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名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室

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このページを印刷する最終更新日:2016年9月4日

ページの概要:パネル展「名古屋の城 緑区・守山区編」開催中。10月2日(日曜日)まで。

特別展示室 

パネル展 名古屋の城 緑区・守山区編

9月6日(火曜日)から10月2日(日曜日)まで
交通の要衝であり平野に恵まれた尾張の地には、中世期から多くの土豪が居館を構えていました。戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉らの名将が戦いの拠点を築きました。その大半は戦乱が続くなかで廃墟となり、江戸時代以降は大名の居城としての城郭は名古屋城だけになりました。さらに第二次世界大戦末期の空襲により、名古屋城の天守や本丸御殿も焼失しました。現在、創建時の姿のまま名古屋に残る城郭建築は、戦火を免れた名古屋城の隅櫓と門しかありません。それでも、戦国城郭の遺構が各地に残っています。今回は、大高城跡、鷲津砦跡、丸根砦跡などの城跡を写真パネルでたどります。

大高城 空堀

大高城 空堀

名古屋市緑区大高町字城山    JR東海道本線「大高」駅下車 国指定史跡
 大高城の築城年代は明らかでないが、南北朝期には館があり、室町時代の永正年間には花井氏、つづいて水野氏が居城したと伝えられる。当時は城のすぐ西側まで海がせまり、知多半島への出入り口を抑える重要な地であった。
 天文年間には織田信秀の支配下にあったが、信秀が没し子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、大高城は義元の配下となった。信長は、大高城と鳴海城の間に丸根砦や鷲津砦を築き、大高城を包囲した。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いがはじまると、大高城にこもる鵜殿長照に松平元康(のちの徳川家康)が兵糧を届けたが、今川軍が敗北したため元康は岡崎城に引き下がり、大高城は織田家に戻った。その後廃城となり、昭和13年(1938)、本丸、二の丸跡などが国の史跡に指定され、大高城跡公園として整備された。本丸の西側には内堀が残り、堀を渡るための土橋も確認できる。

「清正文書の世界」

武将の文書を1点展示し、背景などを詳しく紹介するコーナーです。学校団体見学時などご覧いただけない場合がありますので、ご了承ください。

加藤清正書状

加藤清正書状
(慶長8年)5月13日 兼松又四郎(正吉)あて   

  展示期間 9月6日(火曜日)から10月2日(日曜日)まで
   清正が、信長以来の「尾張衆」であった兼松正吉(まさよし)にあてた書状。正吉は関ヶ原の合戦以降、尾張清須城主となった家康の四男・松平忠吉(ただよし)に仕えていた。内容は、清正が病気の忠吉を見舞った際、厚遇を受けた礼を述べたもの。清正は5月9日に京都の伏見屋敷に着き、11日におそらく京都にいる忠吉と会っている。「乍次(ついでながら)」というのは、京都での別用があったか。正吉はこの時忠吉の元にいなかったと思われるが、清正は正吉に忠吉への謝礼の言付けを託している。清正も正吉も、官位に差はあれど同じ尾張出身で信長時代から各支配者に仕えた「同世代」であった。また、家康の娘婿である清正にとって忠吉は重要な姻戚であり、丁寧な文面には徳川方への配慮もにじんでいる

次回予告

特別陳列「秀吉伝説」

10月8日(土曜日)から11月23日(水曜日・祝日)まで
魅力的なエピソードでいろどられた太閤秀吉。しかし、そのどれが真実なのでしょう。秀吉在世時や没後の史料により、秀吉の実像にせまります。

このページの作成担当

教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25

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