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大高周辺のみどころ一覧1

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このページを印刷する最終更新日:2017年11月13日

ページID:52381

大高周辺のみどころ一覧1

大高駅

明治19年(1886年)3月1日、県内で武豊・半田・亀崎・緒川・熱田とともに最初に設けられた鉄道駅。当時は単線で駅舎はなくホームが一本あるのみ。切符の販売は駅前の個人宅に委託されていた。その後明治22年に東海道線が全通し、駅舎がいつ整備されたかはわからない。明治40年には複線になり、利用者は徐々に増えつつあった。昭和10年(1935年)大日本紡績(現ユニチカ)が誘致されると専用線が設置され、駅舎の改築がなされた。昭和28年には念願の電化が完成。煤煙から解放され、昭和37年に新幹線工事につき橋上駅に。それまでは町屋の主力は西側にあるのに東口しかなかったが、東西自由通路ができ、便利になった。昭和53年高架化されたときに駅前が整備され、現在の駅に作り直された。

秋葉社

秋葉社の写真

祭神は火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)で創建は不詳だが、社寺明細帳には寛成12年(1800年)の勧請。しかし常夜灯の銘には明和7年(1770年)になっている。昔から大高は火事が多く、村民が恐れていたため、防火の神である秋葉社を最も賑やかなT字路のこの土地に祀ったのではないかといわれる。このあたりに江明市場(よめちば)が立ち、宝永(1704年から1710年)の頃から馬市や諸商いが、春秋に2回30日間ずつ行われ、享保17年(1732年)頃から六斎市(月に6度日を定めて市を開く)が許された。この付近を単に「辻」とよび大高の中心であった。また大高の祭事の際にはここに集合して出発、解散するところである。

大高城跡

大高城跡の写真

大高城跡は寛文相々覚書によると標高20メートル、東西106メートル、南北32メートルの台形の丘で四方に二重の濠があったが、現在は土居、内濠とも形態はほとんど認めがたい。古くは天白川の北方は年魚市潟といわれこの地からの景観は絶景であった。築城年代は不詳であるが、永正年間(1504年から1521年)の頃に土岐氏の守護代出の花井備中守が、天文・弘治(1532年から1557年)の頃には知多郡東浦の水野忠氏・大膳父子が居城した。桶狭間の戦いの直前に鳴海城主山口左馬助に攻められて落城。今川方の鵜殿長助の支配下にあり、織田信長が鷲津・丸根の砦を築いて対抗したが、松平元康(徳川家康)が弱冠17歳で兵糧入れに成功したのは有名。合戦後元康は岡崎に帰り、廃城になった。その後元和2年(1616年)志水忠宗(1574年から1626年。徳川義直公の母相応院の兄)が尾張藩の家老(一万石)として城跡に居宅を設け明治3年(1870年)に廃した。昭和13年に国指定の史跡になった。本丸西端に鶴岡八幡宮を勧請した城山八幡宮があり、寛文10年(1670年)に志水甲斐守が寄進した石灯籠がある。

氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)

氷上姉子神社

熱田神宮の摂社で祭神は尾張国を開拓した天火明命(あめのほあかりのみこと)の末裔国造乎止与命(おとよのみこと)の女(むすめ)で宮簀媛命(みやずひめのみこと)。熱田神宮との関わりは日本武尊から預け授かった草薙剣を一族の斎場だった熱田の地に奉安されたことにはじまる。当社は宮簀媛命の館趾(現在の末社元宮)に創設。持統天皇4年(690年)に現在地に遷座された。氷上山の一帯に広大な5.9ヘクタールの境内があり、貞享3年(1686年)五代将軍綱吉が社殿を造営。現在の社殿は明治26年(1893年)熱田の別宮八剣宮の本殿移築、拝殿は名古屋離宮の仮賢所を昭和8年(1933年)に移築したものであったが、昭和61年(1986年)拝殿は改築され、古より大高町の氏神として敬われている。境内には元宮・神明社・玉根社の末社がある。玉根社は一説には古墳の跡といわれ、少彦名命が祭神で医薬・酒造りの神様でこの地では信仰が厚い。かつては眺望のよい景勝地で巨木老樹の繁茂した社叢があったが、国道23号線で一部開発され昔の面影はない。
例祭は10月第一日曜日で各町内より傘鉾車、猩々が奉納され、5月6日の頭人祭では昔の鷹狩りで奉納されていた鷹の代わりに鷹の絵馬を奉納する行事がある。また6月第4日曜日に行われる大高斎田御田植祭が近年有名である。

