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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2019年2月19日

ページの概要:パネル展「清正の城」を開催しています。

特別展示室 

パネル展「秀吉と城 1」 

2月19日(火曜日)から4月21日(日曜日)

秀吉は、大坂城、聚楽第、伏見城など巨大城郭を次々に建築したことで知られている。
それらは日々居住し客を饗応する空間で、豪華絢爛な内部装飾を誇っていた。
しかし秀吉は、巨城造営と並行して多くの合戦を行っており、そこでも膨大な数の砦や城を築いた。
その遺構は、険しい山や川の底、あるいは線路脇や住宅地の中にある。
本展では、それら知られざる秀吉の城のうち、とくに前半生の城を紹介する。
なお秀吉は、城、取出(砦)、要害などの言葉を用いている。ここでは大規模と思われる建物を城、小規模建物を砦と仮称する。




横山城跡の写真

横山城跡への登り道

横山城       長浜市堀部町   
姉川合戦後信長の命により横山城城番となった秀吉は、約3年間、横山城と京都、そして岐阜城を行き来し浅井側諸将調略に努めた。
北陸脇往還を見下ろす要衝である横山を奪われたため浅井氏領地は分断され、元亀2年(1571)、秀吉は浅井氏配下の佐和山城主磯野員昌を調略した。
翌3年秋、信長は横山城北の虎御前山の砦を改築して秀吉をすえ、自身は横山城を陣所とした。
元亀4年(天正元年)9月、信長は小谷城を猛攻して浅井氏を滅ぼし、横山城は不要となった。
約10年後の天正10年の本能寺変直後、秀吉は再び横山城を修築し柴田勝家攻略に備えた。
現在の横山城跡は、南北に長い丘陵の最高点(標高312m)を北郭、その南を南郭とする。
北郭は北に小谷山を仰ぎ西に琵琶湖を見下ろす展望の地で、西側に曲輪がある。
南郭は長方形の平坦面で、虎口で北入口を守りさらに複数の竪堀を巡らしている。
南郭がより発達した縄張で、天正10年の改修後の姿と考えられている。
城跡へは、南の旧石田山公園駐車場か南西の日吉神社、あるいは南東の観音寺から登る。



虎御前山の写真

小谷城中腹から見下ろす虎御前山

虎御前(とらごぜ)山城  長浜市中野町 
秀吉が二番目に管理した城が虎御前山城(砦)である。
伝説では、山中の泉から現れた美女虎御前が土地の長者に嫁したが小蛇を産み恥じて谷に身を投げた。
元亀元年6月21日、信長は諸勢を召しつれ虎御前山に一夜陣を据えた(「信長公記」)。
7日後の姉川決戦後長政が小谷城に籠城したため、信長は横山城に秀吉を置いて監視させ、
さらに元亀3年7月27日から小谷城により近いこの虎御前山砦の改修を行った。
8月9日には改修が完成し、その見事さに人々は驚嘆したという。
虎御前山跡は、なだらかな南尾根の麓から北へ、500mにわたり丹羽長秀、滝川一益、信長、柴田勝家、秀吉の陣所という曲輪が続く。
古墳墳丘を利用したもので、ふもとからハイキングコースが整備されている。
NTT電波塔北の最高地点(224m)が伝信長陣所で、虎口を有し高い切岸が北・東・西を巡る。
その北の小谷城に最も近い伝秀吉陣所は、土塁、帯曲輪、堀で守られ、石積も残る。
修築完成後しばらく信長が布陣したが、9月には横山城に移り秀吉を城番に任じた。
翌元亀4年浅井氏が滅亡すると、虎御前山城は役目を終え廃城となった。

この他、下記の城も紹介しています

小谷城、長浜城、安土城、姫路城、鎌刃城、
楽田城、羽黒城、久保山砦、青塚砦、大草城、二重堀砦、 田中砦、小松山寺砦、小口城、
大浦城、間島太閤山砦、伏屋城 、羽津城、桑部城 

「武家文書の世界」コーナーでは、「清正と城」関係の資料を展示しています。

次回予告

パネル展「秀吉と城2」

 4月27日(土曜日)から7月14日(日曜日)
 「秀吉と城 1」に引き続き、秀吉後半生の築城を紹介します。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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