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鳴海東部周辺のみどころ一覧3

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このページを印刷する最終更新日:2018年10月5日

ページID:52406

鳴海東部周辺のみどころ一覧3

豊藤稲荷神社(とよふじいなりじんじゃ)

嘉永4年(1851年)朝日山と称した小高い丘に創建された。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・猿田彦命・大国主命・事代主命を祭神とし、伏見稲荷を勧請したお社で招福除災・財福の神様である。昭和30年(1955年)頃は山の中の一軒家であったが、今は住宅地に囲まれている。昭和53年(1978年)に近代建築の社殿にし、稲荷では県下有数の建造物である。境内に奥藤大神社、秋葉杜などの末社・社務所・神社会館があり、沢山の絵馬が奉納されている。

融傳の泉の碑(ゆうでんのいずみのひ)

「尾張名所図会」や「張州府志」に次の言い伝えが書かれている。昔東郷町祐福寺の第四世融傳永乗が信仰していた熱田神宮に参る道中に一匹の狼が現れ大きな口を開けて和尚に向かってきた。良く見ると喉に骨がつかえて苦しんでいる。それを取り除いたら狼は喜んで山中へ姿を消した。その後和尚がいつもの山越えのとき急に喉が渇き錫杖で地面を叩くと清水が湧き出し喉を潤すことができた。その後この清水が道行く人々に大変喜ばれ融傳の泉として石碑が建った。石碑は近年の住宅開発中、元の場所に近い神沢南公園の北側に新しく台座を設けて建立された。

相原の庚申堂(あいはらのこうしんどう)

諏訪社の東で鎌倉海道に庚申堂があり、手水鉢に観音堂と同じ「天保十二年丑三月」の銘が刻まれている。建立は日露戦争の頃といわれているが、詳しいことは不明である。

相原の諏訪社

創建は不詳で神ノ倉の熊野社が古くからの氏神であったが、後に戦いの神として信仰の厚い諏訪明神を勧請した。そのため熊野社を山奥の神ノ倉へ移転し、諏訪上社の祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)が祀ってある。境内に山神社他多数が鎮座している。熊野社はかつて諏訪社の氏子が管理していたが、東部地区が発展して独立した。

浄蓮寺

緑高校の南、鎌倉海道を背に本堂・庫裡・鐘楼・山門がある。天正3年(1575年)以前に今川義元の家人であった本多慶念が万福寺で出家し桶狭間の戦いで敗れた主君の霊を弔うために創建した。最初は中島橋の近くの草庵で光泉坊と称し、天正年間に現在地に移転し、文久2年(1862年)に真宗大谷派となり現在の寺名に改めた。本尊は阿弥陀如来像(伝行基作)。言い伝えによると家康の家臣本多平八郎忠勝の出身地でもある。

後山墓地と道標地蔵

相原郷浄蓮寺の後山墓地のそばの早稲屋(緑高校前のバス停)の三差路にあり、「左なるみ道」「右みや道」と刻まれた道しるべが祀ってある。鎌倉海道が宿地から弘法堂の北を経てこの墓地の南を通り、浄蓮寺の横から諏訪社の表に出て鴻仏目交差点の方へ通じていた。

観音山弘法堂と相原観音堂

緑市民病院交差点から相原郷へ向かう坂の途中に祀られていた弥陀堂で名を弘法堂に変えた。明治初年のとき観音堂(千手観音)は浄蓮寺山門隣接地に移されていたが、平成20年元の場所に観音堂を新築し移設された。手水鉢には「天保十二年丑三月」の銘が刻まれている。

鎌倉海道

鎌倉海道は源頼朝が建久3年(1192年)鎌倉幕府を開いた頃にできた。畿内の京より遠く離れた鎌倉で全国を支配するため幕府が全国へ通じる道を新設でなく、古来からの道を生かし、地域の主要道をつなぎ整備した道である。鎌倉海道という古道は本来京・鎌倉往還又は東海道といわれたものである。街道が機能した当時は鎌倉海道とは呼ばれておらず、江戸時代の戯曲「小栗判官と照子姫」では美濃までこの街道を落ちのびたので小栗街道といわれた。近世諸街道が整備されるにつれ、それまでの鎌倉へ繋がる古道を鎌倉街道又は鎌倉海道と呼称した。

大清水のオヒジリ様

鎌倉海道を濁池から八ツ松の尾根伝いに進むと潮見坂の頂上近くの道端に聖観音菩薩の石像があった。坂を下ると右手に住宅地に入る道があり、最初の住宅の左裏手にオヒジリ様なる聖観音菩薩石像があり、「天保七丙申三月」の銘がある。江戸時代に古道を利用する旅人が安全を祈って建立したもので最近交通が頻繁となり、近くの住宅地に移転した。

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