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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2018年7月19日

ページの概要:パネル展「武将たちの眠る場所」  5月15日(火曜日)から7月16日(月曜日・祝日)まで

特別展示室 

特集展示「戦争と城」  

7月21日(土曜日)から9月24日(月曜日・祝日)
  江戸時代には各藩にあった城は、明治維新の動乱によって多くが破壊されました。
名古屋城天守、広島城天守などわずかに残ったものも、第二次世界大戦の爆撃により消滅しました。
それら失われた城のかつての勇姿と消滅の過程を、近年明らかにされた写真や記録から探ります。



「名古屋城天守閣外部修繕の図」の画像

「明治25年11月中陸軍省施工 名古屋城天守閣外部修繕之図」
   所蔵・画像提供 宮内庁宮内公文書館 一部トリミング
   

名古屋城は、初代尾張藩主徳川義直の居城として、その父家康により築城が定められた。
慶長17年(1612)に天守が組み上がり、同20年には本丸御殿も完成した。二の丸御殿や各隅櫓も整備され、御三家筆頭尾張徳川62万石にふさわしい巨城が誕生したのである。
明治維新により幕藩体制は瓦解し、名古屋城は陸軍の管理するところとなった。
明治5年(1872)、将軍用の迎賓館であった本丸御殿に、東京鎮台第三分営(のちの名古屋鎮台)が設置された。書院が参謀部、表書院上段之間が司令官室となり、将軍風呂場であった御湯殿書院は物置にされたという。
天守の鯱は「無用の長物」として明治新政府に献納され、建物は歩兵兵舎となった。
しかし、明治11年、名古屋城は「規模広壮、経営精巧なる屈指の名城」であるがゆえ永久保存すべきものであると閣議決定され、宮内省への移管が進められた。
明治24年10月の濃尾地震により、名古屋城は大きな被害を受けた。宮内省の指導のもと陸軍省の経費により修理が行われ、修理終了後名古屋城本丸部分は陸軍省から宮内省に引き渡された。
掲示の写真は、天守修理中に撮影され宮内省に保管されてきた貴重な写真。
修理監督は、明治を代表する建築家であった宮内省内匠寮建築技師木子清敬氏。木子氏は、名古屋城建造物の実地調査を行い、詳細な図面を残している。

名古屋城西南隅櫓の修理写真の画像

名古屋城西南隅櫓 修理写真
「内匠寮 弐 観菊会、名古屋城」(写真帳)より
 所蔵・画像提供 宮内庁宮内公文書館 一部トリミング

明治26年、名古屋城の西半分、すなわち本丸・西之丸・御深井丸が陸軍から宮内省に移管され、「名古屋離宮」として御料地に編入された。
宮内省は、天皇、皇后、皇太子の行幸啓に向け名古屋離宮を整備し、執務室や風呂などを本丸御殿に新設した。
さらに、離宮としての用途はない天守や隅櫓についても、順次調査と修理を行った。
掲示の写真は、大正10年から行われた西南隅櫓(現重要文化財)修理を撮影したもの。「内匠寮 弐 観菊会、名古屋城」というアルバムに貼り込められている。
日時の書きこみがあり、大正11年6月20日の撮影と思われる。小天守側から仮設の橋をかけ、壁を撤去して修理を行ったことがよくわかる。この修理により、西南隅櫓の瓦の一部は菊紋に替えられた。
宮内省内匠寮は、明治18年に設置され、「宮殿その他の建築物の保管、建築・土木・電気・庭苑および園芸に関する事務」を管掌することと規定されていた。

 

「昭和二年陸軍特別大演習愛知県記録」の口絵の画像

「昭和二年陸軍特別大演習愛知県記録」口絵
  編集・発行愛知県 昭和4年
  所蔵・画像提供 国立国会図書館 一部トリミング

 名古屋離宮には昭和20年まで50回を超える行幸啓があった。天皇が陸海軍の大元帥として全国を巡見されており、また関西方面への経由地が名古屋であったからである。
西への巡行の場合、早朝に明治宮殿を馬車で出て東京駅から御料車で名古屋駅まで乗り、名古屋城に夕刻入り一泊し、翌朝目的地に向かうのが常であった。
また陸軍特別大演習は、勅命により毎年場所をかえて行われたが、大正天皇、昭和天皇の即位直後に行われた愛知県での陸軍特別大演習では、名古屋離宮が大本営となり、両天皇は名古屋離宮に連泊され県内各方面での演習にのぞんだ。
掲示の写真は、昭和2年11月に愛知県下で行なわれた特別大演習の記録集の中の一葉。
即位されたばかりの昭和天皇が、板敷廊下に直立され、舞良戸の障子部分に掲示された生徒の書画に見入っている。11月14日頃、本丸御殿表書院の南入側を西から撮影したものと推定できる。
陸軍大本営としての名古屋離宮と大元帥としての昭和天皇をとらえた、類例のない一葉である。

