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緑のまちづくりフォーラム(平成29年10月22日)

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このページを印刷する最終更新日:2020年4月1日

開催内容

開催日時

平成29年10月22日 午後1時30分から4時30分

場所

国立大学法人名古屋工業大学 NITech Hall(ナイテックホール)

参加人数

110人

テーマ:鶴舞公園のルーツを探る-「つるま」か「つるまい」か-

基調講演

テーマ:博覧会造園と鶴舞公園-近代洋風公園の誕生-

講師

名城大学農学部教授 丸山 宏さん


トークセッション

テーマ:”つるま”か”つるまい”か-鶴舞公園のルーツとこれから-

コーディネーター

名古屋学院大学 現代社会学部学部長・教授 井澤 知旦さん

パネリスト

名城大学農学部教授     丸山 宏さん

OASIS都市研究所代表   杉野 尚夫さん

公園史研究家        富屋 均さん

名古屋出身タレント      大東 めぐみさん

名古屋市緑政土木局緑地部長 今西 良共

基調講演 丸山 宏さん

【はじめに】

丸山さんの写真


 鶴舞公園は100歳になったときに、国の登録記念物になりました。
 都市整備の方法の一つとして、万博を開催することにより、都市の中に新しい空間、公共空間が新たに造られてきました。もう一つは、公園を整備し、又は公園がある中で博覧会を開催して、様々な施設を設け残していったという方法がありました。鶴舞公園も、そのように造られた公園です。

【博覧会と都市計画】

 1867年のパリ万博では、シャン・ド・マルスという練兵場を会場の一つとして開発しました。ナポレオン3世の命令で、オスマンというセーヌ県知事がパリの改造を手がけました。近代都市計画をすることをオースマニゼーションといいますが、言葉として現代に残っています。
1900年のパリ万博は、今までの万博史の中で最大と評価されていますが、ここでも動く歩道みたいなものを電力でつくったりして、産業をアピールするところだったようです。パリ万博会場は公園としてではありませんが、広場がつくられ、ここにある幾つかの施設が今も残っています。有名なエッフェル塔は1889年のパリ博のときにできています。



【博覧会と公園】

(ハイド・パーク)
 ハイド・パークでは、王室庭園を、新革命以降に市民に開放されていく過程で、ロンドン博覧会の会場となりました。
 博覧会の目玉施設として水晶宮(温室)がありました。産業革命後、鉄とガラスの大量生産ができるようになった時代に、ガラスを多く使った温室を展示することは画期的なことでした。
 ロンドン博の目的は、国威発揚でした。王立委員会がロンドン博を考え、コンペを出し、当選したのが、設計者となったジョセフ・パクストンです。
 パクストンは、1853年のニューヨーク博でも水晶宮に近い温室を造りました。こうしたインパクトが博覧会にあったのです。

(ジャクソン・パーク)
 1893年のジャクソン・パークで開かれたシカゴ・コロンビア博において、公園設計に関わったのが、アメリカ造園界の父と言われているオルムステッドです。
 ジャクソン・パークは非常に湿地が多く、公園というにはふさわしくない。そこでオルムステッドは、以前から公園計画づくりを求められていたこの地で万博の開催を算段し、アメリカ大陸400年記念の博覧会会場にしました。人工雲をつくって、建築を白色で統一したので、後にホワイト・シティと呼ばれ、いわゆる都市計画における都市美の最初の運動に影響を与えることになりました。

(フォレスト・パーク、リーグアイランド・パーク)
セントルイス博はフォレスト・パークで開催されました。赤字でしたが、ここも万博をやることによって様々な施設ができました。
フィラデルフィア博は1926年、リーグアイランド・パークで開催されました。アメリカ独立150周年記念なのに非常に小規模な博覧会となりましたが、それでも残された施設ができました。



