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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2017年4月18日

ページの概要:パネル展「全国制覇への道 東国編」5月28日(日曜日)まで

特別展示室 

パネル展 「全国制覇への道  東国編」

4月19日(水曜日)から5月28日(日曜日)まで
 豊臣秀吉は、尾張国中村で生まれました。織田信長に仕官し、頭角を表し若くして近江の長浜城を与えられました。天正10年(1582)、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、攻撃していた高松城から京へ戻り光秀を倒し、信長の実質的な後継者となります。さらに紀伊、四国、越中、九州を次々に制圧しました。そして天正18年(1590)3月から、小田原城をはじめ関東地方に点在していた北条一族の諸城を大軍で攻撃し、4ヶ月後には壊滅させました。天正18年のこの一連の戦いを小田原合戦、小田原征伐などと呼んでいます。
 戦場を駆け回る一方、秀吉は、関白・太政大臣に就任し、豊臣の姓を朝廷からたまわり、また検地や刀狩などの政策を実施し、名実ともに天下を掌握しました。
 今回は、秀吉の全国統一の最終段階である小田原征伐について、城跡を中心に紹介します。

鉢形城跡

鉢形城跡を流れる深沢川

 鉢形城は、 荒川右岸の絶壁上に築かれた平山城。縄張内外に荒川支流の深沢川が蛇行し、四十八釜と呼ばれる急峻な淵を形成している。この川筋を堀として利用し、崖上の平坦面に本曲輪を置き、二の曲輪・三の曲輪・笹曲輪など多くの曲輪を巧みに配していた。
 天正18年5月19日、秀吉は、上杉景勝、前田利家、浅野長政ら総数3万5千人の大軍に鉢形城を攻撃させた。鉢形城を守るのは、北条三代氏康の三男氏邦(うじくに)。氏邦は、3千人というわずかな兵卒を統率利し、開戦から約一月籠城した。6月14日、城兵の助命を条件に氏邦は降伏し、鉢形城は廃城となった。
 現在、発掘調査の成果をもとに馬出や堀、土塁の復元整備が行われ、鉢形城歴史館が外曲輪に建てられている。
八王子城 

八王子城 御主殿への虎口

 八王子城(現東京都八王子市)は、標高445mの城山に建てられた山城。北条氏康の三男氏照が、天正年間に移り整備した。
 天正18年7月24日、秀吉配下の上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら1万5千人が八王子城を襲った。当時、城主以下主だった家臣は小田原城に参陣しており、八王子城は、城代横地吉信と守備の兵、領民など約3千人が守るに過ぎなかった。堅固な名城であったにかかわらず、八王子城は猛攻により一日で落城した。氏照正室をはじめとする婦女子は自刃、あるいは城山川の滝に身を投げたと伝えられる。小田原城を守っていた氏照は、7月11日、兄の氏政とともに切腹した。
 合戦後八王子城は廃され、一帯は幕府直轄領となった。当時の建造物は一切ないが、石垣類がよく残存しており、城主一族の居所であった山腹の御主殿跡を中心に史跡整備がされている。
 御主殿は、櫓門、曳橋、虎口などで守られていた。虎口は幅5mに及ぶ石畳状の階段で、その上に広がる平坦地に主殿や会所が並び、庭には優美な池が掘られていた。一方本丸があった山頂には、史跡入口から急な尾根を約50分登る。複数の曲輪が自然地形を利用して配され、道には深い堀切が作られていた。

 

 

 

 

「秀吉文書の世界」

秀吉が出した文書を1点展示し、内容や背景を詳しく紹介するコーナーです。
今回は、山崎家盛あての朱印状を解説します。
展示期間 4月19日(水曜日)から5月28日(日曜日)まで

豊臣秀吉朱印状の画像  

豊臣秀吉朱印状  
桃山時代 天正19年(1591)5月2日付 秀吉清正記念館蔵
名古屋市指定文化財 木下家資料
小田原征伐の翌年、秀吉が、山崎家盛に摂津有馬二万石を与えるもの。

次回予告

パネル展「愛知の城」 

 5月30日(火曜日)から7月17日(月曜日・祝日)まで
愛知には、知られざる城跡が多くあります。今回は、三河の城を中心に紹介します。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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