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「富田のカグラ」再発見

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このページを印刷する最終更新日:2019年3月9日

ページID:75833

「富田のカグラ」再発見(平成27年10月4日から11月7日の取材記録)

1 趣旨

 昭和56年3月、名古屋市教育委員会発行の「名古屋市内の山車と神楽民俗文化財調査報告書」によれば、富田支所管内には春田、豊治、千音寺、長須賀(西前田学区分離前)の4学区に11基のカグラがあることとされているが(なぜか同報告書には豊治学区について江松以外の4基の『カグラ』が掲載されていない)、富田支所として、これら貴重な文化資源についての写真等、何らの資料も持っていないため、今回、春田、豊治、千音寺、長須賀、西前田の5学区に現存する『カグラ』12基を取材した。

追記:赤星学区の七所神社へ追加で取材(平成29年3月24日)

2 カグラ屋形について(平成13年3月発刊の新修名古屋市史 第9巻民俗編から引用)

(1) カグラ屋形とは

 市内の西南部、かつての農村には、『カグラ』とよばれる有形の屋形を所蔵するところが多い。その構造は、切り破風の祠形をした屋形の全体に彫刻を施し、さらに金箔で飾ったものである。(中略)
 カグラは本来、獅子舞に使う獅子頭を安置し、移動させるための祠であった。(中略)古くは墨書銘や記録などにより「獅子屋形」または「獅子神楽屋形」とも呼ばれたことが明らかで、略されて「神楽屋形」から『カグラ』と呼ぶようになった。神楽はもともと無形の芸能であるが、この地方では有形の屋形をカグラというのである。


 名古屋の西部から旧海東郡にかけての地域では、その屋形の豪華さをムラごとに競うようになったことから、その装飾が非常に発達した。それはこの屋形がムラのシンボルとなり、近隣とのムラ付き合いにおいて、中心的な役割を果たすことになったからである。このカグラがないと一つのムラとして認められなかったほどである。(中略)
 カグラがムラ付き合いにおいて不可欠となったのは、現在の港区、中川区、中村区、熱田区における新田地帯であった。この地域では、かつての大字だけではなく、小字までがカグラを所有したほどである。(中略)


 以前は市内の西南部だけで140基あまりのカグラが分布していた。しかし、太平洋戦争と昭和34年の伊勢湾台風でなくなったばかりでなく、その後の高度経済成長により忘れられた存在となり、今では壊れたまま蔵に納まっているところが多くなっている。それでも使用が可能と思われるカグラは、港区(35基)、中川区(29基)、中村区(6基)、熱田区(1基)のあわせて71基に及んでいる。(以下略)

※ 名古屋市内のカグラ(神楽屋形)の数は、「名古屋市内の山車と神楽民俗文化財調査報告書」によれば、港区(35基)、中川区(24基)、中村区(10基)、北区(3基)、守山区(1基)の計73基となっている。

 

(2) カグラの構造と製作地

 一般的な神楽屋形の構造は、屋形と長持、この二つの部分に分けることができる。

 屋形は切破風の屋根を四本の柱で支え、厨子や社殿に似た様式である。金箔を施した彫刻を屋根の上や破風などにあますところなく置き、棟の両端には鯱を載せている。四本柱の中へ獅子頭を安置することが、本来のカグラの機能であった。しかし、四本柱にも龍や獅子の彫刻を巻き付け、その空間へ何も納めることのできないほどに彫刻を置く屋形もある。そして、屋根の四隅からは仏壇で用いるような豪華な瓔珞(ようらく)を吊り下げる。屋形は、長持とよばれる長方形の台上に、棟を正面を向けて載せている。


 長持は一方に引き戸がついた台で、その上の前部に屋形を載せ、後方へ太鼓を置く。長持の周囲には猩々緋の油単、太鼓には胴巻きとよばれる太鼓被覆を巻き、その中央には、中に綿を入れた黒色の太い二本の紐を、下から巻いて上部で縛り、二本の角が立っているようにする。
 屋形を載せる台のことを長持とよぶのは、もともと大神楽などが獅子舞に使う道具を入れた長持から来ていると思われる。獅子頭を安置する屋形が発達する以前は、長持の上に簡単な祠様のものを置き、その中に尊い獅子頭を納めていた。(中略) 長持の上部中央に一本の釣り棒を通すのは、それを人が担いだからである。そのままだと屋形の安定が悪く、横へ倒れてしまう恐れがあるため、長持の中へ石臼や石などの重しを入れて重心を低くした。このように人の力でカグラを運んだ当時は、釣り棒の前後に二人ずつ、両横に介添えが付いたので、六人で担当したのである。今では道路も舗装されて良くなったので、リヤカーまたは特製の台車を造り、その上に屋形の棟を正面に向けて載せ、山車のように曳いている。(中略)