【国内の博覧会と公園整備】

 国内でも明治9年に宮城博覧会が桜ヶ丘公園で、明治12年に長崎博覧会が長崎公園で行われましたが、単なる催し物で終わりました。
 国を上げて勧業する、全都道府県のものを展示した第1回内国勧業博覧会が上野公園で、初めて行われました。これは当時日本で一番大きかった博覧会です。
 博覧会施設の中心は美術館です。美術館、博物館、特に美術館というのは博覧会では重要な施設でした。勧業博覧会の第1回から第3回までは、東京の上野公園を使いました。そのせいか、上野公園は今も、美術館、博物館が残され、また新たに作られていくということが文化として続いています。
 内国勧業博覧会の第4回は、京都にある、後の岡崎公園となる場所で開催しました。東京開催から切り替えるにあたって、平安遷都1100年記念祭というのを抱き合わせにし、共同開催としたようです。
 岡崎公園は1904年開設ですが、前年の大正天皇ご成婚記念を契機に動物園を整備し、京都動物恩賜動物園ができました。そうしたことがきっかけになって、博覧会の施設をそのまま使い、岡崎公園は文化施設をどんどん造っていきました。
第5回内国勧業博覧会は、大阪の天王寺公園で開催されました。会場全域を公園にせず、新世界の土地を売り、通天閣はエッフェル塔をモデルに造り、更にそれを売却して、公園整備に充てました。



【日比谷公園】

 近代都市では、公園が都市施設の一つのシンボルであったと言えます。明治36年、大阪で第5回内国博が開催されていたときに日比谷公園が開園しました。日比谷公園は官庁街にあって、ヨーロッパを歩いた日本の政治家たちは、国内の都市にも中央公園、セントラル・パークの設置を要望したようです。日比谷公園を設計した本多静六は、林学を学んだ学者で、ドイツに留学し造園関係の図書をどんどん持って帰国しました。今の東大にも図書が残っています。その一つであるマックス・ベルトラムというドイツの造園家の著書が役に立って、平安神宮の設計をした伊東忠太が日比谷公園の設計作業を持て余し、本多静六に代役を頼み、彼が引き受けて、短時間で仕上げたようです。



【博覧会と鶴舞公園】


 鶴舞公園の計画は、明治17年頃です。吉田区長が知事に選ばれ、精進川の改修がきっかけで公園をつくることとなりました。改修で出てきた土砂を熱田兵器廠の敷地を埋め立てて残ったものを利用したとされていますが、私は元々そういう計画だったのではと推察します。ちょうど名古屋市が地域拡張をしているところ、どんどん名古屋市が大きくなる中で、御器所村の一部を地域に拡張して、そこに公園をつくっていきました。
 当時、後の鶴舞公園になるところには松林の丘があったとされ、背後に確かにため池があったと記載されている文書があります。ここで次に出てくるのは博覧会、格は落ちますが共進会の開催となります。
 第10回関西圏連合共進会というのが鶴舞公園で行われました。3府28県で、関西と言いながら東京府が入っていますし、関東の県が幾つも参加しております。だから、共進会といっても、かなり大きな博覧会でした。
会場造りは、本多静六と鈴木禎次が設計したということになっておりますが、私は、本多静六は監修の役目で設計作業に関わってないのではと推察します。それを裏付けるものとして、大阪内地新聞の大正9年11月6日発行版に、本多が寄稿していた「民衆のための庭園」記事に、“公園のための公園は、私が明治36年に日比谷公園を洋風のものに設計したのが最初である。その後、大阪の天王寺、名古屋の鶴舞公園と、公園らしいものができてきた”とあります。本人が設計したと書いていないので、実の設計者は鈴木貞次と推察します。鈴木貞次は、名古屋中部圏でかなりの建築家として活躍された方でした。
 大正4年の名古屋市史の中にある計画では、鈴木禎次が設計した噴水塔や奏楽堂をそのまま使って、少し斜めの「パテルア」を立てます。同じ時期、1910年、明治43年にイギリスで行われた、日英博覧会の図面を鈴木禎次が参考にしたのではと推測します。
 次に紹介するのは、公園改良方針調査委員会地方公園調査報告で、東京市が自分たちの東京、帝都の公園を今後考えていく上で、他の公園を調査させた報告書です。調査報告書では最初に鶴舞公園に入ってきます。2番目が兼六公園、続いて奈良公園、京都の円山公園、京都の岡崎、大阪の天王寺公園、中之島、箕面公園、岡山の後楽園、厳島公園、広島の比治山公園、そういう公園を調査しながらどういう状況かを細かく報告しています。
 大正6年の資料では、図書館の予定地、動物園の予定地、野球場、小運動場、ブランコやシーソーなどの今でいう遊具で遊ぶ機械運動場などがあります。そして聞天閣、金閣寺に似た貴賓館としてつくられたものがあります。面白いのは、ソテツの山で車回しみたいにしている部分があります。敷地の一部に下水道工場をつくって、いわゆる土管をつくり、土管置き場にしていたこともわかります。噴水塔の南側は花壇、奏楽堂の前には多行松といって根元から何本も分かれているアカマツを植えていたとか、そういうことがわかるのです。
 愛知県のほうの写真帳だったと思いますけども、胡蝶ヶ池、右側は鈴菜橋、鈴菜橋も、このときは木造だったようです。ビアホールというのが当時流行ったようで、ビアホールの建物、金閣寺、銀閣寺をパビリオンとして造ったみたいで、そういうものもあります。その後、昭和3年に大典記念名古屋博覧会が鶴舞公園で行われ、造られた施設が残っております。



