「熱田区誌」
熱田区政50周年(昭和62年)記念事業で作成された「熱田区誌」(昭和62年発行)には、「熱田の地勢風土」「堀川と新田開発」など熱田の歴史的変遷が掲載されています。
このページでは、区誌に記載されている「熱田の地名」について紹介します。
※熱田図書館で閲覧及び貸し出しできます。
熱田西(あつたにし)
もとの西熱田村の名からとって付けられた。
一番、二番、三番、四番、五番、六番、八番(いちばん・・・はちばん)
熱田新田開発にあたって、この土地を33の区割りとし、東から西へ順に番号を割り振ったときの名残である。現在は、一番から六番と八番が熱田区の地名として残っている。
内田(うちだ)
もと、尾張藩の東浜御殿のあったところで、明治6年(1873年)、横浜の人、内田某(なにがし)がこの地の払い下げをうけて開発し、町家となった。
大瀬子(おおせこ)
寛永10年(1633年)から承応3年(1654年)までの間に町家となった地。「セコ」とは、狭いところ、山地が迫った場所をいい、熱田でも、この地名は、高倉の森の南の土地を指していたが、後に今の地にこの名が付けられた。
尾頭(おとう)
昔、この地に城畠という所があり、古渡の豪族・尾頭次郎義次の居城があったところから、この名が起きたという説と、元来、この地は「烏頭」(うとう)と言われており、それがなまってこの地名となったという説がある。
金山(かなやま)
もとの東熱田村にあった字名の名残で、金山社にちなんで名付けられた。中世、鍛冶集団がここに住み、「尾張鍛冶発祥の地と」も伝えている。金山の地名は、各地にあり、鍛冶とのかかわりが深い。
木之免(きのめ)
昔、この土地は海中にあったが、中世末ころ、築き立てた。熱田祝詞師・田島丹後守の控え地となり、毎年、薪を神宮に調達するのを役務としたので、この名がついたという。
神戸(ごうど)
『名和抄』に愛知郡神戸、『熱田神領目録』(分和3年<1354年>)に高戸郷とあり、のちに神戸村となった。神戸とは、もともと川の渡し場や神社所属の住民の意である。岐阜市の西郊の中山道にも「合渡」宿の地名が残っている。幕末尾張の学者・津田正生は、「神戸は河門とも、船の出入りする所をいうなり」と『名古屋市史地理編』は述べている。
沢上(さわかみ)
寛政年間(1798年から1801年)、10戸ばかりの民家ができ、その東に沢の観音堂があった。ここを本沢といい、その上方に位置した地を沢上と名付けた。
沢下(さわした)
沢の観音堂のあった本沢といわれる地の下方に位置していたので、名付けられた。
白鳥(しろとり)
白鳥陵があったところから名付けられた。シロトリといえば、水田を構えることをいい、正しくは代取(しろとり)の意である。後世、日本武尊の故事になぞらえて、白鳥と意を解するようになったという。
新尾頭(しんおとう)
尾頭町が成立したあとで町家となったところから名付けられた。
神宮(じんぐう)
熱田神宮にちなんで名付けられた。
新宮坂(しんぐうさか)
もと喜見寺境内であったものを、寛政5年(1793)町家とした。新宮坂の名は、この地内の南新宮社の南の坂を新宮坂と呼んだところから、この名が起きたものである。
須賀(すか)
熱田の浜に沿った砂地、洲であったところから名付けられた。須賀とは、湿地、水辺の地を指し、横須賀、蜂須賀、大須賀などの地名が各地に残る。
外土居(そとどい)
沢上城(城畠)の外土居があったといわれるところから名付けられた。外居とは、中世の豪族や武士の屋敷の土塁のことで、空堀の上をかき上げた土居を意味する。
高蔵(たかくら)
高蔵下命をまつる高座御子神社を俗に「高蔵の社」と呼んでいたところから名付けられた。
田中(たなか)
由来については、はっきりしない。旧熱田町の中心部に位置するため、とする説もあるが、後世の解釈であろう。
室町時代、京に近い寺社へ田中より寄進の古文書があるところから、町名そのものは古い。ここの小村名に「蔵ノ前」があり、かつて公儀筋の倉があったといわれている。
玉の井(たまのい)
かつてこの地に、熱田神宮神官「玉ノ井」禅正忠正の宅地があった。慶長年間(1596年から1615年)、禅正没後、嗣子なく一門紛争したため没収され、後にこの屋敷は玉ノ井屋敷と呼ばれた。また、ここの井戸が玉の井と呼ばれたので、地名として残ったともいわれている。
