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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2019年10月15日

ページの概要:特別陳列「名古屋市秀吉清正記念館 秘蔵の一品」を開催しています。

特別展示室 

特別陳列「名古屋市秀吉清正記念館 秘蔵の逸品」 

10月12日(土曜日)から12月15日(日曜日)  
秀吉・清正の生誕地に設置された秀吉清正記念館は、2武将を記念する日本で唯一の博物館として多くの資料を所蔵しています。
今回は、今まで展示する機会があまりなかった資料を一堂に公開します。

枯木小鳥図の写真

枯木小鳥図

 葉の落ちた木にとまる青い鳥を描く。落款はないが、三代将軍徳川家光(1651年没)の直筆として近江(旗本)木下家に伝来した。木下家は、秀吉正室高台院の血筋を引く家。寛永3年(1626)実兄木下家定の孫利次が高台院の養子となり、近江野洲郡など三千石を分けられ幕臣となったことにはじまり、高台院愛蔵の秀吉遺品が伝えられた。本図や家譜などが当館所蔵品となり、平成22年、「近江木下家資料」として名古屋市有形文化財に指定された。木下家は秀吉と高台院を顕彰する一方、幕府将軍との関係を最重要視し、本図を家宝として伝えたのである。
 家光は、書画をよくし、とくに鳥の絵を好んで描いた。歴代の将軍は御用絵師である狩野派画人から画技を学んだが、家光の絵画は狩野派画法にとらわれない自由な表現のものが多い。本図の鳥は種類も特定できず写実的とは言い難いが、くるりとした丸い目やもの言いたげなくちばしが愛らしい。


鐘馗図の写真

鐘馗図

 小鬼を従える鍾馗を描く絵画で、兼松家資料の一つ。兼松家は、尾張国葉栗郡嶋村の土豪で、兼松正吉(1542から1627)が織田信長に仕え、天正元年(1573)、朝倉義景との刀根坂合戦において裸足で山中を駆け、信長から足半(あしなか・かかとのない草鞋)を与えられた。正吉は本能寺変後織田信雄に属し、信雄の没落後秀吉黄母衣衆となり、秀吉没後は家康に仕えた。関ヶ原合戦後家康四男松平忠吉に付き、忠吉早世後は、尾張藩初代藩主義直に仕えた。元和2年(1616)隠居し、六百石が隠居料として安堵された。隠居2年前に73歳で授かった四男正広(1655没)を偏愛し、隠居料と全ての家宝を正広に相続させたという。正広の子孫はそれらを守り伝え、昭和43年、足半や本図はじめ信長、信雄、秀吉、忠吉、義直、秀忠など歴代武将からの朱印状を含む40件が当館に寄贈され、平成22年名古屋市指定文化財となった。
 本図の画題鍾馗は中国唐代の伝説人物で、宮中の小鬼を捕らえたといい、疫病や災禍を退ける魔除けとされてきた。冠をかぶる図像が一般的であるが、本図のように大きな笠をかぶり片足を前に伸ばす横向きの鍾馗像もあり、中国明代に成立していた図像が日本でも継承されたと考えられる。付属の書付や兼松家の家譜によれば、文禄元年(1592)の第一次朝鮮出兵に参陣した兼松正吉が漢城の国王寝室から持ち帰ったものという。




土井利勝書状の写真

土井利勝書状

 寛永4年(1627)の正月25日付で、老中土井利勝が兼松正吉にあてた手紙。大御所秀忠に正吉が枝柿を献上したことを謝するとともに、前年の秀忠上洛において正吉の子善四郎正広が御目見したことを祝う。上洛とは、寛永3年(1626)10月の後水尾天皇の二条城行幸に向け前将軍秀忠と三代将軍家光が京都に赴いた件。兼松家家譜などによれば、同年7月25日、熱田宿の浜御殿に宿泊した上洛途中の将軍父子に、隠居後の兼松正吉と13歳の正広が拝謁した。正吉にとって大きな名誉であった。贈答に用いられた柿は尾張の名物で、「甘干柿」、「美濃柿」、「枝柿」が毎年秋冬に尾張藩から将軍家へ献上されていた。一方正吉は、その来歴から、尾張藩家臣団に組み込まれた後も将軍家への贈答を折に触れ行っていた。本書状を受け取った数か月後の寛永4年9月5日、正吉は86歳で没した。武勲に彩られ子孫に恵まれた生涯であった。





 