【現在の鶴舞公園に思うこと】

 現在の鶴舞公園は、日比谷公園に比べて利用が盛んで、かなり市民の中心にあると思います。しかし、植栽管理が十分でなく、文化財として非常に貴重なものが棄損される恐れのあることに少し気をつけなければと思います。
 鶴舞公園が8年前に文化財(登録記念物)になったときに、文化庁は名勝でもいいと言われました。登録記念物と名勝地とは随分格が違うのですが、名古屋市内にある国の名勝は、名古屋城の二之丸庭園しかなく貴重なのです。だから、私は鶴舞公園を是非名勝にして、もっと発信できたらと思っています。名勝にするにあたり、かつての文化庁は、いろいろ形状を変更することに否定的でしたが、最近はもっと緩やかに文化財を残していって活用してもらうという方向性を持っています。
 鶴舞公園は色々な施設もあるし、多くの市民が集って楽しんでもらえて、こういうものが都市の中では非常に重要な要素だと思いますが、造園の立場からすると、植栽管理を良くしなければと思います。これは利用者の皆さんにも考え方を少し改めてもらってはと提案します。例えば、花見の際、京都の円山公園では桜の下に、ゴザ(畳表)、あれを敷くのです。ゴザだと桜の根元が湿気で蒸れないのです。
 公園はセキュリティが非常に重要です。見通しが悪いと犯罪も起きやすい。ヨーロッパには「ディアライン」というものがあります。公園をより良くするには、見通しの確保も必要だと思います。
 鶴舞公園は洋風な部分と日本庭園の部分があって、日本庭園というのはそれなりの維持管理密度が必要です。皆さんも、そういう目で見てください。日本庭園は、護岸の石組みが非常に重要です。それが見えないぐらいにツツジ類が被っていると、本来の庭園の良さを表現できません。皆さんには、厳しく、公園の持ち主という目で見てもらいたいです。名古屋市の公園の中で、いつまでも鶴舞公園はトップだと思っています。手入れがずっと続いて、いい方向になるようにと思います。



トークセッション

トークセッション会場の様子

トークセッション(以下敬称略)

井澤さんの写真

【井澤】
 公園の歴史を踏まえながら、貴重な都市の資産である鶴舞公園をどのように使いこなし、名古屋の質を高めていくか、これからの話も含めて議論していきたいと思います。
それでは最初に、杉野尚夫さんから、何で「つるま」と「つるまい」が分かれたのか、ご説明をよろしくお願いします。