 

 このカグラがいつから登場したのか定かでないが、獅子頭を納めることから、本来は大神楽を象徴するものであった。だから屋形自体は古くからあったことは確実のようであるが、文献史料から証明することはできない。現存するカグラ屋形は文化年間以降に製作されたものが多い。(中略)
 これらのカグラ屋形を製作したのは、名古屋城下の橘町(中区)周辺に多くあった仕立屋ともよばれた今の仏壇屋であった。すなわち名古屋仏壇の影響下でカグラ屋形が生まれてきたのである。江戸時代後期には名古屋の名物ともなった。(以下略)

 

(3) カグラ太鼓

 名古屋市の西南部に分布するカグラ屋形と、他の地域で見られる同様の屋形と大きく異なるのは太鼓である。つまり太鼓の音だ。太鼓はカグラ屋形を置く長持の後方上へ載せ、形態的には宮太鼓ともよばれる長胴太鼓で、鋲打ち太鼓である。普通は神楽太鼓とよばれ、大きさは尺二寸が多く、太鼓の皮には牛を使う。

 このカグラ太鼓も、屋形の豪華さに劣らず大いに発達した。太鼓の音色でムラごとに競争したのである。太鼓は、木の桴(ばち)で皮面を強く打てば大きな音を出すことができるが、この地方では甲高い音にするため、その皮の張り方に工夫凝らした。すなわち、太鼓の皮を張り続け、その皮が破れてしまう寸前で、鋲を打って止めたのである。特に周辺のムラからカグラが一堂に集まる行事である「カグラ寄せ」などでは、その場だけ太鼓が高く鳴れば破れてもかまわないというぐらい強く張った。これは太鼓職人の腕の見せどころであった。(中略)
 たいへん強く太鼓の皮を張るため、皮の表面に弾力性がなくなっており、普通のバチで叩いても音がしない。このため、太鼓のバチは竹を細く割って整えたものを使用している。(中略)

 カグラの太鼓は長胴太鼓と締太鼓、この二つの太鼓を調子よく一人で打ち分ける。締太鼓は長胴太鼓に向かって左側下へ取り付け、打者はその正面に立つ。長胴太鼓が甲高い音になると、締太鼓も強く締めるようになった。つまり、特製の皮を調整するだけでなく、紐で締めていたものを、さらに高い音が出るように、ジャッキともよばれるボルトを数本使って締めるのである。皮の張りがあまりにも強いため、祭りが終わるごとに小鼓のように皮の張りをゆるめている。

 屋形の移動に伴い、太鼓の叩き手は歩きながら打つ。いわゆる歩行打ちだ。笛吹きも太鼓叩きと一緒に歩きながら吹いている。カグラが地区内を廻り、あらかじめ志がある家では太鼓の音が聞こえると門先に出て、「花」とよばれる御祝儀を祭礼の関係者に渡す。そのために廻ることを「花寄せ」ともいう。屋形の屋根下四隅にある瓔珞の環に糸を張り、そこから細長い紙に金額と氏名を書いて垂らし、披露しているところが多い。カグラ屋形が異動披露板になる。

 太平洋戦争前までは、特色ある叩法の太鼓名人もたくさんいたので、その音色だけで誰が叩いているか分かったという。また笛の達人も何人かいた。曲目は「前ケ須」と呼ばれる曲だけを行っているが、かつては数曲あったと言われている。盛んであったカグラの太鼓も、太平洋戦争と伊勢湾台風後は一時途絶えたところも多かった。それを市内の若者へ精力的に伝えて祭りを復活させたのは、下之一色の西川新次郎で、彼から太鼓の教えを受けたところも多い。その弟子たちで尾張新次郎太鼓保存会を組織している。(以下略) 

 