千年(ちとせ)
天保年間(1830年から1844年)、ある夜正式の村名を決める寄り合いが開かれた。議論百出、決しないまま、夜が明け、戸を開けてみると輝かしい朝日を浴びる数羽の鶴がえさをあさっていた。人びとは「鶴だ、鶴は千年」と叫んだので、この名を決めたという逸話が残っている。
伝馬(てんま)
この地は昔、宿と今道の二つの道に分かれていた。慶長年間(1596年から1615年)から両道とも伝馬役を勤めたので、この名がつけられた。
中瀬(なかせ)
もと旗屋町の南の続きの地である。地蔵院所蔵の文正元年(1466年)の古文書に、中瀬刑部左衛門家親という人の名があり、ここから名付けられたとも考えられるが定説はない。正安年間(1299年から1302年)の猿投神社古文書に「神戸郷内中勢住人道家」とあり、当時は中勢と書かれていた。
慶安元年(1648年)、神宮奉納者目録に「中瀬村・森徳十郎」とあるところから、中勢が中瀬に改められたのは、江戸初期と思われる。
野立(のだて)
明治11年(1878年)、中野村と牛立村が合併のとき、中野村の「野」と、牛立村の「立」をあわせてこの名となった。
旗屋(はたや)
地名の起源は古く、もとは機綾(はたあや)と書いた。雄略天皇のとき、呉国(中国)から来た漢織・呉織の二織女の一人を神宮に奉ったのが起こりという。熱田では、もっとも古い、由緒ある地名の一つである。
南一番(みなみいちばん)
熱田新田の一番割の南に成立したので名付けられた。
森後(もりご)
熱田神宮の森の北に位置しているところから付けられたのであろう。この土地は、古く御座主または鴻の巣と呼ばれていた。御座主とは、神宮等の座主の居住地であったことに由来し、鴻の巣とは、松岡社に鴻の巣があったことから、そう呼ばれていたという。
横田(よこた)
玉の井より東一帯を横田と呼ぶ。横の田という説と、横田某(なにがし)の所有地で、その名をとったという説がある。後者の説が、あるいはほんとうかもしれない。昔、雁の名所であったという。
夜寒(よさむ)
高倉の森の南部の高台で、地名発祥の年代は不明であるが、『類題若葉集』の「松岡や夜寒の里になれて住むつるは千歳を呼つぎのはま」、『堀川百首』の「袖交す人もなき身をいかんいせん夜寒の里あらし吹くなり」など古歌にすでに散見する。
この高台に立って遠く年魚市潟(あゆちがた)、呼続浜の眺望を賞したと伝えられる。
字名から取ったと思われる地名
青池(あおいけ)、明野(あけの)、池内(いけうち)、河田(かわだ)、川並(かわなみ)、切戸(きれと)、五本松(ごほんまつ)、桜田(さくらだ)、三本松(さんぼまつ)、千代田(ちよだ)、中田(なかた)、波寄(なみよせ)、花(はな)、比々野(ひびの)、六野(むつの)
不明な地名
古新(こしん)、西郊通(さいこうどおり)、神野(じんの)、大宝(たいほう)、中出(なかで)、西野(にしの)、幡野(はたの)、南八熊(みなみやぐま)
現在はない地名(住居表示によって消えた地名)
市場(いちば)
常識的には、熱田湊の魚市に由来すると思われるが、さだかでない。この町名は古く、江戸初期を下った延宝5年(1677年)、熱田社へ古銭のコレクションを奉納した目録に「熱田市場町、橋本作左衛門」の名がみえる。310年以前に、すでに存在した町名である。
図書(ずしょ)
熱田の豪族・加藤図書助の屋敷地があったところで、それに由来する。江戸時代には、図書新田の記述が、古文書や古地図にある。
富江(とみえ)
いわゆる旧熱田の湊町地域に属し、江戸期に繁栄したところ。「江」は、入江とか湾口を意味している。
西町通(にしまちどおり)
江戸期の新田開発の中心部で、旧熱田東町に対応する地域。旧市電の工場(車庫)があった町として一般に知られている。
羽城(はじょう)
古くは葉上、端所、端瀬とも記された。もとは羽城村ともいわれたが、明治4年7月、「熱田羽城町」と改められた。もともとは、加藤図書家の築出し(出城)の意味からきたともいう。
八千代通(やちよどおり)
旧新田開発地域の1つであるが、それ以前は熱田神領地の一部でもあった。その名残か、お千代田という田圃があったといわれている。
字名から取ったと思われる地名
中起(なかおこし)、鍋弦(なべづる)