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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2019年12月25日

ページの概要:特別陳列「名古屋市秀吉清正記念館 秘蔵の一品」を開催しています。

特別展示室 

パネル展「関東諸将」

12月25日(水曜日)から令和2年2月24日(月曜日・祝日)

松代城(海津城)の写真

松代城(海津城)跡

武田信玄は、甲斐(山梨県)の名流武田家十八代で甲斐国を統一した信虎を父とし、大永元年(1521)要害山城(甲府市上積翠寺町)で生まれた。諱は晴信。信玄は法名である。信玄は、北信濃の拠点として長野盆地(善光寺平)に海津城を築城した。北の千曲川と南の湿地帯で囲まれた要害の地で、甲州流築城の特徴である丸馬出や三日月堀を有し、山本勘助が築城を指揮したという。 天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると森長可が領し、土塁を石垣に替えた。元和以降真田氏の本城松代城となったが、明治維新で廃され堀も埋め立てられた。


飯山城の写真

飯山城の土塁

上杉謙信は、越後守護代長尾為景の次男として享禄3年(1530)生まれた。幼名は虎千代。元服して長尾景虎、のち政虎、輝虎と改め,入道して謙信と号した。兄晴景から家督を奪い春日山城主となった。関東管領上杉憲政から上杉姓を与えられ関東管領となった。飯山城は、東を千曲川、西を山地に囲まれた平山城で、信濃の最北端である。永禄7年(1564)、謙信は信玄に対する前線基地として飯山城を修築し、同年10月1日に普請の完了を確認したという。永禄11年(1568)7月、武田軍が飯山城に攻め寄せたが、上杉方の守備隊が撃退した。天正10年(1582)以降、上杉謙信の養子景勝の居城となり、その後、秀吉家臣の石川光吉が支配した。江戸期の享保2年(1717)以降は本多氏が明治維新まで居を構えた。 丘陵上に本丸、二の丸、三の丸が南北に連続し、周囲を一重の堀が巡る。




韮山城の写真

韮山城本丸

早雲を始祖とする北条氏は、氏綱、氏康、氏政、氏直の5代96年にわたって関東で栄えた。鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため後北条氏とも呼ばれる。北条氏は、畿内から加賀・越中に侵攻してきた信長に一時臣従したが、本能寺での信長の横死後天正壬午の乱で家康らと争い、上野一国の支配権を獲得した。信長の実質的後継者となった秀吉が西国・九州を平定している間に関東攻略を進め、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野を制覇し、さらに常陸・下野・駿河の一部にも勢力を及ぼした。天正17年(1589)11月、北条方の上野沼田城主猪俣範直が秀吉側の真田昌幸の名胡桃城を占領した。関白秀吉は、私戦を禁止する「惣無事令」に違反したとしてし、11月24日、北条氏を誅伐する朱印状を当主氏直と諸大名に発した。翌天正18年、秀吉は配下の兵計21万に北条氏の諸城を包囲させ、自身も3月に出陣した。北条氏は拠点の小田原城はじめ八王子城、山中城、韮山城など主な城の修築や整備を進めた。韮山城は、伊豆半島北西の天ヶ岳北西尾根最高点(標高50m、通称龍城山)に本丸をおく山城。龍のごとく細く伸びる尾根に二の丸・三の丸を置き、東側は切れ落ち池となっている。尾根の各所に堀切と砦を設け、地形を活かした守りであった。永禄末年から、北条氏政の弟氏規が治めていた。天正18年3月29日、織田信雄を筆頭とする秀吉軍が韮山城を包囲した。氏規は3ヶ月以上耐え抜いたが、北条氏の支城が次々に陥落したため6月24日降伏した。韮山城には一時家康家臣が入り、のち天領となり城は廃された。





 

真田氏本城の写真

真田氏本城二の丸

真田昌幸は、武田家臣真田幸隆の三男で、信玄の近侍となった。天正3年(1575)兄二人が長篠の戦いで戦死したため家督を継いだ。天正10年の武田氏滅亡後は信長に仕え、本能寺変後は家康に属したが、家康が沼田城を北条氏直に与えようとしたため、上杉景勝と結び天正13年家康軍を上田城で迎撃して破った。ついで秀吉に臣従し、秀吉の命で家康に属し、長男信之を家康に、次男信繁(幸村)を秀吉に出仕させた。関ヶ原合戦では次男幸村とともに西軍に属し、上田城を死守し徳川秀忠の西上を阻止した。その咎で紀伊の九度山に流され、その地で没した。 真田氏本城は、昌幸の父幸綱が天文年間に築いたとされ、松尾城とも呼ばれる。周囲に天白城、戸石城などの支城があり、天正11年(1583)上田城を造営するまでの軍事拠点としたと考えられている。 本丸は上田市街を西に見下ろす標高890m地点にある。なだらかに北に降りる尾根に二の郭・三の郭が続き、堀切、切岸、石積みが残る。

福島正則の荼毘所の写真

福島正則の荼毘所跡

福島正則は、尾張に生まれ、秀吉に仕えた。 賤ケ岳合戦などで軍功をあげ、清洲城24万石を領した。秀吉没後家康につき関ケ原合戦で東軍勝利に貢献し、広島城49万石余を与えられた。元和5年(1619)広島城を無断修築したとして咎められ、信濃・越後国内4万5000石に減封され、信州高井野に蟄居した。翌年嫡子忠勝が早世し、越後2万5000石を返上した。寛永元年(1624)7月、正則は高井野で没した。幕府検使の到着以前に遺骸が火葬に付されたことにより、高井野藩は廃された。末子正利は3千石の旗本となったが、嗣子無く断絶した。秀吉子飼いの一兵卒から50万石の大名になり、そして一代でほぼすべてを失った悲劇の武将である。長野県高山村の田園地帯に、正則の遺骸が荼毘に付されたという史跡がある。供養塔と、傷をつけると血が噴出すと伝承されてきた杉の老木の二代目が植えられている。

「武家文書の世界」コーナーではパネル展「関東諸将」関係の資料を展示しています。

次回予告

パネル展「武将と水」 

令和2年2月26日(水曜日)から4月26日(日曜日)
秀吉の高松城水攻め、清正の肥後治水など、戦国の武将は治水土木に長けていました。水を制することが国を征することでした。今回は水に焦点を当てて戦国の城をまわります。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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