3 概要 

※ 以下の表の地域区分については、昭和56年3月、名古屋市教育委員会発行の「名古屋市内の山車と神楽 民俗文化財調査報告書」との対比をしやすいように、同書の『神楽の保存状況一覧』に載っているカグラについては、同一覧の地区名(町名)を一部引用している。

春田学区

春田学区のカグラ
地域区分所属神社概要
上ノ割熱田社熱田社境内の専用の神楽堂の中に保管されている。10月第一土日が祭礼。今年は土曜日に町内曳き回しを行い、日曜日は子ども会による子ども獅子と午後から餅つきを行った。若い担い手が不足していて大変だが、子どもたちの思い出作りも兼ねて頑張っている。
下ノ割太神社太神社境内の専用の神楽堂の中に保管されている。10月第一土日が祭礼。若い担い手が不足しているため、蔵から出しての虫干しのみ。太神社は元々戸田川沿いにあったが、平成9年9月に現在地(支所南方)に移転した。

 旧春田の地域は、上ノ割・中ノ割・下ノ割の3つの地域に分かれており、以前はそれぞれにカグラを所有していたが、中ノ割のカグラは太平洋戦争に伴う空襲で焼失してしまっており、現在は、上ノ割と下ノ割の2地域のカグラのみが残されている。

<上ノ割>

  • 上ノ割のカグラ1
  • 上ノ割のカグラ2
  • 上ノ割のカグラ3
<下ノ割>
  • 下ノ割のカグラ1
  • 下ノ割のカグラ2

豊治学区

豊治学区のカグラ
地域区分所属神社概要
供米田神明社神明社境内の専用の神楽堂の中に保管されている。平成27年は10月10日(土曜日)が祭礼。神明社でお祓いののち町内を曳き回し。併せて子ども会による子ども獅子も実施。カグラ太鼓は尾張新次郎太鼓。
かの里神明社神明社南側の専用の神楽倉庫の中に保管されている。10月第一日曜日が祭礼。神明社でお祓いののち町内曳き回し。併せて子ども会による子ども獅子も実施。カグラ太鼓は尾張新次郎太鼓。
榎津三輪社三輪社境内の専用の神楽堂の中に保管されている。平成27年は10月12日(月曜日・祝日) が祭礼。三輪社でお祓いののち町内曳き回し。併せて子ども会による子ども獅子も実施。カグラ太鼓は尾張新次郎太鼓。

江松
中わけ

神明社豊治消防団詰所西隣の専用の神楽倉庫の中に保管されている。10月第一日曜日が祭礼。神明社でお祓いののち町内曳き回し。併せて子ども会による子ども獅子も実施。カグラ太鼓は尾張新次郎太鼓。
富永神明社神明社境内の専用の神楽堂の中に保管されている。10月第一日曜日が祭礼。神明社でお祓いののち町内曳き回し。併せて子ども会による子ども獅子も実施。カグラ太鼓は尾張新次郎太鼓。
<供米田>
  • 供米田のカグラ1
  • 供米田のカグラ2
  • 供米田のカグラ3
<かの里>
  • かの里のカグラ1
  • かの里のカグラ2
  • かの里のカグラ3
<榎津>
  • 榎津のカグラ1
  • 榎津のカグラ2
  • 榎津のカグラ3
<江松 中わけ>
  • 江松のカグラ1
  • 江松のカグラ2
  • 江松のカグラ3
<富永>
  • 富永のカグラ1
  • 富永のカグラ2

千音寺学区

千音寺学区のカグラ
地域区分所属神社概要
市場の割八幡社はとり中学校北側の旧服部消防団倉庫の中に保管されている。10月第一日曜日が祭礼。八幡社でお祓いののち旧服部地域内曳き回し。併せて子ども会による子ども獅子も実施。カグラ太鼓は尾張新次郎太鼓。
<市場の割>
  • 服部のカグラ1
  • 服部のカグラ2
  • 服部のカグラ3

長須賀学区

長須賀学区のカグラ
地域区分所属神社概要
長須賀 八幡社八幡社北側にある長須賀会館脇の神楽倉庫の中にカグラが完全な形で残されている。飾りの彫り物も京都五条の橋の上での弁慶と牛若丸との戦いを扱った橋弁慶を中心に源平合戦をモチーフにしたものと思われ、お化粧直しもされているため、きらびやかで立派なカグラである。但し、平成12年10月の区画整理に伴う八幡社の移転式典の時に曳き出されて以降は出されていない。
本前田不明

