメートル、横393.7センチメートル 

     

     本図は動物の種類が多く、涅槃図に描かれる定番動物の他、身近な動物や水中動物や虫までが描かれる。虎と豹がつがいに描かれており、江戸時代を思わせる。また、馬の描写が、狩野派の絵馬の描法に近い。本図制作の制作期は、江戸前期の裏面寄進墨書年(慶安5年)に近い時期と考えられる。

     相応寺の規模の大きさを示し、かつ本図の裏面の墨書により慶安5年(1652年)に相応寺第二世により相応院の菩提を弔うため寄進されたものとしてはっきりしていることから、1600年代半ばの絵画作品として貴重である。

    紙本金地著色中国宮廷・当世遊楽図屏風

    • 種別  市指定有形文化財(絵画)
    • 指定年月日  令和6年4月19日
    • 所在地  中区本丸1番1号
    • 所有者  名古屋市
    • 大きさ  (画面のみ)縦67.7センチメートル、横241.4センチメートル

     

     右隻に中国唐時代の皇帝と美妃(おそらく玄宗と楊貴妃)、左隻に日本風俗を描く中型の屏風である。右隻の画題は、玄宗皇帝と伝説的美女楊貴妃が出会う邂逅図で、御殿障壁画や屏風における伝統的画題であったことが文献から知られる。

     本資料の価値はまず画質の高さそのものにある。とくに右隻は、相応寺(名古屋市千種区)に伝来した「相応寺屏風」と呼ばれる遊楽図屏風(徳川美術館蔵・重要文化財)と同じ筆者の可能性も考えられ、相応寺屏風と同様に尾張藩主と何らかの関係があったことが想定される。次に、右隻漢(中国)の伝統的皇帝画題と左隻和(日本)の当世風俗が、同じ工房により同時期に制作された点で、画題で制作工房を区別しがちであったという定説をくつがえす。さらに、画題の玄宗皇帝と楊貴妃の邂逅図作品は伝来例が少なく貴重である。

    このページの作成担当

    教育委員会事務局生涯学習部文化財保護課文化財保存活用担当

    電話番号

    :052-253-9278

    ファックス番号

    :052-253-9217

    電子メールアドレス

    a3268@kyoiku.city.nagoya.lg.jp

    お問合せフォーム

    お問合せフォーム

    ページの先頭へ