杉野さんの写真

【杉野】
 鶴舞公園の名前についてですが、明治42年11月19日の名古屋市告示で鶴舞公園が正式に公園になり、その時「つるま」公園とつけたために、今日まで続く問題のきっかけとなりました。名前の由来に関する俗説として、まずは1つ目に、元々鶴舞という漢字はなく、カタカナの「ツルマ」「ツル間」、水が流れる間の「水流間」、これがあって、公園ができた時に縁起のいい漢字を当てて鶴舞公園とした。漢字から、「ツルマイ」と読むようになったという説。
もう一つが、「つる」はもともと水が流れると書いて「つる」と読むのであると。だから「つるま」は水が流れる間、だから「水流間」または「ツル間」と書くべきだという説。
 まず漢字がなかったという説に対する反証として、江戸時代の地誌の中で、精進川にある橋の架かっている所を鶴舞と書いてあり、このほかにも2回鶴舞と書かれていることから、江戸時代には鶴舞の漢字があったとわかります。
 次は読み方です。明治15年の「愛知県郡町村字名調べ」という貴重な資料に、字名として西鶴舞(ニシツルマイ)、東鶴舞(ヒガシツルマイ)と振り仮名をつけており、「つるまい」と明治15年には読まれていたとわかります。
 もう一つ、水流間説というのは、九州に水が流れると書いて「水流(つる)」と読むと地名があり、漢字は「水流」ではなく「鶴」がついたけれど、もとは「水流」からきているという説。ところが調べてみると、九州以外では、「つる」という地名で「水流」という漢字を見つけられませんでした。なので、「水流」は九州に限られた話だろうというのが私の結論です。
 鶴舞という字名は江戸時代からあり、明治には「つるまい」と読んでいた。読み方をなぜ「つるま」としたかが謎。これについて私の説2つを紹介します。
一つ目の説です。地元の人はこの公園のことを「つるみゃあ」公園といいます。そこで名古屋の人ではない人がふりがなをつけたから「つるみゃあ」と言われて、それを「つるま」と仮名を振ったという説です。
それから二つ目の説ですが、告示の担当者が、間違えて「い」を落とした単純な話ではなかろうかと。これは推定です。
 最後に、鶴舞公園を管理している名古屋市みどりの協会のホームページに水流間の説が書かれているため、私が本を出した時には、「名古屋市のホームページにこう書いてあるから、杉野さんの説は間違っている。」とあちこちから言われましたので、このホームページの責任は大きいと思います。以上です。


【井澤】
 この名前の問題は議会でも何か話題になったという話で、このフォーラムが開かれたという話もありますが、行政としてはどうでしょう、今西さん。

今西の写真

【今西部長】
 公園の名称というのは市民の方が元々親しんでいる中で、告示が出てきます。告示行為には、区域、名称、位置、それから供用開始の時を定めており、今の読み方が告示という行為を経て、市民の方々に、親しまれている部分もあると思います。
 公園の名称を変える、変えないは、あるかもしれませんが、漢字はあくまでも鶴と舞。今の都市公園を告示するときにルビを振ることはないので、当時なぜルビを振ったのか意図がひも解けない。担当者が間違えたとか、諸説あると思います。つるま公園、つるみゃあ公園、つるまい公園、皆さんがそれぞれ親しんでいる公園の呼び方をしていただければと思っております。


【井澤】
 杉野さんは、読み方を直すではなく、間違った説が広まっているというのが気になるところだと。杉野さんどうでしょう。


【杉野】
 「公園の名称を変えろ。」などと一度も言ったことはありません。108年も使ってきましたから「つるま」公園でいいです。ただ、「つるま」から変な説が出ているのが許せない。みどりの協会は正しい説明にしてほしいということだけです。


【井澤】
 続きまして、鶴舞公園の歴史を振り返るという観点で、富屋さんが公園の歴史を研究されておられる方ですけども、いかに鶴舞公園は市民に愛されてきたのかということを、発表していただきたいと思います、お願いします。


