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大高周辺のみどころ一覧4

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このページを印刷する最終更新日:2017年11月13日

大高のみどころ一覧4

丸根の陸橋

昭和4年(1929年)頃大高西丸根、亀原地区の丘陵地に耕地整理組合によって高級住宅地として開発が始まり、丸根橋、亀原橋 (現在はない)が道路の切通しに架けられ住宅地としてスタートした。

丸根砦跡

鷲津砦の東南700メートルの地点にあり、鷲津砦と同じく信長の築いた砦で標高35メートル、東西36メートル、南北28メートルの楕円状のこぢんまりした砦で一部郭と濠が形を残している。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの時、佐久間盛重が手勢700人で守り、松平元康ら今川勢の軍と激戦したところで鉄砲が使用されたといわれる。この砦の陥落で今川義元は沓掛城より桶狭間をとおり大高城への進路を確実にして熱田をへて清須の織田本拠を攻める手立てを考えていたのであろう。昭和13年大高城跡、鷲津砦跡とともに国の指定史跡となった。

下村の神明社

通称大浜街道東100メートルほどの丘陵地で丸根砦のすぐ北のところに南向きで石灯籠4基が立っている。延元年間 (1336年から1340年)に伊勢志摩より来た下村九郎兵衛が勧請。祭神は国常立尊で下村神明社とも言い下村氏の氏神とされている。

山神社

80糎四面の小祠を鞘堂で覆いを付けた小社で祭神は大山祗命(おやまつみのみこと・大山津見命)。創建は不詳。鞘堂のある社はこの辺りではめずらしい。当社は山仕事、猟師の人達が安全を願って祀ったものである。往年は樹木繁茂し暗い社叢をなしていたが、伊勢湾台風の影響や新幹線が開通したり、近年住宅が建つなどして旧観はなくなった。

長寿寺

始め真言宗に属し長祐寺と称し桶狭間の戦火で焼けたほか創建年代などは不詳。江戸時代になって尾張藩の家老職志水甲斐忠時(宗秀)が祖母長寿院元操尼の遺命により、延宝8年(1680年)尾張藩主光友より援助をうけ (寺域拡張の許可と寺領百石賜る)、天和2年(1682年)一大伽藍を建立。越伝を招聘し中興開山として宇治黄檗山を模倣した多くの堂舎僧坊を造営した。宗派を黄檗宗に改宗、祖母の法名に因み長寿寺と改めた。その後故あって元禄4年(1691年)石梯道雲の代に臨済宗永源寺派になった。本尊は木造阿弥陀如来座像で他に薬師如来像、観世音菩薩像、地蔵菩薩像、文殊菩薩像等がある。志水家の菩提寺で9代から14代までのお墓がある。
また明治21年(1888年)の火災により本堂、庫裡が焼失し、明治31年に再建された。残っていた鐘楼門は大正元年(1912年)の台風で倒壊し、ケヤキ柱の立派な鐘楼門が再建されたが今次大戦で惜しくも焼失した。現在は昭和54年に全伽藍が近代建築に造り替えられ趣を一変させている。
なお文化文政(1804年から1829年)の頃、知多の新四国八十八ヶ所の霊場の87番札所が設けられ弘法堂があり、その他高蔵坊狐のいわれの「高蔵坊稲荷」や境内入り口の右の丘の上に西行庵跡地に茶人下村実栗の「哉明翁寿碑」がある。

大浜街道(県道名古屋碧南線)

県史による明治12年(1879年)の国県道一覧表によれば常滑街道の大高から分かれ、(大橋の北交差点)・大府・緒川・刈谷・高浜・新川・大浜に達する道路。大浜、高浜の三河湾沿岸部から名古屋方面を結んだものである。東海道線が開通すると所々に踏切があり、明治39年に常滑街道が千鳥橋経由に付け替えられたため、起点が鳴海の旧東海道に移され、大正13年から15年にかけて鳴海町作町の三差路から大高駅の東まで幅7.3メートルの新道が完成したが、現在の様に大高駅の東から長寿寺を通り西丸根方面に抜けるルートができたのは昭和の10年代になってからである。

込高新田(こみだかしんでん)

この地名は宝永(1704年から1711年)の頃に込高新田と名が付いたと言われる。江戸時代末期には込高新田という村があり、明治11年(1878年)に大高村に合併された。正保2年(1645年)の税制改革「四つ概(よつならし)」の際に縮高となった給人(大高では志水甲斐守)に対して、知行不足分として新たに新田(給知)を与えたことを込高という。江戸初期より天白川下流地域が藩の許可を受け干拓された新田の中で、志水家が延宝8年(1680年)より干拓を始め、天和2年(1682年)に完成し、一旦は上がり新田(蔵人地)となったが、宝暦2年(1752年)に志水甲斐守に与えられたと尾張徇行記に記されている。さらにまわりの新田を知行地とするために、文化12年(1815年)従来給知となっていた他郡の給知を蔵入地として差し出して交換してもらい、新たに込高新田とした。近年干拓の締め切り堤防の発掘調査が行われた。隣の寅新田の一角に込高津島社、秋葉社、弘法堂、青峰山観音が祀られている。

平野遺跡

昭和39年以降の調査(表面採集)で氷上姉子神社の東、標高20から30メートルの丘陵上畑地の10数箇所地点で大きさ3から7糎の先土器時代の小型石器が壱1,000個余採集され鼓打器末期(1万年前から三万年前)のものと推定されたが、現在は宅地と化している。

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