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中区の歴史(キッズなかく)

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このページを印刷する最終更新日:2016年4月1日

ページの概要:中区の成り立ちや区のがい要について、分かりやすく紹介します。

名古屋のたん生

徳川家康と名古屋城のイラスト

 今からおよそ400年前の慶長(けいちょう)15年(1610年)。徳川家康(とくがわいえやす)が、名古屋城の建せつを始めました。名古屋城の建せつには、加藤清正(かとうきよまさ)などの、大名(だいみょう)とよばれた武士たちがたずさわっています。家康は同時に、お城の南側に大きな城下町(じょうかまち)をつくりました。このまちは、清須(きよす)から、人、家、寺、神社、町名までをまるごと持ってくるという、大がかりな引っこしによってつくられたものです。これを清須越(きよすごし)といい、これによってつくられた碁盤(ごばん)の目のように正方形に区切られたまちを「碁盤割(ごばんわり)」といいます。碁盤割の区画は現在も引きつがれており、寺や神社、通り名など、中区内には400年前のなごりがたくさんあります。

中区のたん生

 中区は、今からおよそ100年前の明治41年(1908年)にたん生しました。そのころの名古屋市は、下の地図1のように東、西、南、中の4つの区に分かれていました。この後、近くの町や村が名古屋市に組み込まれて少しずつ区がふえ、昭和50年(1975年)には、その下の地図2のような16の区になりました。
増区前の4区

地図1:4区制(明治41年)
「なごやの町名」(名古屋市計画局 平成4年3月31日発行)より

16区制地図

地図2:16区制(昭和50年)
「なごやの町名」(名古屋市計画局 平成4年3月31日発行)より

 明治時代以後、中区には路面電車が走り、デパートやげき場が建ちならぶなどして、とてもにぎやかなまちになりました。

中区内を走る路面電車の写真と、中央バザーの写真

左:中区内を走る路面電車(名古屋市交通資料センター蔵)
右:久屋大通と広小路通の交差点の北西角にあった中央バザー(名古屋市市長室広報課蔵)

第2次世界大戦と戦後ふっこう

 名古屋のまちは、戦争中に何十回もばくげきを受けました。中区でも昭和20年(1945年)3月には大須観音(おおすかんのん)、5月には名古屋城の天守閣(てんしゅかく)がひ害にあい、面積の5分の3が焼け野原になってしまいました。

戦争で焼け野原となった中区の航空写真

終戦直後、昭和21年(1946年)ごろの市街地中心部
矢場町交差点から
(公益財団法人 名古屋都市センター蔵)

 戦後になると、さまざまなふっこう事業が行われました。久屋大通公園やテレビ塔が建設されたのもこの時期です。ところでみなさんは、久屋大通のはばが何メートルあるか知っていますか?答えは、およそ100メートルです。これだけのはばがあれば、火災が広がるのを防いだり、広い道路の中央の公園を、災害のときなどにきん急のひなん場所として利用したりすることができるのです。

 ほかにも、戦後のふっこう時には名古屋テレビ塔や名古屋城の天守閣(てんしゅかく)など、中区のシンボルとも言えるしせつが建せつ・再建されました。中区は現在、中区民のみならず名古屋をおとずれる大ぜいの人々に親しまれる地いきとなっています。

建設中の名古屋城の写真

建せつ中の名古屋城(昭和34年 市長室広報課蔵)

建設中の久屋大通の写真

建せつ中の久屋大通(右下)
※左おくには名古屋城が見えます。

現在の中区

中区役所屋上から中区を撮影した写真(北、西方向)

左:中区役所から北を見た風景
右:中区役所から西を見た風景

中区役所屋上から中区を撮影した写真(南西、南東方向)

左:中区役所から南西を見た風景
右:中区役所から南東を見た風景

中区役所の屋上から中区を撮影した写真(東方向)

中区役所から東を見た風景

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