熱田神宮大高斎田の御田植祭と抜穂祭

氷上姉子神社境内の熱田神宮大高斎田で毎年6月第4日曜日に御田植祭が古式豊かに執り行われている。この地では昭和8年から休みなく続けられており、明治以降戦後まで熱田神宮斎田であった瑞穂区神穂町の御神田が都市化によって田植えができなくなり、今ではここの御田植祭のみである。揃いの衣装で田植歌に合わせて田舞を奉納し田植えをしている。また抜穂祭は9月28日に取り入れる祭りが行われ、収穫米は熱田神宮の本宮始め各社の年間の祭典用神饌として供えられる。

寝覚の里

寝覚の里の写真

明治43年熱田神宮の角田忠行宮司が日本武尊と宮簀媛命の故事にまつわる碑を建てた。この地は昔は海で潮が打ち寄せて朝な朝なに海潮の波音に寝覚められたというロマンスがある。碑文には「大高の里わぶなるこの寝覚めの地名は千八百年の昔、倭武天皇(日本武尊)の火上の行在所に居られし時、朝な朝なに海潮の波音に、寝覚し給ひし方なる故にかくいい効はせるものならん云々。」と書かれている。

酒蔵

大高の酒蔵のある町並み

現在大高には萬乗醸造・神の井酒造・山盛酒造の三軒の酒蔵がある。大高に酒造業が生まれた起源は詳しくわからない。江戸時代の元禄10年(1697年)に酒株の制度が敷かれ村内で200石で、将軍綱吉の時代には全国に運上金が賦課されかなり重税であったが、その後石高によって1石に付き銀5匁を冥加金として上納させたが、尾張藩では藩財政逼迫のため100石に付き150両で新株を無制限に許可した。そのため新蔵が続出し、かなり生産量があがり、鳴海の下郷家の千代倉のように遠く江戸まで樽船で運ばれた。明治となって石高制になり明治18年には9軒の酒蔵があり4500石の生産があった。

大高川

大高町の中央部を東南から西北に水源を水主ヶ池に発し、蛇池からの瀬木川を合流し街の中央を流れ扇川に注いでいる。かつては水運として利用され大橋付近には舟戸町という船頭や船問屋を家業とする集落があった。下流より新大高橋・大高橋・念仏橋・大橋・門田橋・菊井橋などがある。

薬師寺

元禄7年(1694年)春江院五世愚徹が開基、本尊は伝湛慶作の薬師瑠璃光如来像で秘仏、16年毎に御開帳される。古来薬師堂と称し長い間尼寺であった。観音堂、弘法堂が境内にあり、最近念仏橋の袂にあった青峰観音が安置されている。春江院の末寺。

西口地蔵尊

折戸の三角辻にお地蔵さんがあり、鳴海からの旧知多郡道 (常滑街道)の道標がある。左ひらしま (東海市荒尾の一部江戸時代の平島村)右よこすか (東海市横須賀町)と記されている。地蔵、御手水鉢に文字らしきものが彫ってあるが判読できないため不明。この辺りは砂州の一部で南に折戸・儀長墓地がある。

観音寺の古井戸

萬乗醸造から春江院への坂道の途中右手に、かつては豊富で奇麗な伏流水が湧いていた古井戸がある。この辺りの家庭ではこの井戸の水を利用していた。この地に廃寺の観音寺があったのでその名がある。また、つい最近までは酒造りの水として使用していた井戸が4本ある。平成19年近くの萬乗醸造の建物群とともに、国の登録文化財になっている。

東昌寺

創建は不明で大高城大手門近くにあったが、春江院の末寺となり、春江院四世雪嶺本積が中興の開山で寛文6年(1666年)現在地に移転したといわれている。本尊は聖観世音菩薩座像で観音寺の井戸より拾い上げたものと伝えられている。平成8年3月本堂が建て替えられ水子供養地蔵尊が建立された。

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