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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2020年7月22日

ページの概要:パネル展「武将と治水」を開催しています。

特別展示室

特集展示「明智光秀と羽柴秀吉」

7月18日(土曜日)から9月22日(火曜日・祝日)
明智光秀は織田信長の重臣でしたが、天正10年(1582)、京都の本能寺で信長を突如襲撃し、殺害してしまいました。光秀が謀反(むほん)を起した理由について、真相は謎に包まれています。
一方で、羽柴(のちの豊臣)秀吉も、織田家の有力家臣の一人で、光秀とは出世争いを繰り広げるライバル関係にありました。信長の死からわずか11日後、山崎の戦いで光秀を倒し、ここから天下人への道を大きく踏み出します。秀吉にとっても、本能寺の変は大きな転機になりました。
今回の展示では、光秀と秀吉は織田家臣としてどのような位置にいたのか、本能寺の変前後にどう動いたのかを振り返ります。そして光秀が謀叛を起こした理由について、近年の研究動向を紹介します。


展示構成と主な展示資料

1.足利義昭と光秀

光秀は美濃(岐阜県南部)の出身といわれます。越前(現・福井県)へ逃れ、そこでのちの室町15代将軍・足利義昭と出会い、家臣となったとされます。信長に仕えたのは永禄11年(1568)で、しばらくは義昭と信長の2人に同時に仕えるようになります。歴史の舞台に登場してきたころの光秀の行動を紹介します。
明智光秀画像

明智光秀画像(複製)
光秀の唯一の肖像画。若く穏やかな風貌に描かれる。
原資料:江戸時代前期 慶長18年(1613) 本徳寺蔵(大阪府岸和田市)

2.義昭から信長の家臣へ

光秀は義昭、信長に同時に仕えていたましたが、元亀2年(1571)ごろには、信長家臣としてのウエイトが高くなっていきます。京都の統治や、天正3年(1575)から開始された丹波(現・京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)攻めで功績を挙げ、織田家臣で最高位クラスの立場となっていった様子を紹介します。

織田信長判物

織田信長判物(おだのぶながはんもつ)
安土時代 室町時代後期 永禄9年(1566)11月 兼松又四郎宛 名古屋市指定文化財
信長が、麒麟(きりん)の「麟」の字をくずした花押(かおう、サイン)を書き込んだ書状。

惟任(明智)光秀書状

惟任(明智)光秀書状(これとうあけちみつひでしょじょう)
安土時代 天正3年(1575)7月14日付 藤宰相(高倉永相)宛 名古屋市博物館蔵
光秀が、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と名乗った直後の書状。

3.信長家臣としての秀吉

秀吉は信長家臣として、多くの戦闘に参加しました。その中でも最大の役割を担ったのが、天正5年(1577)からの播磨(現・兵庫県南西部)への出兵、それに続く毛利輝元勢との戦いです。ここでは本能寺の変が起きる直前の、秀吉の動向を紹介します。
豊臣秀吉画像

豊臣秀吉画像
江戸時代中期 享保6年(1721) 名古屋市指定文化財
甲冑(かっちゅう)姿の秀吉画像。

羽柴秀吉書状
羽柴秀吉書状
安土時代 天正9年(1581)3月5日 長谷川秀一宛
天正9年(1581)2月、信長が京都で、馬揃えを盛大に行った。秀吉はこれに参加できず、その様子を知らせてほしいとの依頼した書状。

4.本能寺の変から山崎の戦いへ

天正10年(1582)6月2日、光秀が京都・本能寺を襲撃し、主君である信長を死に追いやりました。知らせを聞いた秀吉は、備中高松城(現・岡山市)から急いで軍勢を移動させ、13日に光秀勢と山崎(現・京都府大山崎町)付近で激突しました。この間の光秀と秀吉の動向を紹介します。

本能寺焼討之図
本能寺焼討之図
本能寺で信長が襲撃される様子を、想像で描いた浮世絵。
明治 楊斎延一画
太閤記 山崎合戦ノ図
太閤記 山崎合戦ノ図
明治16年(1883) 楊洲周延画
山崎の戦いに参加した、秀吉方の武将を想像で描いた浮世絵。

5.秀吉の天下へ

天正10年(1582)の清須会議を機に、織田家臣団内での対立が激しくなっていきした。秀吉はこのころから、織田家から天下を奪う意図を露骨にあらわしていきます。そして、翌年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家を倒し、家臣団内で自分に刃向かった者を一掃します。本能寺の変からわずか1年で、秀吉が天下人となる道が、はっきり見えてくる様子を紹介します。
川角太閤記
川角太閤記
江戸時代後期 嘉永4年(1851)刊 川角三郎右衛門著
秀吉の一代記で、成立時期も古い。
賤ケ岳七本槍図
賤ヶ岳七本槍図 江戸時代後期
賤ヶ岳の戦いで、のちに「七本槍」と呼ばれる秀吉、秀長(秀吉の弟)の近習衆の活躍ぶりを描く。

6.謀叛の原因をさぐる

光秀が謀反(むほん)を起こした理由には、「信長への怨恨(えんこん)」、「天下への野望」、「黒幕がいた」など、多くの説があります。近年では、信長による四国(長宗我部氏)に対する政策転換が、光秀の行動に大きな影響を与え、謀叛の要因になったという説が有力視されています。このほかにも、光秀を謀叛に向かわせたと考えられる要因はいくつかあり、それらを紹介します。

惟任退治記
惟任退治記(これとうたいじき)
桃山時代 江戸時代前期写 大村由己著 名古屋市博物館蔵
本能寺の変の直後に、秀吉の命で書かれた軍記物語。変の前後の状況を詳しく記述する。

ただいまの展示目録

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このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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