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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2017年9月3日

ページの概要:特集陳列「天下人と神」9月16日(土曜日)から11月5日(日曜日)まで

特別展示室 

特別陳列「天下人と神」

9月16日(土曜日)から11月5日(日曜日)

秀吉、家康など天下をねらった戦国武将は、死をさとった時、神となることを望みました。
秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現となり、各地に豊国神社や東照宮が勧請されたのです。
天下人ならずとも、知勇人に優れた武将が神と同一視されることはしばしばあり、人々は、厄除けや健康、武運長久を願い、神としての武将を崇拝しました。
この展示では、神となった秀吉、家康、清正らについて、その背景をさぐり、また明治維新前後の変容をたどります。

桐紋蒔絵太刀拵(きりもんまきえたちごしらえ)の画像

桐紋蒔絵太刀拵(きりもんまきえたちごしらえ)
 大正3年(1914) 名古屋市中村区 豊国神社蔵    

今回初公開の美麗な太刀拵。大正3年に名古屋の豊国神社に奉納された。ひょうたんや桐紋など秀吉を象徴するモチーフがちりばめられている。

1 秀吉 ―豊国の大明神

秀吉は、慶長3年(1598)、病で没した。子の秀頼を盛り立てるよう、徳川家康、前田利家ら側近に遺言し、我が身については「新八幡」となることを望んだ。朝鮮出兵の最中であったため秀吉の死は伏せられ、京都東山の阿弥陀ヶ峰に社殿が極秘に造営された。翌慶長4年4月、「豊国大明神」の神号が後陽成天皇から秀吉に与えられ、社は豊国社としてその壮麗な姿を現した。
慶長20年(1615)5月、家康は豊臣家の本拠地大坂城を攻撃した。この大坂夏の陣で秀頼とその母淀君は自刃し、豊臣宗家は滅びた。二ヶ月後、家康は豊国社を廃絶し、秀吉の神号も剥奪した。秀吉はわずかな期間だけ神となり、その後人に戻ったのである。

 

豊国大明神神号の画像

豊国大明神神号
 慶長7年(1602) 豊臣秀頼筆 木下家伝来 名古屋市指定文化財 秀吉清正記念館蔵

秀吉が死去した4年後に、秀頼が書いた神号。「豊国大明神 秀頼十歳」とたどたどしい文字で記されている。
父秀吉が神であり自身がその跡継ぎであることを宣言するものである。

豊国祭礼図屏風の画像

豊国祭礼・祇園観桜図屏風(部分)
 江戸時代前期 名古屋市博物館蔵

秀吉七回忌にあたる慶長9年(1604)8月、大規模な臨時祭礼が豊国神社で行われた。本作品は、竹の子や外国人風の仮装をした人々の行列など、祭りのにぎわいを描くもの。秀吉が死後も民衆から慕われていたことを示す。

秀吉の肖像

豊臣秀吉画像(部分)
明治35年(1902) 田能村直入筆 個人蔵 

明治に描かれた秀吉画像。秀吉は、纓(えい)が左右に張った唐冠(とうかむり)をかぶっている。唐冠は中国古代皇帝の冠であり、明の征服を目指した天下人秀吉の象徴であった。
明治維新後、秀吉の復権がはかられ、荒廃していた豊国神社が再興された。本図のような秀吉を礼賛する肖像画も再び描かれるようになった。

2 清正 ―せいしょこさん

加藤清正は、片鎌槍の遣い手、虎退治の猛者、築城名人、治水の手練れなど多彩な能力で知られる。『清正記』など江戸前期に編まれた伝記によれば、尾張国愛知中村で生まれ、生母が秀吉の母のいとこであった縁で秀吉に仕え、賤ケ岳合戦などで軍功をあげ肥後国を与えられた。秀吉没後は家康に接近し、関ヶ原合戦では東軍として九州の西軍大名を攻略した。
慶長16年(1611)6月24日、清正は50歳で没した。遺児忠広が家督を継いだが治政は安定せず、寛永9年(1632)改易され、熊本藩主としての加藤家は二代で途絶えた。

加藤清正画像

加藤清正画像
 江戸時代後期 田中訥言筆 名古屋市博物館

清正は没後も名君として慕われ、さらに疫病を除け武運や治水を祈る神として信仰されるようになった。また尾張では、名古屋城天守石垣を築いたことから、天守の守り神とも考えられていた。
本図は、尾張出身の大和絵画家田中訥言(とつげん)による清正画像。剛直な風貌の清正が、蛇目紋の胴をつけ端座している。同郷の偉人への訥言の敬意をよく伝える名品である。

 

3 家康 ―東照大権現

岡崎城主の子として生まれた家康は、今川氏への服従、信長との同盟、秀吉への帰属を経て、慶長20年(1615)豊臣宗家を滅亡させ天下を掌握した。その翌年発病し、死後は日光山に社を建て自分を勧請すれば関八州の鎮守となろうと遺言した。元和2年4月17日、家康は75歳で没した。翌年、東照大権現の神号が勅命により定まり、日光の二荒山山麓に建てられた東照社への正遷宮が行なわれた。
東照社は各地に勧請され、その数は函館から長崎まで六百に及ぶ。尾張藩では、家康九男で初代藩主となった義直により名古屋城三之丸に東照社(のち東照宮)が建立された。

東照宮祭礼図巻の画像

東照宮祭礼図巻(部分)
 文政5年(1822) 森高雅筆 名古屋市博物館 


神となった家康をまつる祭礼は、4月17日を中心に全国各地の東照宮で行われた。尾張藩では、神輿と各町の山車九両が練り歩く、城下最大の祭礼となっていた。
本絵巻は、尾張の大和絵師森高雅(たかまさ)の作。絵巻制作を命じられた高雅が、藩主に提出したいわゆる伺い下絵である。自身の写生をもとに、華麗な行列を克明に描いている。
 

「秀吉文書の世界」

秀吉が出した文書を1点展示し、内容や背景を探るコーナーです。次回は、平成30年1月20日(土曜日)から展示します。

次回予告

区制80周年記念特集展示「中村今・昔(いま・むかし)展」    

11月11日(土曜日)から平成30年1月18日(木曜日) 
秀吉清正記念館が建つ中村区は、80年前の昭和12年(1937)10月1日、西区と中区の一部から分区されて誕生しました。
区制80周年を記念して、当時の地図、書類、写真などにより、江戸時代から今にいたる中村区の変遷をたどります。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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