本前田町公民館東側の倉庫の奥にカグラの屋形と長持のみが保管されている。地域の古老の話では、このカグラは過去90年の間に一度だけ遷宮祭の時に曳きだされたところを見た記憶があるのみとのこと。屋根の鯱を始めとするカグラの装飾も外されたり剥落しており、担ぎ棒や台車はない。併せて馬道具(バドン)の飾りと思われる鞍や幕等が残されており、これは富田地区の他の地域では見られなかったもので、この地域の特徴といえる。

西前田秋葉社?秋葉社・薬師堂西側の西前田集会所の中にカグラの屋形と長持のみが保管されている。以前は個人宅の敷地内に神楽堂が建てられていたが、現在地に移された。飾りは中国の故事を思わせる彫り物とともに、龍と獅子を多彩にあしらった立派なカグラであるが、戦後一度も曳きだされていないということで、残念ながら色はくすみ、飾りも何か所か剥落してしまっている。担ぎ棒や台車はない。
川原新田 不明獅子頭のみ残っておりカグラは既にない。
<長須賀>
  • 長須賀のカグラ1
  • 長須賀のカグラ2
  • 長須賀のカグラ3
<本前田>
  • 本前田のカグラ
  • 本前田の馬道具の飾り1
  • 本前田の馬道具の飾り2
<西前田>
  • 西前田のカグラ1
  • 西前田のカグラ2
  • 西前田のカグラ3
  • 西前田のカグラ4

西前田学区

西前田学区のカグラ
地域区分所属神社概要
脇新田秋葉神社秋葉神社境内の専用の神楽堂の中にカグラの屋形のみが保管されている。中国の故事を思わせる彫り物が施されており立派なカグラであるが、長持や台車はなく、数十年来曳き出されていない。
<脇新田>
  • 脇新田のカグラ1
  • 脇新田のカグラ2

赤星

赤星学区のカグラ
 地域区分 所属神社概要 

北の割

中の割 

 七所社

 七所社境内の専用の神楽堂の中に保管されている。毎年5月5日と10月第2日曜日が祭礼。明治24年に造られたものだと思われる。屋根には金鯱、牛若丸と弁慶の対決、源平合戦のありさまが造られ、屋形の周囲には唐獅子や龍等が精緻な彫刻でうめられている。平成14年5月に現在の神楽堂に移される際に曳き出されて以降は出されていない。

 市場の割

南の割

 赤星神社 赤星神社境内の倉庫内に保管。昭和55年に赤星神社に神楽堂が建てられ、それ以降赤星神社の宝物となっている。現在は祭礼の際に出さなくなり、年々存在を知っている人が減っていっている。
 赤星学区(旧地名:千音寺)には5台の神楽があったが、昭和20年5月17日に太平洋戦争の空襲により3台が焼失した。戦後は残りの2台の神楽も、昔の様に曳き出さなくなり祭礼当日に神楽堂より出すだけとなった。現在は七所社のカグラのみ祭礼当日に見ることができる。

<七所社>

  • 七所社のカグラ(正面)
  • 七所社のカグラ(側面)
  • 七所社のカグラ(屋根)
  • 七所社のカグラ(神楽堂)

4 取材後記

 富田地区のカグラは、「富田村史」「富田町史」「富田のあゆみ(名古屋市合併30周年記念誌)」にも写真や記事がなく、またその製作時期に関する何らの資料も残されていないことから、名古屋市の文化財としても指定されていおりせん。
 しかし、今回現存しているカグラを全て写真に収めることができ、また、その豪華さ・立派さを改めて目にすることで、往時のこの地域の隆盛の様を垣間見た気がしました。昔は地域の若い衆が、いきときっぷで、お互いにムラの名誉と威信をかけて競うようにして担いで練り歩いたんだろうな、などと想像すると、地域に根付く若者が減ったことなど様々な事情はあるにせよ、こうした貴重な文化遺産が次世代に受け継がれず、やがては地域でも忘れ去られ、朽ち果てていってしまうのではないかと不安になってしまいます。
 今回、地域の方々のご協力で何とか写真と記事を残せたことで、少しでも次世代に受け継がれる一助となれば幸いです。

このページの作成担当

中川区役所富田支所区民生活課庶務担当

電話番号

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ファックス番号

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