富屋さんの写真

【富屋】
 鶴舞公園は明治43年から設計しまして、大正元年にやっと工事が始まりました。
 名工大の前身の高等学校で教授をされていた、鈴木禎次さんが設計を主にやられ、監修を本多静六さんがされたようです。大正6年に補修した図面が残っており、それが初期の鈴木禎次さんの設計に近い図面だと思います。一番大きな特徴は軸線で、噴水塔からガードの中央に向かって結ばれていますが、奏楽堂から噴水塔に関しては、そこから折れています。他にも、温室や展望台等、建築的な要素がありました。入口からの軸線は素晴らしい景観で、軸線の園路の幅員は約18間(約32m)と、とても広く、噴水塔と奏楽堂を一番良く見せる案を考えたのだと思います。
 次に狩野力さんという人が、名古屋市の初代公園課長になり、わずか4カ月で亡くなられてしまった方です。この方が公園の機能について面白いことを述べていまして、公園の防災的な役割という防災機能。それから体を鍛えるという体練機能。次に、自然な物を見る場として自然科学の実物教育所。それから、公徳心の試練所や上品な趣味の涵養所。こういう公園の役割の元、骨子の決定をしていくわけです。ほかにも鶴舞公園の利用者数調査では、大正14年5月1日に、1日で8万1,500人と書いています。最多の同時滞在者数が2万3,493人。また、新聞社主催の競輪大会では、7万5,000人といわれる公園利用者がいたということです。
 大正から昭和にかけては、鶴舞公園はすごく活用されていました。市長の退任式と園遊会、明治天皇が亡くなった時の大喪の儀とか、遥拝式等皇室の行事。それから野球大会、陸上競技大会。他にも、奏楽堂では演奏会、野外演劇や政治集会等も行われていました。
 まとめとして、大正時代の鶴舞公園の活力源としては、散策とか眺め重視の欧米型公園であったこと。ビスタ(見通し)の効いた気分よく豪快な眺め、自然に人が利用したくなる気持ち良さ。それから自由に使える芝生広場を設けたこと。加えて、集客力の高い動物園の併設。あと大正の頃は立派な花壇がありました。それと軸線が折れたことで、何か堅苦しいさが取れて、なじみやすかったのではないかという気もします。


【井澤】
 先ほど鶴舞公園の特徴としてデザインの良さ、例えばビスタが途中で折れているところが、緊張感をほぐしているとか、そういうデザインとかについては、丸山先生、ご専門の立場から見ていかがでしょうか。

丸山さんの写真

【丸山】
 狩野力が昭和9年に亡くなられたのが、非常に残念なのですが、鈴木禎次はヨーロッパに行き園芸関係の花壇を取り入れたいと思い、それを引き継いだ狩野力は、その考えを理解していたと思います。その後引き継いだ、野間守人が、彼らのデザイン性とどう関連したかというのも、とても気になるところです。
 デザインの点でいうと、ヨーロッパの太い軸線のデザインは、馬車を通し、それに乗った貴族階級の人たちの着飾りを庶民が見に行く場であったようです。なので、日本における鶴舞公園の魅力というのは、ヨーロッパの物とは違います。一般の人が自由にできるという意味で、デザインはヨーロッパだけど、中身は非常に日本的なもの、それを公園として発展させていった。愛される公園としては、現在では街区公園とかを自由度を持って利用できる地域もあり、名古屋市も積極的にやっていただいてますが、その中に鶴舞公園等の大きな公園があったらいいなと思います。


【井澤】
 どうもありがとうございます。
 それでは次に、大東さんから、日常生活や女性目線、それから子育て目線等で見た、公園にどうあってほしいかをコメントいただきたいと思います。

