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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2019年1月8日

ページの概要:パネル展「清正の城」を開催しています。

特別展示室 

パネル展「清正と城」 

12月11日(火曜日)から平成31年2月17日(日曜日)  
加藤清正は、尾張国愛知郡中村で生まれた。
父を早くに失い、母方の親戚にあたる豊臣秀吉に仕えた。
天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦で活躍し、三千石を与えられた。同14年肥後北半国の藩主となり、熊本城を居城とした。
秀吉没後は家康に接近し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で家康側として戦い、戦後肥後一国を与えられた。
慶長16年3月、二条城での豊臣秀頼と家康の会見に臨席し、その帰路発病して6月24日に50歳で没した。
清正は築城の名手と称えられ、とくに熊本城や名古屋城の堅牢な石垣が高く評価されている。
しかし清正が築いた城は、江戸城、肥前名護屋城など数多く、また長浜、京都、大坂、江戸など各地に屋敷を構えていた。
清正の領土である熊本では、河川改修など大規模な治水事業も行っている。
本展では、清正の普請に焦点をあててその生涯を振り返る。  




佐敷城の写真

佐敷城 平成30年11月撮影

薩摩・肥後国境に近い佐敷は、交通の要地で、相良氏と島津氏の攻防が繰り返されていた。
天正15年(1587)の秀吉の九州征伐により佐々成政が一時統治した後、天正16年、清正の領地となった。
清正は島津氏への押さえとして新たに佐敷城を築き、加藤重次を城代とした。
朝鮮出兵後、佐敷城は拡充され、慶長5年の関ヶ原の戦いでも島津軍に対する加藤家の拠点となった。
元和元年(1615)の一国一城令により廃城とされ、天草乱後さらに破壊された。
昭和54年に石垣の一部が発見され、発掘調査を経て史跡整備が進められている。
最高地点である本丸の南に石垣で囲まれた曲輪が続き、東側大手には、高い石垣を設けた枡形門が続く。



熊本城の写真

熊本城 平成30年11月撮影

 関ヶ原合戦後の慶長6年正月、清正は江戸に参府し熊本城の建築を願い出た。
慶長11年には本丸がほぼ完成し、大小二天守、本丸御殿、櫓類を複雑に配する熊本城は、名城として天下に知られた。
しかし、完成から5年後の慶長16年、清正は50歳で没した。
寛永9年(1632)、二代藩主忠広が山形一万石へ改易され、加藤家は熊本城から追われた。
加藤家の肥後統治はわずか二代で終わり、小倉藩から細川家が入城し幕末まで存続した。
明治維新後天守や本丸御殿は焼失したが、多くの櫓や門が江戸期のままの姿で現存した。
平成28年4月の熊本大地震により城内は激しく損壊し、東十八間櫓なども倒壊した。
現在復興作業が進められ、周囲を一周できるようになっている。

加藤家江戸上屋敷跡の写真

加藤家江戸上屋敷跡

 江戸幕府成立にともない、諸大名は江戸城周辺に屋敷地を与えられた。
加藤家の江戸上屋敷は、江戸城南西の高台である桜田にあり、眼下には堀を隔てて桜田門があった。
屋根には桔梗紋の金瓦を葺き、玄関から書院まで金貼付の豪華な障壁画で埋められていたという。(「参考落穂集」等)。
寛永9年(1632)の二代藩主忠広の失脚にともないこの豪華な上屋敷も破却され、彦根藩井伊家上屋敷となった。
明治以降は陸軍に接収され参謀本部となり、現在は国会議事堂前庭となっている。


 

「武家文書の世界」コーナーでは、「清正と城」関係の資料を展示しています。

次回予告

パネル展「秀吉と城」

 平成31年2月19日(火曜日)から4月21日(日曜日)まで
 晩年の秀吉は、巨城や屋敷を毎年のように作っていました。
そのほとんどは地上から姿を消しました。
わずかに残る跡から、秀正の普請を振り返ります。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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