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福島正則が語る「堀川と名古屋のものづくり」

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このページを印刷する最終更新日:2019年9月25日

ページID:120247

堀川と名古屋のものづくり紙芝居表紙

福島正則が語る「堀川と名古屋のものづくり」
作 堀川文化を伝える会
絵 むらおか さちこ

紙芝居1ページ目

わしの名前は福島正則。わしは450年ほど前、日本中が戦ばかりしていた頃、名古屋の西の今のあま市で生まれた。豊臣秀吉様の家来になり、秀吉様が死んだ後は将軍の徳川家康様の家来になった。家康様が名古屋の城と町を造るときに、「堀川を掘れ」と命令されたんじゃ。名古屋城の石垣を造った親友の加藤清正は、みんなよぉ知っとるようだが、堀川を掘ったわしのことはあんまり知らんようじゃなあ。今も盛んな名古屋のものづくりは、堀川あってこそじゃ。これから堀川と名古屋のものづくりについて話すから、よく聞いておれよ。

紙芝居2ページ目

400年ほど前、家康様は名古屋に新しい城と町を造ることになった。城や町を造るのに必要な、材木、石、瓦のような重くて大きなものを運ぶには船が一番じゃ。その頃の名古屋には船の通れる川がなかったので、わざわざ堀川を掘ったんじゃ。できたばかりの堀川は、名古屋城と熱田の海の間、約6kmの長さだった。大きな機械やトラックがない時代に大勢の人を集めて堀川を掘ったんじゃ。それから元の城があった清須という町から、侍だけでなく、商人、職人、寺、神社など、名古屋へ引っ越してきた。新しくできた名古屋の町は、みんなが住みやすいように、南北の道も東西の道も全部真っ直ぐ(碁盤割)にしたので、商人や職人たちも喜んで移ってきたんじゃ。

紙芝居3ページ目

堀川が出来ると、町の人の暮らしを支える米や塩、みそなども船で運ばれるようになった。こうして堀川を通る船が、名古屋の大発展の源となっていくんじゃ。堀川の両側には、船で運んできた物を売る大きな店が立ち並ぶようになった。東側は材木店が多く、どの店先にもたくさんの材木が立てかけてあり、その下の堀川には、柱や板にする前の丸太が何本も浮かべてあった。西側には米、塩、みそなど生活に必要な食料、海産物などを扱うお店が並んだ。堀川には全部で7つの橋(北から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋)が架けられ、今も堀川七橋と呼ばれておる。橋の両側には荷物の積み降ろし場が造られ、運ばれてきた品物を求めて大勢の人が集まるようになった。

紙芝居4ページ目

この絵を見て欲しい。大きな丸い枠の中で、職人が鑓鉋という刃物で材木を削っておる。遠くに小さく富士山も見える。これは富士山の絵を何枚も描いた、葛飾北斎という人の絵じゃ。場所は名古屋、東別院近くの富士見町だと言われておる。
名古屋の殿様がよい材木が伐れる木曽の山を持っていたから名古屋は材木の仕事が盛んだったのじゃ。堀川にある材木は、山から筏に組んで、木曽川から海へ、海から堀川を遡って名古屋まで運ばれた。名古屋のものづくりは、材料となる材木が豊富にあったこと、船の交通が便利な堀川があったのが始まりなんじゃ。

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丸太から柱や板に加工する仕事を木挽きというが、堀川沿いには木挽き職人がたくさんいた家を建てる柱や板として木材が使われていたが、暮らしに必要なものは何でも木から作るようになった。提灯や団扇、箪笥や机など、みんな木から職人が手作りした。
木から作ったもので名古屋がどこにも負けないのは、仏壇や祭りの山車、からくり人形じゃ。名古屋の仏壇は豪華で、細かい彫刻は長年修行しないとできないし、祭りの山車にからくり人形を載せたのは名古屋が初めてじゃ。またからくり人形は複雑な木の歯車や鯨のひげを使ったゼンマイを組み合わせて動き、お茶を持ってくるんじゃ。材木からものを作るわざは、長い間にたくさんの職人に伝えられ、名古屋のものづくりはますます発展していくんじゃ。