大東さんの写真

【大東】
 現在住んでいる、東京都世田谷区に砧(きぬた)公園という大きい公園があります。そこが自転車で、10-15分のところにありまして、天気のいい週末はお母さんたちで集まってピクニックをしながら、子供たちは野放しにして、自分たちは話しに一生懸命という時間を毎週過ごしています。
 私、長男、次男と2人子供がいるのですけども、長男の時は忙しくて、公園と触れ合う時間がなかったのですが、次男の時はゆったりと子育てができています。その中で公園が持つ役割というのが大事なものだとすごく感じています。
 公園というのは1人でも、親子でも、グループにとっても居心地のいい場所になると思います。そして、社会見学や、公徳心、社会的な順番とか生き物への思い、季節により咲く花、それから避難場所にもなる。町の中ではビルが乱立していて空が塞がっていますけど、公園に行けば開けた、大きな空を満喫できる。生きているエネルギーを満たせる場所だったりもすると思っています。
OLさんや、会社員の方が会社の机ではなく、公園で食べたいと思う気持ちをくすぐる公園であってほしいと思います。
私は、公園でお母さんたちにヨガを教えることもありますが、最後にシャバアーサナと言う、両手両足をおもいっきり広げる体勢があります。なかなかそうできるヨガスタジオは少ないけど、公園にはあります。そうした広い敷地のある公園はものすごく大事で、うれしいときも悲しいときも、公園は全てを受けとめてくれる場所だなと思っています。
 公園は生きている場所ですので、大切に思いやりを持って接してほしい。「つるまい」「つるま」という話もありましたけれども、どちらの読み方でも公園に対する思いは、同じであってほしいと思っています。


【井澤】
 どうもありがとうございました。公園というのは、誰にでも居場所を提供してくれる。そういう場所が住みやすさ、暮らしやすさを高めるということにつながっていくのかもしれませんね。富屋さん、これからも市民に愛される鶴舞公園、何をすればいいですか。


【富屋】
 ハードの部分が気になって、市民が誇り得るべき公園ですけど、竜ヶ池も含めて和のほうが弱い。それから花壇がほとんどなくなってしまいました。今は花壇がなく、芝生広場的な使い方をしています。花見の時に見ていたら、整形式のバラ園の北側で花見をいっぱいやっていました。丸山先生も言われていましたが、桜の木の真下へ行くよりも、芝生広場があってもいいなという気はします。


【井澤】
ありがとうございます。杉野さんは、どう思われますか、これからの公園、鶴舞公園のあり方。


【杉野】
 公園にはいろんな効果があり、災害避難場所は利用の効果ですけど、存在効果というのが非常に大きいです。公園があるから生き物がそこで生存できるだとか、温度や湿度をある程度コントロールしている、そういう役割が公園にはあります。それ以外にもいろんな効果がある。公園の存在効果は特に都市の中心部では非常に大きなウエイトがあるので、公園利用のためにどんどん施設をつくっていきますと、存在効果を損なってしまう。その辺のバランスをとりながら、つくっていくことが大事だろうというのが1つです。
 もう1つは公園の周りがとても大事で、大正、昭和のころは、今の鶴舞の交差点の付近がかなり大きな町を形成していました。その町と公園が相乗効果を発揮してさらに、人を呼んでいました。そういった町全体として考えなければいけないのかなと感じています。


【井澤】
 公園のあるまちづくりは、広いエリアで考えていく必要があるなということだと思います。ありがとうございました。続きまして丸山先生、これからについてはどう思われますか。


【丸山】
 鶴舞公園の将来を考えるときは、国の名勝を目指してほしいと思っています。やはり文化財であるという意識で整備していくことが可能だし、そのためには何が要るかと。日本庭園に熊沢山や吉田山の間に流れがあり、今は水が流れていませんが、そういうものを再整備していくと。これは行政が鶴舞公園の保存活用計画も、やっていくべきだと思いますね。文化財としての意識を持ちながら、活用のために自由度も持たせるといいと思います。緑の文化を資産として活用するには、文化財としての価値を高めていくというのが重要で、ぜひ名勝指定していただきたいと思っております。
 それと、メリハリをつけた整備が必要で、どの公園にも同じ分配をするのではなく、歴史的な質を高めるという方向性も要るのではと。今西部長は、うんうんと、言ってくれますけど、行政としてはなかなか難しいのかもしれませんね。


