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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2018年1月18日

ページの概要:中村区制80周年記念特集展示「中村今・昔展」11月11日(土曜日)から平成30年1月18日(木曜日)まで

特別展示室 

パネル展「全国制覇への道 西国編」    

1月20日(土曜日)から3月15日(木曜日)まで 

信長は、戦国期は片田舎に過ぎなかった尾張に生まれ、北、西、そして東へと兵を進め、各地に根付いていた旧勢力を侵略した。信長の広げた領土は、本能寺の変後、秀吉の手中に落ちた。そして秀吉は信長が完全には把握しえなかった四国・九州・関東東北へと進軍し、勢力を拡大した。
秀吉が掌握した領土をすべて我が物に塗り替えたのが、家康である。かれらの領土拡張のさまは、全国に残る城跡によってもたどることができる。今回は、城跡をたよりに西にむけてのかれらの足跡をたどる

金井城本丸

金井城本丸

 三重県いなべ市員弁町北金井亀谷  いなべ市指定史跡 
 三岐鉄道北勢線大泉駅から西へ徒歩10分

金井城は、永正2年(1505)頃に近江国佐々木六角氏の一族種村高盛が築いたとされる。大永2年(1522)と天文元年(1532)、美濃の土岐道誉一族に襲撃されたが、撃退したという。永禄11年(1568)、北勢に侵攻してきた信長に降伏した。その後種村秀信が城主となったが、天正4年(1576)、長島城主滝川一益により切腹させられ、種村一族は城を捨て離散した。
金井城のある通称城山は、員弁川左岸にある。鈴鹿山系北部の稜線を正面に見ながら、大泉駅から西に水田の中を進むと、大谷神社を経て円願寺に至る。円願寺西の水田脇に史跡看板があり、その奥に本丸跡が広がる。明瞭な土塁、堀切がある。

神戸城本丸天守台の石垣

神戸城本丸天守台の石垣

 三重県鈴鹿市神戸本多町 三重県史跡
 伊勢鉄道鈴鹿駅または近鉄鈴鹿市駅から徒歩15分から20分

鈴鹿は、伊勢神宮への重要な参道にあり、その中心が河曲郡(かわわぐん)の神戸(かんべ)であった。関氏系統の土豪神戸氏が支配し、鈴鹿川右岸の段丘末端に神戸城を建てていた。
永禄11年(1568)、信長の侵攻に屈し、信長三男信孝を養子に迎えた。信孝は、神戸家を継ぎ、信長にならって高層の天守を築いた。北東に小天守、南西に付櫓を配する複合連結式・五層六階の壮大な天守であった。
天正10年(1582)、本能寺変で信長を暗殺した光秀が秀吉に倒されると、信孝は秀吉と対立し、秀吉の猛攻により知多郡野間の大御堂寺で26歳にして切腹した。その後、一柳氏、天領、石川氏を経て本多氏が二万石で封じられた。
明治維新後廃城となり、天守以外の石垣は崩されて四日市港埋立に用いられたという。
現在本丸は神戸公園となり、二の丸に県立神戸高校が建てられ、三の丸はグラウンドとなっている。
公園に、豪快な野面積による天守台がそびえる。


「秀吉文書の世界」

秀吉が出した文書を1点展示し、内容や背景を探るコーナーです。

次回予告

特集展示「秀吉の家臣たち」 

3月17日(土曜日)から5月6日(日曜日)

加藤清正、福島正則などの秀吉重臣は、秀吉没後の政変により困難に直面します。
彼らの事跡を、江戸期に創作された伝説を交えつつたどります。

加藤左馬之介義明   歌川芳虎画

加藤左馬之介義明   歌川芳虎画

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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