戦前の名古屋城一帯の空中写真

戦前の名古屋城一帯
 陸軍撮影 撮影日時不明
 所蔵・画像提供 国土交通省   一部トリミング

昭和5年(1930)12月、名古屋離宮は名古屋市に下賜され、同時に国宝に指定された。
城郭として最初の国宝である。翌年2月6日に管理事務所が設置され、2月11日の紀元節から天守、続いて12月1日から本丸御殿が公開された。
同7年国宝建造物を対象とする調査事業がはじまり、実測と拓本作成が行われた。実測図の最終的な完成は昭和27年で、拓本貼付図も含め309枚の実測図(昭和実測図)が現存する。ガラス乾板による撮影事業も昭和15年度から始まった。

下賜後も二之丸は陸軍の管理下にあり、本丸への一般人の出入口は正門(榎多門)のみであった。
本写真は、陸地測量部が戦前に撮影した空中写真。二之丸には歩兵第六聯隊の兵舎が整然と並んでいる(明治6年建築の一棟は明治村に移築)。北側には将校集会所とその前庭が整備されている(現名勝二ノ丸庭園)。三之丸には第三師団司令部(現水資源機構中部支社等。明治21年設置の煉瓦塀が現存)、名古屋衛戍病院(明治11年建築の一棟が明治村に移築、愛知県有形文化財)、招魂社(現護国神社)、野砲兵第3連隊などが確認できる。
陸地測量部は、陸軍参謀本部の組織で、国策として日本内外の土地を測量し地図を作成した。内務省地理局を併合し、昭和前期には皇居桜田門外の旧参謀本部建物を使用していた。


 

名古屋城天守台の画像

名古屋城天守台
 「モージャー氏撮影写真資料」 昭和21年11月撮影(推定)
 所蔵・画像提供 国立国会図書館

 昭和16年、第二次世界大戦が勃発した。軍需工場が林立していた名古屋は、米軍の標的となり、米軍は名古屋近辺を写真その他によって詳細に解析した。その徹底的な調査の一端は、米国公文書館(NARA)所蔵の米国戦略爆撃調査団(USSBS の資料に知ることができる(一部が平成25年から国立国会図書館により整理・公開)。

昭和20年5月14日、米軍の第20・21爆撃軍団のB29機による空襲を受け、名古屋城の天守、本丸御殿はじめ国宝20棟が炎上した。本丸御殿障壁画とガラス乾板・実測図は、空襲直前に城内の乃木倉庫に運びこまれ奇跡的に焼失を免れた。この三ヶ月後、日本は降伏し、戦争は終わった。
掲示の写真は、、昭和21年4月から翌年1月までGHQ文民スタッフとして日本に配属されていたモージャー氏が撮影したカラースライド。天守台のみが残り青い空が広がる本丸をとらえている。モージャー氏が撮影カラースライド304枚は、国立国会図書館へ寄贈され、平成29年から「モージャー氏撮影写真資料」としてデジタル公開されている。名古屋城については、菊花大会や、畝状に耕された内堀などが撮影されている。


次回予告

特別陳列「秀吉清正記念館名品展」

10月10日(水曜日)から12月2日(日曜日)  
 名古屋市秀吉清正記念館は、昭和 42年(1967)、秀吉・清正の生誕地である中村公園に、名古屋市豊清二公顕彰館として開館しました。
秀吉と清正という戦国の名武将を記念する日本で唯一の博物館であり、関連する資料が積極的に収集されました。
名古屋市博物館の新設にともない、昭和53年(1978)、その分館になりました。
 建物は2階建てで、2階は名古屋市営の結婚式場でした。
平成元年(1989)、結婚式場が廃止され、平成3年(1991)、劇場・図書館を併設する複合施設として三階建ての中村公園文化プラザが誕生しました。
名古屋市豊清二公顕彰館は、名古屋市秀吉清正記念館に改称し、その2階に開設されました。
 50年に及ぶその歴史を顧みて、名品展を開催します。会期中展示替をいたします。


「武家文書の世界」コーナーには、「戦争と城」展関連資料を展示しています。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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