【井澤】
 ありがとうございました。ご指名ありました今西さん、行政としてこれからどういうふうに取り組んでいくのか、方向性としてどうでしょうか。お願いいたします。


【今西】
 公園がそれぞれ持つ、文化財的な魅力や、景観の維持、日本庭園としての魅力、いろんなものがあると思います。1,400ある公園が、全部同じではない、それをどう見極め高めていくかが、1つはあると思います。
 それから空間があると要望もたくさんあり、物を入れたくなる。これも、何でも物を入れればいいのではなく、利用機能、存在機能等を見極めて、どうバランスをとっていくか、行政が考えを持つべきだと思っています。
 それから、居心地という話が出ましたが、サードプレイスという言葉があります。ファーストプレイスは自分の自宅。セカンドプレイスは学校や会社等。サードプレイスになるべきものが、喫茶店ではなく、公園であるべきだと思っています。ですからサードプレイスとして、どう居心地のいいものにしていくかというのが、我々に課せられたこれからの責務だと。人を集めるのではなく、人が集まるような場所にしていく努力をしていく必要があるのかなと思います。


【井澤】
 どうもありがとうございます。サードプレイスといえば、スタバがそれを目指しているらしいですけど。スタバですよ。どっちが強いのか楽しみですね。
 最後に一言。鶴舞公園に対してエールを送っていただけたらなと思いますので、大東さんから順番にお願いいたします。


【大東】
 名古屋人の心に残るそんな公園であってほしいなと。また、名古屋の人だけでなく、ポケモンをやっている人や、コスプレイヤーにも観光客にとっても、いろいろな人に利用をしてもらえるような公園で、東京に住んでいる私に「鶴舞公園ってどんな公園?」って聞かれたりするくらいの公園になっていってほしいなと思います。


【富屋】
 鶴舞公園は全国に誇るべき、風格ある歴史公園です。この素晴らしい空間を形が崩れないよう、質の高い維持管理・整備をしてもらいたいなと思います。台風が直撃するとヒマラヤスギが倒れないか心配なので、そろそろ散髪(剪定)をしてもらえればと思います


【杉野】
 昭和区長のころ、区民まつりや成人式でも大勢の人に利用されていました。公園施設というよりも、名古屋市の歴史遺産として、市民の皆さんで守ってもらいたい。変な改造をせず、今の風格を保ったまま、これからの108年を繋いでいってもらいたいなと思います。


【丸山】
 市民の方に鶴舞公園のファンクラブや歴史案内人になってもらい、いろいろとやってもらえるといいなと思います。市民の皆さんには、ボランティアでもいいし、「なごやかベンチ」などでもよいので、どこかで鶴舞公園への思いを表わしていただき、また行政にもそういった仕組みづくりを進めていってもらえるといいなと思います。


【今西】
 鶴舞公園の資源をきちんとした資産にしないといけません。今、私達が管理している鶴舞公園は、今の子どもたちが、将来持つべき資産を一時的に預かっているという考え方でないといけないと思います。市民の皆さんには、講演会などで知り、学び、またボランティアに参加する等、鶴舞公園に関わっていただければと思います。


【井澤】
 ありがとうございました。
 最後のところは、市民自身が関わって守り育てていくという視点がないと、行政だけでは108年も続いてこなかっただろうと。市民に愛される鶴舞公園、100年、200年持たせるために、積極に関わって育てていこうということだと思います。
 ということで、これをもって緑のまちづくりフォーラムを終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました

アンケート結果(回答者78名)

お住まい・性別・年代

参加者のお住まいについて集計結果グラフ

市内  65名
市外  10名
他県  1名
無回答 2名

参加者性別の集計結果グラフ

男性 52名
女性 26名

参加者の年齢集計結果グラフ

10代    0名
20代    2名
30代   12名
40代   11名
50代   11名
60代   24名
70代以上 18名

基調講演の内容について集計結果グラフ

満足         34人
概ね満足     33人
少し物足りない 10人
物足りない     1人

トークセッションの内容について集計結果グラフ

満足       42人
概ね満足    28人
少し物足りない  3人
物足りない     0人
無回答       5人

今後開催してほしいテーマについて集計結果グラフ

公園の活用 48
子育て支援  6
市民協働   19
街路樹    25
緑の保全   31
生物多様性 23
その他     3
 ・園芸福祉     ・指定管理後の公園の効果
 ・堀川沿いの緑化 ・東山動植物園の歴史

歴史比較展示パネル

歴史比較写真と航空写真比較

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