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ご存じですか?八マーク

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このページを印刷する最終更新日:2005年4月4日

ページの概要:八マークの説明

八マーク

家に家紋があるように、都市にはその都市のシンボルマークともいうべき市章があります。その多くは、都市名を図案化したものですが、中には都市の歴史や土地柄を物語るユニークなものもあります。名古屋市の市章である八などはその一つといえるかもしれません。

八は尾張徳川家の合印

國候行列之図(一部)名古屋市史政治編第二の挿し絵より

○に八の字を書いて。都市のシンボルマークとしては一風変わった意匠ですが、これが名古屋市の市章です。制定されたのは明治40年10月のこと。明治40年代には神戸市や横浜市でも市章が定められており、当時は市を表象するマークを制定しようという動きが各地にあったようです。
 折しも名古屋は、名古屋港の開港、市制20周年を間近に控え、市勢の発展ぶりを内外に示そうという気運が高まっていました。
シンボルマークの制定にはうってつけの時期であったわけです。

制定に当たっては、懸賞募集で各方面に意匠を求めました。しかし、適当な図案がなく、議論百出の末、最終的には尾張徳川家の合印(注1)として用いられていた マークを採用することになったといわれています。
制定の経緯は定かではありませんが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、名古屋の歴史を大切にしながら、新たな発展を期そうという思いがあったようです。

(注1) 合印
…一般的には、他者と区別するための印。丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。また元治元年(1864年)、14代藩主・徳川慶勝が上京した際には、藩令で随伴の者に丸八印の木札を腰に下げることが命じられ、同時に家臣の提灯に同様の紋を付けることも定められた。

八の意匠のいわれ

八マークが尾張徳川家に由来することは間違いありません。それでは、なぜ尾張藩が用いるようになったのでしょうか。いくつかの説がありますが、主なものは次のようなものです。
尾張八郡(尾張藩政下に置かれていた愛知・春日井・葉栗・丹羽・中島・海東・海西・知多の八郡)の八に由来する
尾張の片仮名表記である「オハリ」の「ハ」に由来する
尾張藩士・安部(または阿部)八兵衛(注2)が常用していた提灯の八の字に由来する
清和源氏の流れを汲む尾張藩が、先祖・八幡太郎義家の定紋である「向い鳩」(注3)を型どり、丸に八の字の紋を作ったことに由来する

残念ながら、いずれも牽強付会の難をまぬがれませんが、尾張の歴史や逸話を踏まえた興味深い説といえるでしょう。

(注2) 安部(または阿部)八兵衛
…尾張藩の腰物奉行で、自分の名の八の字を記した提灯を常用していた。江戸勤番で下町などに赴くと、「尾張の八だ」と人々が見知るようになり、これが広まって、いつとはなしに尾張藩でも丸八印を合印として使用するようになったという。

(注3) 向い鳩
…明治40年10月15日付の大阪朝日新聞号外に「……徳川家における丸八の紋所の由来を聞くに、尾州家は清和源氏の流れであるから、先祖・八幡太郎源義家の定紋鳩の番(つがい)を向かい合わせたのを形どり、○に八の字の紋をつくり……」との記述がある。

現在も愛用されている八

市バスのヘッドマーク

八マークは現在でも市内各所で見ることができます。市民の足となっている市バス・地下鉄の車両、消火栓や下水道のマンホールの蓋、商店の営業許可書…、変わったところでは名古屋城二の丸茶席にある「金の茶釜」(戦災で焼失した金鯱の残塊で造られたもの)にも八印が陽刻してあります。

下水道マンホールの蓋

また、「マルハチ」「まるはち」「丸八」といった屋号や社名を持つ店舗も、市内には数多くあります。職種も、うどん屋、寿司屋、クリーニング店、肉屋、酒屋、商事会社、タクシー会社、材木店……など、挙げればきりがありません。命名のいわれを尋ねてみると、「名古屋市にあやかった」「名古屋一番の立派な店にしたかった」という声が大多数。マルハチは今も、末広がりのお目出度いマークとして市民に親しまれ、愛用されているといえるでしょう。

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