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鳴海周辺のみどころ一覧5

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このページを印刷する最終更新日:2017年11月13日

鳴海周辺のみどころ一覧5

名鉄左京山駅

昭和17年11月15日に開業。大高緑地の最寄りの駅である。戦争中に日本住宅営団(公団の前身)が神明社のある丘陵地を開発し日本車輌、名古屋造船、名機製作所の社宅が建ち並んだ。そして通勤者のために左京山駅ができた。

花井の井戸跡

鳴海城主安原備中守宗範の家臣伊勢木右衛門の屋敷にあった井戸で、桔梗が生えて花が咲いていたので花井と言われる。名泉として知られ、江戸時代は酒造用として使い、つい最近まで近くの住人の飲み水として重宝されていた。

花井の問屋場跡

東の問屋場に対し西の問屋場といい、鳴海には最初花井の児玉家が交差点西北の地に勤め、一ヶ所だけであったが江戸後期天保の頃(1830年から1844年)東の問屋場ができ、月番交替で勤めるようになった。この児玉家の当主源右衛門重辰は芭蕉の鳴海の六俳仙の一人であった。

雉本朗造博士銅像

鳴海小作争議の理論的指導者で京都大学教授であった雉本朗造博士の銅像が浦里公園の北西角に建っている。小作争議は大正6年(1917年)12月から始まり、翌年小作人と地主方と裁判になり雉本博士の永小作権の理論により裁判は長引いたが、大正12年3月和解が成立した。しかし途中博士の瀬戸内海での不慮の死があり、農民有志が遺徳を偲び、昭和5年(1930年)一望する石堀山に銅像を建立した。戦後都市化の波にのまれ区画整理され、昭和48年争議発生の地の浦里公園に移転された。

大塚古墳と赤塚古墳

大塚古墳は新海池の西岸にあった赤塚古墳群の中心、東向きの緩斜面に築造された円墳で直径20メートル、横穴式で石室(玄室)は二穴連続式で天井石は取り除かれていて側壁のみ残っている。昭和5年の採掘調査では人骨、金環、鉄鯨、須恵器等が出土した。現在は被覆されて石壁は見られない。赤塚古墳は大塚古墳の南方50メートルにあり現在は住宅に囲まれて石室(玄室)の基底石のみが残されている。

新海池

緑区は江戸時代灌漑用水が不足で各地にため池が造成された。寛永11年(1634年)頃には一度に12の池が完成し、その一つで周囲1685メートル、面積103000平方メートルの池で緑区では一番大きい。新海五平治が尽力して藩の許可を取って造成してその名が付いた。明治になるまで彼の功績を讃えて受益の農民は毎年稲一束を子孫の家に収めていた。近年、池の周りを公園として整備がなされ市民の憩いの場所になっている。

古鳴海八幡社

元は神明社で備前検地で縄除であったから室町末期以前の創建の社。明治になって八幡社と合祀されて社地は神明社で名を八幡社にした。祭神は天照大神と応神天皇である。戦後整備され社殿、鳥居、灯籠、手水場は近代化され昔の面影は無い。

桂林寺

明暦2年(1656年)真言宗の薬師堂として開山された。安永5年(1776年)八事の仏地院住職の物道和尚が隠居して薬師堂に入り曹洞宗に改宗した。明治になってから尼僧が守ってきたが今は住職がいる。戦災で全焼したが立派に再建され、「高鍬」伝説の平清盛より下賜された阿弥陀如来像が安置されている。本尊は東方薬師瑠璃光如来。古鳴海の鎌倉海道沿いにあった文政8年(1825年)の道祖神の道しるべが祀ってある。

地下鉄野並駅

野並は天白川中流左岸にあり古代から中世にかけては鎌倉海道が通る交通の要衡だった。ここで海路は舟や徒歩で対岸に渡り熱田へ、一方陸路では迂回して八事、井戸田を経て熱田方面に通じていた上野道があった。江戸時代は尾張藩の鳴海代官所の管轄で熱田の大宮司千秋家領として諸役免許の地でもあった。
名古屋市地下鉄桜通線の東南の終点駅だったが、緑区の鳴子団地を始め住宅地の玄関口で徳重方面に4.2キロメートルの延伸工事があり、平成22年度に完成した。

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