朝鮮国内裏陣場之図の写真

朝鮮国内裏并陣場之図

 全5枚の絵図で、布地3葉とともに箱に入った状態で昭和42年に東京の古書店から当館が購入した。箱蓋表に「朝鮮国大裏并陣場之図」、裏に「干時延享五戌辰年貞友五世之孫貞往謹而記之卒、朝鮮御陳場山川道絵図、往古高木貞友公、於其軍中而図所也、并持来茶磨一器、紫純子花色純子之幕ノ端尺余、令伝来所也、仍筥納而、備家宝物也」の箱書があり、東京雑司ヶ谷の保阪潤治氏に宛てた歴史学者辻善之助氏書簡(昭和7年5月3日消印)、展覧会出品札などが付属する。これら箱書や付属品から、本資料は、高木貞友が朝鮮出陣時に作成した朝鮮の城絵図として、延享5年(1748)、子孫の高木貞往が幕の端布などとともに箱に納め家宝とし、昭和以降保阪氏の所有となったことが知られる。
  高木貞友とは宝暦治水で知られる美濃衆高木家一族の東高木家初代貞友(1564から1659)に他ならない。箱書を記した貞往は、享保元年(1716)東高木家五代(本家貞政からは七代)となり、宝暦治水普請奉行を勤めた。東高木家の先祖書などによれば、文禄元年貞友は当時身を寄せていた甲州加藤光泰に属して第一次朝鮮出兵に参陣し、碧蹄館周辺で光奏らとともに偵察に行き、中国勢に追われたが無事退却したという。その後も首級60余をあげるなど軍功を重ね「朝鮮の王城の祭壇の幕之地」を分捕り、光奏が高麗で客死したため文禄3年帰朝した。
 本資料5枚のうち2枚は絵のみで、3枚に注記がある。「唐海へ出る川、総構えの石かき、なむ山、こむ山、おらんかいの道、ニかい門、此上下にてよろつ物うりかい仕候」などの土地に関する注記の他、「合戦談合衆、大谷刑部少、増田右衛門尉、石田治部少、生駒雅楽守、加藤遠江守、黒田甲斐守、小早川高影」、「加藤遠江衆二十騎是まで参候」、「私共も参候」などの碧蹄館の戦いに参陣した諸将や貞友自身の行動を記している。漢城近辺の地理や実情を伝えると同時に、東高木家を顕彰するための絵図と考えられる。

沈龍縄図の写真

沈龍縄図

 実在する城の図面ではなく兵学を学ぶための架空の縄張図。上杉謙信に発する越後流兵学の一派である要門流の縄張図で、要門流の基本兵学書「武門要鑑抄」巻十二品第二十四の「城取伝・城郭縄張段」に収録される、沈龍縄図と名付けられた縄張図を拡大したものである。寛文9年(1669)に佐久間景忠」が描いたと画中に記される。佐久間頼母助景忠は、要門流を大成し「武門要鑑抄」を著したとされる沢崎主水景実(1625から83)の高弟。尾州佐久間系の家祖であり、景忠の婿佐久間景次が来名し、その次子の佐久間十兵衛景矩が元禄6年(1693)尾張徳川家に召し抱えられた。景矩以降、景周、景豊、景定、景義と、佐久間家は代々尾州藩に仕えた。
 「武門要鑑抄」は、城の縄張を、蟄亀利縄、大和縄(箭竜縄)、沈龍縄、現龍縄、満字縄の五種に分けて解説している。本図は、食違虎口(食い違いに土塁や石垣を築き、側面から攻撃する)、隠し曲輪(兵を隠しおき攻撃する)など、高度な縄張を要門流門人に説くための図である。

真柴久吉公名護屋陣先手諸将操出之図の写真 

真柴久吉公名護屋陣先手諸将操出之図  

 浮世絵師月岡芳年が慶応元年(1865)に描いた三枚続の錦絵。題名の「真柴久吉」は、江戸期の芝居や浮世絵が幕府を憚り秀吉を暗示する名で、「名護屋陣」は、文禄役における肥前名護屋の秀吉本営である。しかし、海上に「周防国」の文字が刷られており、慶応元年の第二次長州征伐を暗喩する風刺的な歴史画とわかる。同年4月18日、14代将軍家茂の進発が発せられ、閏5月16日家茂軍は江戸を出発し25日に大坂城へ入った。本図に描かれた、小松の屏風の前で出兵を見おろす青年は、秀吉ではなく家茂となる。家茂の真下に将軍を暗示する金扇がある。家茂は翌慶応2年、大坂城で発病し7月20日に没した。21歳の若さであった。

「武家文書の世界」コーナーでは特別陳列「名古屋市秀吉清正記念館 秘蔵の逸品」 関係の資料を展示しています。

次回予告

パネル展「関東諸将」 

12月25日(水曜日)から2020年2月24日(月曜日・休日)
秀吉の関東制圧をたどります。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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