紙芝居6ページ目

明治という時代になると、電気、鉄道、機械など、外国から新しいものがどんどん入ってきて、船も手漕ぎからエンジンで動くものになった。
堀川にも新しい船会社や倉庫会社ができ、堀川の交通はますます盛んになった。堀川沿いに西洋式の医学校ができ、発電所(水主町発電所)もできた。
また北の方へも新しく川(運河)を掘って、犬山から堀川まで船が来るようになった。名古屋の北の農家が作った繭を、船で運ぶようになり、繭を紡いで糸を作る大きな紡績工場がいくつも建った。紡績は名古屋を支える大きな産業になっていった。

紙芝居7ページ目

明治の終わりまで海の玄関は宮の渡しがある熱田の港だった。名古屋の産物を世界に広めるには、大きな船が泊まることができる港が必要だった。そこで大きな船が入れるように海底を浚渫(土砂を掘って水深を深くする)して、1907年に名古屋港が開港した。名古屋港ができると、名古屋の産物は外国へも売られていくようになった。その代表が紡績工場で作られた生糸や、皿や茶碗などの瀬戸物(陶磁器)だ。瀬戸電が開通し、瀬戸から堀川を通って名古屋港まで行けるようになった。それから海外向けの瀬戸物がたくさん作られるようになった。外国航路と繋がった堀川は、ますます艀船でいっぱいになっていったんじゃ。

紙芝居8ページ目

堀川は海と高さの違いがほとんどないため、満ち潮では海の水が入り込み、引き潮では川底が浅くなり船が通りづらくなる。そこで新しい運河を造ることになった。水の高さが一定の「中川運河」は、1930年に完成した。堀川と中川運河の間にも水門を造った。閘門式運河の松重閘門だ。閘門の仕組みは、水門を2つ造って、海から川へ水が入らないようにする。海側の水門を開け、川側の水門を閉じると、水は海と同じ高さになる。海側の水門を閉め、川側の水門を開けると、水は川と同じ高さになり船が通れるのじゃ。残念ながら今は松重閘門は塞がれているが、中川運河の名古屋港口は、水の高さが変わる閘門の面白さが今でも体験できる。

紙芝居9ページ目

細かい部品や組み立てのわざは、機械やコンピュータ部品など様々なものづくりに応用された。手作業の機織り機の研究を重ねて、自動織機が発明されると紡織工場がいくつもできた。今では紡織に代わって、飛行機やロケットに使われる素材が作られておる。陶磁器は今も盛んだが、新しい製品「ファインセラミックス」もできた。最初は木を車体にした電車や自動車造りは、大型で複雑なものに変わり、今では自動車や新幹線を支えておる。江戸時代から始まった名古屋のものづくりは、豊富な木材と、それを加工するわざが時代を越えて伝わるとともに堀川を中心とした水上交通により大いに発達し、今へと繋がってきたんじゃ。

紙芝居10ページ目

堀川ができて400年余り経った。納屋橋の近くにわしの銅像ができて、「堀川の父が帰ってきた」と言う者がおるようじゃが、わしなんぞ父でもなんでもない。堀川こそ「名古屋の母」と呼ぶべき川よ。名古屋の生活とものづくりの両方を支えてきた大切な水上交通路、堀川なしに名古屋の発展はなかったんじゃから堀川が名古屋の発展にどれだけ関わってきたか知って欲しい。堀川の大切さをみんながきちんと理解して、将来どうしていくか考えるのが大切なのじゃ。堀川を掘ったわし、福島正則は、これからも堀川を守り続けていって欲しいと、いつまでも、いつまでも願っておる。

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